女将
食堂に戻る頃には、もう15時になっていた。
「あら、おかえり。ちゃんと案内してもらえた?」
「はい、色々な場所に連れて行っていただきました。」
食堂では、女将が夕食の支度を始めていた。
「じゃあ、おいは帰るけん。また何かあったら呼んで。」
「本当にありがとうございました。」
深々とお辞儀をする多英子に、片手を挙げて健次は帰って行った。
「多英ちゃん、これ。」
女将の手には、食堂の名前の付いたエプロンが握られている。
多英子が不思議そうな顔をしていると、
女将が笑いながら言った。
「食堂、忙しいんよね。私一人じゃまわらなくてね。もし良かったら、しばらく一緒に働いてくれん?もちろん、少しだけどお給料も払うし、部屋も使ってもらって構わんけん。」
「ほ、本当ですか?!ありがとうございます!ありがとうございます!」
多英子は、あまりの嬉しさと、女将の優しさでボロボロと泣き出した。そして、何度も何度もお辞儀をした。
「ちょっと、多英ちゃん!私が泣かしたと思われるやない!顔上げて!」
ぐしゃぐしゃになった顔を上げると、多英子は女将を見た。
「その代わり、私は厳しかけんね。覚悟しとってね。」
女将はニヤリと笑うと、多英子の背中を強く叩いた。
「さ、夕食時は漁師で賑わうとよ!支度、支度!」
そう言いながら、多英子を調理場へと導いた。
・・・
言われたとおり、女将は調理に関しては厳しかった。
へとへとになりながら、夕食の支度を済ませ、食堂の入り口にのれんを掛けた。
しばらくして、食堂は島の漁師たちで賑わい始めた。
用意した食事を席へと運ぶ。
「お、お姉ちゃん見らん顔やね!新入りね?」
「はい、今日から女将さんにお世話になってます。よろしくお願いします。」
多英子は、出来る限り笑顔で接客した。
何故、島の人たちは皆温かいのだろう。あの人があんなに優しい心を持っている理由が分かった気がする。
方言なのか言っていることが、よく聞きとれないこともあったが、それでも多英子は懸命に接客した。
そんな多英子の様子を、女将は微笑みながら見守っていた。
・・・
23時。
賑わっていた食堂も閉店の時間になった。
多英子は、客がいなくなったテーブルを丁寧に拭き上げていた。
緊張しながら慣れないことをしたせいか、身体中が重い。
「お疲れ様。疲れたやろう?夜ご飯食べんね?」
女将が盆にのせた遅い夕食を、テーブルへ運んできた。
「ありがとうございます。」
2人は向かい合って座り、いただきますと手を合わせた。
「飲むね?」
女将が、瓶ビールの栓を開けながら尋ねる。
「じゃあ、少しだけ。」
女将が多英子のコップにビールを注ぎ、多英子も返した。
「じゃあ、2人の出会いと、多英ちゃんの初仕事に乾杯。」
「乾杯。」
多英子は酒には弱いが、このビールは美味しいと感じた。
女将が作ってくれる食事は、どれも本当に美味しかった。多英子は夢中で箸をすすめる。
酒の力もあってか、女将と多英子は昨日会ったとは思えないほどに打ち解けていた。
「多英ちゃんは、何でこの島に来たとやったかね?」
食事も終わりかかった頃、女将が唐突に尋ねた。
「私、好きな人がいたんです。」
「へぇ、その人探しにこの島来たと?」
「いいえ、その人はここにはいません。」
女将が不思議そうな顔で多英子を見ている。
それ以上何も言わない多英子に、女将が口を開いた。
「私もね、この島に好きな人がおったとよ。この食堂を始めたのも、いつかその人にまた会いたいと思ったけん。おばちゃんでも、恋しとったとよ。」
笑いながら話す女将だったが、どこか寂しい顔をしていた。
「あの、その人とは会えたんですか?」
小さく首を横に振りながら、女将は煙草に火をつけた。
「結局、会えんかったと。その人ね、私と知り合った時には、もう奥さんも子どももおったからね。私は邪魔者やったみたい。」
煙草の煙を吐き出しながら、女将が続けた。
「何だかんだ言って、最後には自分の所に来てくれる。私もあの時は若かったけん、勝手にそう思い込んどったとよ。
でも、所詮周りに反対されるような恋。
私も正直途中で疲れて、諦めとったとかもしれんね、きっと。やけん、叶わんかった。
あの人も、きっと私のことは最初から遊びやったんよ。
でも、やっぱり信じたくて、周りの反対押し切って、一人でこの島に来たと。あの人が育ったこの島に。
あら、ごめんね。私、多英ちゃんに尋ねておきながら、自分の話ばっかり。」
黙って話を聞いていた多英子が口を開いた。
「女将さんは、まだその方が好きですか?」
「‥そうね、どうやろうか。好きというか、感謝しとるよ。私はこの島に来て、たくさんの人に出会って、助けられた。みんな素敵な人たちばっかりやろ?
あの人がおらんかったら、ただありきたりな毎日を過ごしとったと思うけんね。
あの人への思いを自分の力に変えて生きてこれた。今はそう思っとるよ。」
少し考えて放たれた女将の言葉と、その堂々とした瞳が多英子の胸に突き刺さった。
私も女将のように強く生きて行かなければいけない。あの人にもらった大切な日々を無駄にしないためにも。
多英子は、そう感じた。
「その人もきっと女将さんのことを本当に愛していたと思いますよ。どんな形でも、人を好きになるってことは愛があってのことです。その人がどんな人なのかは分かりませんけど、きっと女将さんのことは忘れてないと思います。」
多英子は強い口調で女将に向かって言った。
これまでとは違う多英子の様子に少し驚いた表情を見せたが、女将は豪快に笑いながら、コップのビールを飲み干した。
「ありがとう。私、多英ちゃんに出会えて良かったよ。さぁ、今日は飲もうかね!」
「はい!」
空に浮かんだ月が穏やかな海に映し出されている。
秋の夜は、ゆっくりと更けて行った。