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言ノ花庭園  作者: シイナ ユー
ボーイミーツ・フラワーガール
3/5

前編

 太陽の順番が回り、外を明るく照らし出す。真上に昇る頃には草木にまんべんなく光を与え、草花は誇らしげに顔を上げて輝きを返した。心地よい風が吹き抜け、青空には雲が流れる。

 そんなよく晴れた清々しい天気だというのに、とある一軒家のテラスでは、戸もカーテンも閉め切られ、開けられた様子がなかった。せっかくの中庭も静まり返り、空からやってきた小鳥たちが芝生をつつき、時たまソプラノの鳴き声を響かせている。

 一方、テラス戸の向こう側は静に包まれ、白い壁は部屋の明かりを跳ね返し、外と同じくらいの明るさを保っていた。そんな部屋の中で聞こえるのは外の小鳥の鳴き声と、キャンバスを筆で擦る音のみ。


 は、木製パレットに指を入れ支えながら、その上に載せた多種の油絵具を器用に混ぜ合わせて描きかけのキャンバスを彩っていた。描かれているのは幻想的な風景の中で、ピンク色のロリータドレスを着た長髪の少女が、花束を抱えて座り込んでいる場面。そこに一切の抜け目はなく、繊細に、そっと労わるように、泉光の手によって絵はより不思議な雰囲気を帯びた。

 泉光は時たまキャンバスから目を離し、イーゼルの後ろを覗くように見たあと、再びキャンバスと向き合うことを繰り返す。彼の視線の先にいるのは、絵と同じ色、同じ形のドレスを着て、描かれている少女と同じように花束を抱えているひなだった。どうやら、絵の少女は花乃をモデルとして描かれているらしい。

 花乃は花束を持ちながら、動かないようにその場に座り込む。身じろぎ一つせず、ぼんやりと前を向き続けるその姿は、精巧に作られたフランス人形を彷彿とさせた。泉光は目を向けるたび、じっと動かずにいる花乃に目を細め、笑みを浮かべる。


「可愛いよ、花乃」


 花乃は動くことなく、垂れ目は伏せられ、呼吸が深くなると慌てて背筋を伸ばすことを繰り返した。しかし、それも五分後には前のめりになっていき、座り込んだ体勢のまま、こくんと頭が垂れ、反射的に顔を上げる。再び花乃に目を向けた泉光も流石にその様子に気が付き、首を傾げた。


「ひな?」


 呼ばれ、花乃は開けることで精一杯の目を泉光に向けるが、すぐにまた瞼の重さに耐え切れずに目を細め、視界がぼやけていく。泉光は椅子から立ち上がると花乃に近づき、目の前で片膝をついてしゃがむ。壊れ物を扱うように頭を撫でてやれば、花乃は心地よさに身を任せて深く息を吐いた。


「どうしたの? もしかして、眠い?」


 花乃は頷くと同時にこくりと前のめりになるとそっと泉光に支えられた。泉光は立ち上がり、花乃を抱き上げる。幾重にも重なったドレスのレースがふわりと持ち上げられ、横抱きにされた小さなお姫様は安堵に表情を和らげる。


「今日はお昼寝にしよう。ゆっくりおやすみ、僕の可愛いお姫様」


 小さく頷いたと思うと、花乃の持っていた色とりどりの花束が白いケシの花一色に変わっていく。白いケシの花言葉に「眠り」という言葉がある。「おやすみなさい」と伝えたいのだろう。花束が白ケシに変わったすぐあとに、花乃はすやすやと寝息を立てて眠り始めた。両手で花束を持ち、眠る様子は白雪姫や眠れる森の美女を彷彿とさせる。

 泉光は花乃をそっとベッドへ運ぶ。そっと寝かせると、小さな花乃には大きすぎるシンプルなベッドが、王室の寝台のように華やかに感じられた。安らかに眠る様子に泉光は穏やかな笑みを浮かべる。小さな両手から花束を取り上げ、サイドテーブルに置いたあと、花乃のふっくらとした柔らかな頬を軽く指で突き、そっと撫でた。


「ひなちゃん、泉光、お昼よー」


 二人を呼びながら部屋に入ってきた樹季いつきは、紫のメッシュを入れた少し長めの黒髪を後ろで束ねていた。朝から作業をしていた部屋の半分を見渡しても誰もいないことに首を傾げ、樹季は再び二人の名を呼ぼう口を開いた。


