5 帰天
アイルは手帳を知った。その手帳は決して拾ってはいけないものだったから始まりの地がガタつき始めた。聖書を書き換えることのできる権限を持ったアルマは、もう、何に縛られることのない存在だった。アダムとイヴが存在することもしなかった。新約聖書に収められているヨハネの黙示録の最後の文字から消えいき、旧約聖書の創世記まで達したとき、アルマはようやくアルマ(Alma)という名の意味を気付いた。オーケストラではチューニングはオーボエのAから始まる。そしてそれが永遠に繰り返されるのだ。精神空間は完全に壊れた瞬間、美しいソプラノの音が聴こえたのだった。アイルが願ったのは過去を知ることだった。そしてアルマが願ったのは未来を知ることだった。もう、現実と架空の区別がつかなくなった。それはいま生きている人間が誰もが知った朝かもしれない。メンデルスゾーンが死後の世界で完成させたオラトリオ「キリスト」が演奏されていた。神学書院が完全に崩壊した瞬間だった。アイルはあと少しで完全に崩れるだろう。そしてアイルに仕えることのないアルマは帰天することが定まったのだ。そこにはソクラテス、プラトン、アリストテレス、マルクス=アウレリウス、ボダン、ビトリア、グロチウス、カルヴァン、ツウィングリ、キケロ、トマス・アクィナス、セネカ、アウグスティヌスと言った神学者、法学者、哲学者がせいぞろいして「世界はいつ始まったのか」を議論していた。彼らの答えは難解だったが、アルマにとって世界が始まったのは名士が議論しなくても自己に完結したものだった。アイルが完全に壊れるまえにアルマが言った。
「生きた。斯く在れかし」
そしてアルマは手帳にアルマと名前を書いた。それがアルマの願いだった。書いた瞬間にアルマは血を吐き世界を代表した孤独と向き合い、死をためらうことがなかった。まだ死を知るには少しかかりそうだった。だが心配しないでくれ、それは死の蔭におびえることもないのだ
アルマが何者か、神学者たちもわからなかった。その残酷な賛歌はあと少しで終わるのだろう。もう少しなのだ。アルマも異端審問に掛けられ火刑に処され、中世最後の皇帝と言われたカール5世、中世最後の騎士と言われたマクシミリアン1世と対峙し、神聖な天堂にいるのだろう。