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待つこと/L'attente

作者: 坂里 詩規

 待ってる。ずっと、ずっと。

 いつまでも、ずっと待ってるから。

 だって、待っていれば必ず戻って来るからって言ったから。

 待つことに不慣れだったあの頃に比べれば、

 今じゃ、いつの間にか、もう慣れっこになっちゃった。


 だって、今はまだ迎えに来れないからって、

 ただ待つしかないからって言って、

 一人ぼっちの寂しさを紛らわすのに、

 一つだけくれたものがあるから。

 それは、言葉というとても大切なもの。


 傍にいてくれる人が誰もいなくて、静寂だけが重くのしかかり、

 ただ一人で待っている時に感じる、締めつけられる心の叫びや嘔吐を、

 深い森の闇を彷徨い、身に迫る不気味な声に苛まれ、

 身体の奥底から聞こえてくる、言い知れぬ、どうしようもない心の揺蕩いを、

 言葉は、いつも聞き取ってくれる。


 待ってる。ずっと、ずっと。

 でも、言葉が傍にいてくれなかったなら、目が覚めた時には、心の震えは、

 高鳴り、熱くなり、大きく波立ち、そして消えて空っぽになる。

 言葉はそんな心の裸身を、手際よく粧しつけてくれる、

 激しく募る期待、狂おしいほどの興奮、やり場のない動揺、脆く弱い存在に。


 心の裸身は、名詞という名のいろいろな表情を持つようになり、

 そんな表情には、形容詞という名で心の微妙な揺れが色づけられる。

 言葉は、そんな風にして心の姿を模倣してくれる。

 心の代弁者となって、もう一人じゃないと優しく耳打ちしてくれる。

 だから、待つことなんて全然へっちゃら。


 それまで暗い胸底に埋もれ、身を潜めて様子を窺っていた心の姿は、

 多彩な顔を持つようになり、しきりに表に出ようと身繕いを始める。

 それまで待っているたびに、荒々しく打ち寄せてくる心の波に

 戸惑い、目を背け、遂には、慌てふためいて逃げ惑う孤独は、

 摘み取った言葉の力のお陰で、表情豊かな心の顔に出会うようになる。


 待ってる。ずっと、ずっと。

 でも、夜の帳が降りると、

 白々とした月明かりが照らす草叢から聞こえてくる

 虫の音の囁く言葉の刃が、ぐさりと胸に突き刺さる。

 欲望、愛欲、不安、虚無という声が夜空一面に響き渡る。


 何も手をつけられず、何一つ考えも浮かばずに、

 知らず知らずのうちに心の声に耳を傾けていると、

 夜は、背後から忍び寄り、さっと手を伸ばして言葉を奪い取る。

 粧された心の姿は、抽象という鋳型にはめ込まれて、

 観念という重苦しいものに歪められてしまう。


 観念という強ばった衣装を纏った、変わり果てた姿の心は、

 広大な深淵が現れる夜を迎えと、抽象という題名の舞曲を踊らされる。

 虫の音は、観念の無骨な手を取って舞い踊る心の足取りに合わせて、

 言葉を弄んで、心の震えを誘惑するリズムへと変貌する。

 そう、心の姿は足枷をはめられ、抽象という監獄に鎖で繋がれている。


 待ってる。ずっと、ずっと。

 でも、静寂に隠れる夜の眼光と不敵な笑みが、とても怖い。

 だって、それは、物陰からじっとこちらの様子を窺っている時の流れだから。

 真っ暗な画布のなかで、突然、鋭い笑みを浮かべた顔を覗かせる

 欲望、愛欲、不安、虚無という観念が、あちこちに白く点滅する。


 ひょっとしたら、言葉に意味が生まれたのは夜なのかもしれない。

 文を巧みに綴り、観念連合を作り出し、意味を抽象する。

 その時、心の姿は忘れられた存在として、忘却の彼方へと消え去る。

 そして、その時から、言葉は、もう揺蕩う心の裸身の姿を必要とすることなく、

 まるで鏡の前に立っているかのように、言葉自身と向き合い言葉を交わす。


 待つこと、それは言葉の観念を拒む誠実な態度。

 心にとっての唯一の友である言葉を解き放そう、

 がんじがらめに縛りつけられた抽象という堅牢な監獄から。

 本当の自分の姿を見せてあげるために、力づくでぶち割ろう、

 変装させられた言葉が高尚大事に持っている大きな鏡を。


 待ってる。ずっと、ずっと。

 遂に言葉を取り戻した裸身の姿のままの心は、

 観念を手駒にする言葉に別れを告げて、

 再び、新たな表情を言葉との戯れのなかから探しだす。

 言葉という絹織物で裸身の心を優しく包んであげましょう。


 絹の上から心のしなやかな身体の線が浮かび上がる。

 言葉の絹の襞は、豊かな音色でざわめく心の震えを映しとる。

 滑らかな肌をなぞるように、心と一体になった言葉にそっと触れると、

 心の揺れが熱く、激しく、生々しくそして安らかに伝わってくる。

 この瞬間、言葉は生きているんだということを知る。


 ほら、見て、心が言葉に寄りそって織りなす言葉の限りない豊かさを。

 何一つ知らなかった心は、みずからの多彩な表情を得ることで表に現われ、

 待っていることから、孤独への寂寥感と不安を取り払った。

 もう大丈夫、待ってるから。ずっと、ずっと、いつまでも。

 だって、言葉は、いつも傍にいてくれる唯一の心の友だから。


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