「静かにして、樹季さん」


 泉光の声が生活のスペースとして使われているほうから聞こえ、樹季は不思議に思い、目を向けた。口元を緩ませながら、眠る花乃を見つめる泉光の姿を捉えると呆れ顔になった。


「いるなら返事しなさいよね、全く……」


 言いながらも三人分の昼食を乗せたお盆を持ちながら、部屋の真ん中にあるガラス張りのローテーブルに置く。それから、樹季は泉光に近づき、そのすぐ隣で止まった。


「ひなちゃん、お昼寝?」


「さっき眠ったばかりだよ」


「朝からずっと動かないで頑張っていたものね。あとでひなちゃんにお礼言いなさいよ?」


「言われなくても、毎日毎時間毎分毎秒、ちゃんとひなを可愛がるよ」


「あんたが言うと犯罪のにおいしかしないわ」


「ひなが犯罪級に可愛いのは知っている」


 花乃を見つめながら幸せそうに笑う泉光に樹季は冷めた視線を送るが、本人は気にする様子もなく未だ彼女の頬を撫でている。少しすると、仰向けだった花乃は寝返りをうち、体を泉光に向け、何かを探すように小さな手を伸ばしていた。


「ひな……?」


 不安そうに、何かを探すように手を伸ばす花乃を見て泉光も不安になり、そっとその小さな手を握った。すると、花乃は安心の笑みを浮かべ、また安らかな寝息を立てる。泉光が握っている手は、彼を握り返していた。


「ひなっ」


 あまりの嬉しさに泉光の目は潤み、花乃の手を握ったまま口元を押さえる。一部始終を見守っていた樹季は、また呆れてため息をついた。


「ったく。人間子ども嫌いのあんたが、いつからひなちゃん依存中毒者になったんだか……」


 呟きながら、樹季は昔の二人を思い出した。今は花乃に依存するように溺愛している泉光と、眠りながらも泉光の手を握り返す花乃に、喚き叫ぶ姿の泉光と、頭を抱えて怯える花乃が重なった。


「……ほんと、変わったわよね」


 今と昔の姿を比べ、この平和な様子に、樹季は知らず安堵した笑みを浮かべていた。



******************



 一年半前



 二十二になった青年はひたすら絵を描き続けていた。画材を選ばず、ひたすら動物や風景、彼独自の世界をキャンバスに描く。幻想的で繊細、今にも動き出しそうな立体感と空間の使い方は、天才と呼ばれるのも納得ができた。しかし、壁に立てかけられたどの絵にも人間は描かれていなかった。多種多様な生き物を描いた森、自然と一体になりつつある廃墟、空に浮かぶ島、海面が輝く海の中、そのどの作品にも人間の姿は影すら見当たらない。

 輝かしく、光が強調された絵を描いている本人の目はどこまでも暗く、目の前の作品以外、何も見えていなかった。希望でもなく、未来でもなく、ただその場を凌ぐように描き続ける姿は近寄りがたく、孤独を思わせた。


「泉光、たまには休みなさいよ。あと、ちゃんと食べなさい。朝ごはんそのままじゃない。今何時だと思ってんの? もう昼よ、昼」


 青年のアトリエを兼ねた部屋に入ってきた、長身でシンプルながらも洒落た格好をした男性は困った顔で、ガラス張りのローテーブルに置かれたままになっている皿に目を向けた。ラップがかけられたまま、時間が経って乾燥し、見て分かるほど硬くなってしまったおにぎりが、手を付けられた様子もなく三つ並べられている。

 男性、樹季は深いため息をつくと、テーブルの皿を持ち上げ、筆を動かし続ける青年、泉光の後ろ姿に声をかける。


「せっかく食べやすいようにおにぎりだけにしたのに。食べ物は大事にしなさい?」


「……ご飯より描きたい絵がある。それだけだよ」


 それがいつもの返事。二人で暮らしてから六年は経つ。さすがにもう慣れたが、やはり今のままでは泉光が衰弱してしまう。


「あんたいい加減になさい? その描きたい絵を描くためにも、ちゃんと食べないと、倒れて描けなくなるわよ?」


「……」


 泉光は返事をしなかった。樹季は泉光の横に立ち、彼が熱心に描いている絵を見た。色とりどりの明るい花畑に、その先まで続く青空が印象的な絵だ。しかし、やはりそこに人間は描かれていなかった。


「……今回もいい作品ね。でも、そろそろ人を描こうとは思わない?」


「人間は嫌いだよ。樹季さんも知っているだろう」


「好き嫌いしてちゃ、いいものも描けないわよ? クライアントからも、あんたの描く人間を見てみたいという方も多いわ。たまに、自画像を描いてほしいなんて人もいるし。そろそろ受けてみない? そういう仕事」


「断るよ」


 即答され、樹季は再びため息をついた。


「あんたねぇ、いい? いつまでも自分の描きたいものだけで稼げるわけじゃないのよ?」


「僕は今まで描きたいものを描いてきた。でも、売れなかったことはない。それは、美術商のあなたが一番よく分かっているだろう? だって、僕の絵を売っているのは、樹季さんなんだから」


「それは、そうだけど……」


「なら問題ないよ」


「そういうことじゃないの! 絵が売れるとか売れないとか、それももちろん大事よ? でもね、新鮮さっていうのも必要なの。今は風景とか動物とか幻想的な景色とか、評価されているけどね?そう遠くないうちに、潮が引くようにクライアントの足は遠ざかっちゃうわ。なぜなら、新鮮味が足りないから。今のうちに“こういう絵も描ける”っていうのを示していかないと」


「……はぁ、分かったよ。分かったから少し静かにして」


 泉光は苛立ち気味にそう言うと筆を置き、そこで初めて樹季のほうを向いた。承諾したことを意外に感じた樹季だったが、泉光がその気になったのなら何でもよかった。


「ようやく分かってくれたのね」


「おっさんのうるさい話しを延々と聞かされていたら嫌でも理解はするよ」


「いい加減、口の利き方には気を付けなさいよ?」


 おっさん、と言われたことに少し皺を寄せたが、ここで噛み付くようなことをすれば、気分屋の泉光がそっぽを向いてしまうことは容易に想像ができた。


「何でもいいけど、僕に人を描かせたいなら、モデルを連れてきて」


「ええ、いいわよ。どんな子?」


「髪の長い十歳の女の子」


「はぁ?」


 思わず声を出してしまった。泉光は人間の中でも子どもが一番嫌いなのだ。


「子ども嫌いの、あのあんたが? 子どもをモデルに?」


「不満があるならやめるよ」


 脅しのように言われ、樹季は口を紡ぐ。


「分かったわよ……口答えすんなってことね」


「分かってるじゃないですか。ちなみに、ただの髪の長い十歳の女児じゃないよ。髪質はやわらかくて少しクセがあって、色は茶色系統、肌が白くてモデル体型。身長は百四十センチ未満で大人しい、顔の整った子ね」


「……は? え、ちょ、何よ、その注文、全部そろった子を連れて来いって!?」


「何か不満?」


「大ありよ! もっとこう、何か妥協は出来ないの?」


「出来ないね。もともと子どもは嫌いだって知っているだろう? それくらい素材がある存在じゃないと描きたくない。見るに堪えないよ」


「だからってあんたねぇ」


「嫌ならやめる。それだけさ」


 泉光の自己中心的な態度や頑固さに、樹季は心労によるストレスで大きなため息をつく。しかし、ようやく泉光が自ら嫌いなものに挑戦しようとしている。そのチャンスを潰してはならない。


「……いいわ。見つけてきてあげる。ただし連れてきたらちゃんと描くのよ? あと、一応は“仕事”としてのモデル探しよ」


「いいよ、約束する。報酬もね」


「じゃあ、アタシは出かけてくるから。新しいキャンバス用意して待ってなさい!」


 意気込んだ樹季は部屋を出ていくと扉を閉めた。見送った泉光はため息をついたと思うと、口元だけ笑みを浮かべ、どこか遠くを虚ろな目で見ていた。


「いるわけないよ。だって、あの人はもう……」


 呟いた泉光は、再び描きかけのキャンバスと向き合い、筆をとって彩り始めた。



 勢いで街に出てきた樹季だったが、腕を組み、頬に手を当てながら途方に暮れていた。


「見つけてくるとは言ったものの、泉光の要望に全部当てはまる子なんて」


 諦めそうになるが、首を横に振り、気合を入れ直す。


「いいえ、あんなに具体的に要求してきたんだから、きっとそんな子がどこかにいたのよ。いないわけじゃないわ。探す前から諦めるなんて、あんたらしくないわよ樹季! よし!」


 自らに喝を入れると、改めて見つけてやるという決意を固める。


「まずは手始めに子どもがいそうなところね。顔の整った肌の白い子なら、芸能関係になら、それなりにいるはずよ。アタシの人脈なめんじゃないわよ……見てなさい、泉光!」


 再び希望を持った樹季は早速スマートフォンを取り出し、知り合いが経営している芸能事務所へ連絡をし始めた。数分の会話の末、許可を得たのか樹季は電話を切ると勝ち誇った笑みを浮かべる。


「ふふふっ、案外楽勝かも」


 浮かれた気分で連絡を入れた事務所に向かう樹季は、泉光からの要望がいかに困難を極めるものなのかを、まだ知らなかった。



 夕方。太陽がその日の役目を終えようと沈んでいくなか、樹季は公園のベンチに座り込み、項垂れていた。


「はぁ~。事務所を六カ所に、児童施設を五カ所、公園その他、子どもの集まりそうな公共施設を数カ所、顔が利く小学校も全滅……。こりゃ重労働どころじゃないわよ、泉光……報酬はきっちり巻き上げてやる!」


 悪くない顔立ちの額に皺をよせ、腕を組み、頭を悩ませる。

 樹季が見てきた先ではそれなりに顔立ちの良い子や肌の白い子、髪の長い子や茶色系統の頭髪の子、身長の小さい子やモデル体型の子はいた。しかし、顔立ちは良いが日に焼けていたり、肌は白いが髪が短かったり、髪は長いが黒髪だったり、茶髪だが活発だったり、小さいが七歳だったり、モデル体型だが身長が高かったりとパーツは持っているがすべてを揃えている少女などいなかった。どれか一つを妥協すれば、あの泉光のことだ。仕事を断るだろう。何としてでも、せめて外見だけでも完璧にそろえた子を用意しなくてはならない。


「って言っても……もう! なんなのよ! なんであんなに拘んのよ!」


 そうぼやいたところで、樹季は気づく。そういえば、泉光が人に対して拘ることなど今までになかった。人間嫌いで人に興味を持たない泉光が、頭の中に既に思い描いていたような人間像を要求してきた。


「まさかあの子、最初から人を描く気だったのかしら」


 考えると、なんとなく先ほどまで感じていた怒りは収まった。泉光もただ好きな物を描いていたわけではない。きちんと頭の中では今まで挑戦してこなかったことに挑戦しようという気持ちがあったのではないだろうか。樹季は考えを巡らせ、気を取り直す。


「ようやくあの子がその気になったんだもの、きっと一人や二人、見つかるはずよ。この街にいないだけで、他の場所にはいるかもしれないし……。とりあえず、明日は違う街の事務所に……」


 樹季が携帯を取り出し、どこかに連絡を入れようと電話帳を開いたときだった。


「申し訳ございません」


 公園の隣の施設から、女性の深刻そうな声が聞こえ、樹季は手を止めてそちらに目を向けた。花壇を挟んでいたために見えにくく、樹季は立ち上がり様子を見る。そこにいたのは、建物の前で頭を下げる眼鏡の女性と、一目で上質なものだと分かるスーツを着込んだ男性。二人は向き合って、何やら深刻な顔をしていた。


「うちでは、もう、子どもを預かることは……」


「もちろん、タダでとは言いません。相応の報酬も用意しますよ」


「そういう問題ではありません! うちには、子どもの面倒を見れるだけの人手と、場所がないんです。

それに、そちらの子はお話によると……」


「分かっています。ただ、うちでももう預かれないんですよ。でも、この子に両親はいませんし、ここに断られたらもうないんですよ」


 男性はそっと、隣にいたらしい小さな少女の背中を押し、前に出した。樹季は目を疑った。

 少しクセのあるベージュ色の髪は膝辺りまで伸び、空気を含んだようにふんわりと風に揺られ、長袖のワンピースを着ているが首元から覗く肌の色は白く、柔らかくも整った顔は悲しげに俯き、遠くからでも分かるピンク色の目は地面を見つめ、小さな両手で本を抱えていた。その姿があまりにも小さく見えたのは、縮こまってしまっているからという理由だけではなく、本当に身長が小さいからだろう。ワンピースの下から覗く小さくもすらりとした脚や幼いながらもあるくびれはモデルのようで、だからと言って病的に痩せているわけではないことはふっくらとした頬や見ただけでもみずみずしいと分かる肌から分かる。

 樹季は目を擦ってまた少女をよく見える。一つも違えることなく、泉光の求めていた人間像を全て揃えている少女だった。


「うちは一時的な保護施設です。もうこれ以上は保護できません。何より、その子には……」


「ちょっといいかしら?」


 考えるよりも先に、このチャンスを逃す理由のない樹季は花壇を隔てて思わず声をかけていた。声をかけられた女性も、少女を連れている男性も、少女も樹季に目を向ける。


「その子、受け入れ場所を探しているんですって?」


「そ、そうですが」


 女性の口調で話をする樹季に、男性は戸惑っているようだったが今は気にしている暇はない。


「ここに入れられないの?」


「ええ。申し訳ないのですが、こちらはもう手一杯で……。お金の問題ではなく、きちんと子ども一人一人と向き合えるだけの人手が足りないので……」


「ふーん。ねえ、あなた、そのお嬢さんは施設じゃないと引き渡せないの?」


「い、いや、そういうわけではないですが、その……この子には両親も親戚もいませんから……」


「そうなの……。ねえ、そのお嬢さん、アタシが引き取ることはできない?」


 突然の樹季の提案に男性はたじろいだ。少女は不安げに樹季を見つめていた。


「そ、そんな、そもそも、あなたはどちら様なんですか?」


「待って、ここからじゃ話がしにくいわ。そっちに行くわね」


 そう言って、樹季は公園を出ると隣の建物に続く道を歩き、三人の前に現れた。


「アタシは通りすがりの民間人。もっと言えば、フリーのデザイナーで、ある画家専門の美術商をしているわ」


「デザイナー? 美術商? そんな方がなぜ?」


「いえ、ちょっとモデルを探していてね。ちょうど、そのお嬢さんみたいな子。うちは家も広いし、部屋もあるわ。お嬢さん一人置いておくのも問題ないし」


「い、いえ、ですが……」


「あなた、その子の顔、ちゃんと見たの? ここで延々と引き取れ、引き取れないって押し付け合いみたいに……その子が何したって言うのよ」


 男性は言葉を詰まらせるが、間をあけてからため息をつき、話を始めた。


「この子は特別なんです。ただの子どもではありません」


「何よ、ただの可愛らしいお嬢さんじゃない」


「違います。彼女は……理解しがたいかもしれませんが、特別な力を持っているんです」


「超能力とか?」


「いいえ。この子は、自身の手に、多種多様な花を自由自在に出すことができるんです」


 樹季は男性に対して変な物をみるような目を向けた。その視線に男性は睨むように返す。


「本当なんです! 彼女は、声は出せますが言葉を話すことができません! 読むことはできますが書くこともできないんです! 人の字や文を見てそれを真似ることはできますが、自分で思ったことや感じたこと、伝えたいことを書いて伝えることもできません。ですから彼女は、その自由自在に花を出せる力を使って、花言葉と身振り手振りで会話をするんです」


「はぁ? よく分からないけど、嘘ではなさそうね?」


「嘘なもんですか! ほら、見せてあげなさい」


 突然、話を振られた少女は体が強張り、怯えるように男性と樹季を交互に見たあと、視線の圧に耐え切れず、震えた小さな手を前に出すと、その手からパッとゼラニウムの花を出した。その様子に、先ほどの女性は小さな悲鳴を上げ、樹季は口元に手を当て、素直に驚く。


「まあ!」


 少女はゆっくりと樹季に近づくと、彼を上目遣いで見上げたまま、先ほど出したばかりのゼラニウムを震える腕で差し出した。樹季はそっと、少女から花を受け取った。


「あら、くれるの?」


 見上げたまま頷いた少女は、またゆっくりと後退した。


「その花は確か、えっと……」


「ゼラニウム、ね」


 名前が思い出せずに頭を悩ませる男性をよそに樹季は答えた。驚いた男性が樹季のほうを見ると、少女が樹季に向けて本を広げて見せているのが見えた。どうやら、渡した花のページを見せているらしい。


「その本、お花と花言葉の図鑑だったのね」


 樹季が優しく言えば、少女は少し安心したのか、頷いた。それから、本の花言葉の欄を指さす。


「えーっと、ゼラニウムの花言葉は……愛情、尊敬、信頼、思いがけない出会い、予期せぬ出会い……

ああ、もしかして、アタシに“思いがけない出会い”って言いたいの?」


 分かってもらえたことに安堵した少女は、初めて微笑み、頷くと、本を閉じて頭を下げた。「初めまして」と言いたいようだった。

 樹季は感心したように笑うと少女の前にしゃがみ、その小さな手を取り、唇で軽く手の甲に触れた。

ほんのりと顔を赤くさせた少女は、今は自分と同じ位置にいる樹季を真っ直ぐ見る。


「初めまして。笑ってるほうが可愛いわよ、あなた」


 少女ははにかみ、しっかりと本を抱きしめ、俯いてしまった。


「うふふっ、可愛い。ねえ、あなた、お名前は?」


 聞かれた少女は困ったように辺りを見渡すが、どうしようもなくなり、挙動不審になる。


「その子は、花にすなわちと書いて、花乃です。私はあとから知り合ったのでどういう経緯かは知りませんが、その名前とその子だけが残されていたそうです」


 答えられない少女に代わり、男性は答えた。立ち上がった樹季は、改めて男性と向き合う。


「花乃ちゃん、ね。ところで、あなたはこの子とはどういう関係なの?」


「私は研究員です。その子の花を出す不可思議な力について、研究していました。しかし、花を出す以外の力もなく、特に新しい種類を作り出せるわけでもなく、害をなすわけでもないため、研究の必要がなくなったんです。うちで預かったままということもできないので、こうして受け入れ施設を探していたんです……」


「そう。ようは厄介払い? 自分勝手なのね」


 男性は反論できずに俯いた。花乃の本を抱きしめる力も強くなる。


「仕方が、ないんです」


「ま、あなたたちにも事情ってもんがあるんでしょうね? アタシがとやかくいうことではないわ。でも、その子にだって選ぶ権利がある。大人の事情で研究されて、大人の事情で厄介払いなんてたまったもんじゃないわよ」


「……」


「結局、ギリギリになって受け入れ先を探してるだけじゃない。どこだってよかったんでしょ?」


 何も言えずに俯き続ける男性を花乃は怯えた目で見上げた。その視線に気がつき、自分に恐怖した様子の花乃に哀れむような、同情するような目を向けた。


「……その、通りです。言い訳は、できません」


「そこのレディもレディよ。この子に不思議な力があることにあんな声ださなくてもよかったんじゃない?」


 ずっと黙っていた女性も話を振られ、そう言われれば何も言い返せなくなり、申し訳なさそうに俯いた。その様子に呆れた様子の樹季は、最後に花乃に目を向ける。


「ねえ、花乃ちゃん。よかったら、うちに来ない? ちょっとおかしなやつが一人いるけど、悪い子ではないの。あなたなら、もしかしたら仲良くなれるかも?」


 花乃は目を見開き、樹季を見上げた。ゆっくりと腕を伸ばそうとした瞬間。


「そ、そんなどこの人かも分からない人に、預けられませんよ!」


 阻むように男性が声を上げた。それに樹季は腰に手を当て、冷めた視線を送る。


「あなたねぇ、それが自分勝手っていうのよ。それを決めるのはあなたじゃない。アタシはお誘いしてるだけ。分かる?」


「ですけどっ!」


「あー」


 男性がまた何かを言おうとした瞬間、子どもの可愛らしい声が聞こえた。驚いた大人たちは、ゆっくりと花乃に目を向ける。花乃は大人たちを見上げながら、口を開けていた。


「あー」


「花乃ちゃん? 何か言いたいことがあるの?」


 花乃は頷くと、ゆっくりと樹季の前に歩み寄り、手を伸ばした。


「うー」


「……一緒に、来る?」


「うー!」


 花乃は笑顔になり、頷いた。樹季はゆっくりと、花乃の小さな手を取り、繋ぐ。


「と、この子はアタシたちのところに来たいみたいだけど」


「あ……いえ……」


「安心しなさい。この子はちゃんと面倒見るわ。約束する。ニュースかなんかでアタシが子ども虐待とかなんとか流れたら、その時はアタシを遠慮なくどうとでも言いなさい。でも、アタシはこの子を気に入ったから、ちゃんと、自立できるまで面倒見るわよ」


「は、はぁ」


「じゃあ、そういうことだから。あ、そんなに心配ならこれ、あげるわ」


 樹季がポケットに手を入れ、取り出したのは連絡先が書いてある名刺だった。押し付けるように男性に渡すと、花乃の手を引き、歩き出す。


「気になったら連絡ちょうだい。ついでに、もしデザインの仕事かなんかあるなら、どんどん寄越しなさい。これでも、腕は確かなんだから。じゃあね」


 花乃を連れて颯爽と去っていく姿に男性も女性もその背中を見送ることしかできなかった。立ち去る前に、花乃は樹季と手を繋ぎながら後ろを振り返り、小さく別れの手を振った。それに男性も思わず手を振り返す。そのうち、樹季と花乃の後ろ姿は遠のいて行き、残った男性も我に返ると施設の女性に頭を下げ、その場を去った。


 これが、ひねくれた青年と不思議な少女の、ボーイミーツガールの始まりになるのだった。


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