エピソード:00
Every time God has whether the way where we are trying to progress is right in a front, it does not teach it.
我々が進もうとしている道が正しいかどうかを、神は前もっては教えてくれない。
ーーAlbert Einstein
アルバート・アインシュタイン
「くっそ、どうなってんだよ!」
背後に迫る異形から、凛は懸命に逃げていた。
追いかけてくるのは、高さ2メートル・幅1メートル弱の漆黒の身体だった。顔に当たる部分だけが白く、円盤状の面が貼り付いているようにも見える。上半身は1つの塊だが、足は蛸のように何本も生えていた。触角にも似た複数の足をうねらせる様は、以前に格闘ゲームで苦戦した敵キャラクターに良く似ている。仮想空間では見慣れた生物も、現実世界では違和感しか感じられない。1体でも気味が悪い所を、6体が束になって襲って来るなど誰が予想できただろう。
「ニゲル、ツカマエル」
「俺が何したんだ!つーかお前ら、何者なんだよ」
「オマエ、ホカクタイショウ」
ー ー捕獲対象。
まさか、と凛は思い至る。
ある日突然、凛は力を手に入れた。どうしてその力が己の物になったかは不明だし、誰が与えてくれた物かも分からない。だが、能力の発現はあまりに自然で、あたかも生まれた時から授かっていたかのように、凛にしっかりと馴染んでいた。
その力を何処かで誰かが嗅ぎ付けて、利用しようとしているのかも知れない。なんだかバトル漫画の主人公にでもなった気分だ。
凛はこの場に不釣り合いな胸の高鳴りを抑えながら、声を上げる。
「俺はこんな所で捕まってる場合じゃないんだ!ヒーローになるんだからな!」
「ツカマエル。ニガサナイ」
「くそ!これでも食らえ!スタンバイ・ディスク!」
その言葉と同時に、凛の右掌には帯状の塊が出現した。それは彼の意志に呼応するように広がり、15cmほどの薄い円盤となる。
「ロック!」
振り向きざま、敵の一体に狙いを定め、凛は右腕を思い切り振り上げた。
「シュート!」
掌から打ち出された円盤は、真っ直ぐに異形へと向かっていく。まるでそれ自体が意思を持っているかのように。
「行けぇぇぇぇぇ!」
円盤は凛の狙った通りに突き進み、異形の黒い身体を切り裂いた。分断された足からは体液が吹き出し、アスファルトに滲んでいく。その光景は、水風船が萎んで行く様を連想させた。
「よし、やった!」
この調子で攻撃すれば、敵を一掃することが出来る。
安堵の息を吐いた所 で、凛の目に恐ろしい光景が飛び込んできた。失ったはずの足が体液を垂れ流しながら再生を始めたのだ。異形は切り離された肉体の修繕をしながら、再び此方へ向かってくる。
ーー俺はヒーローになるんだ、こんな所で捕まるわけには行かないんだ!
技が通用しない以上、逃げるしかない。
辺りを見回すと、建築途中のビルが目に付いた。ビルの内部には隠れられる場所があるかも知れない。工事用のフェンスをよじ登りビル内へと逃げ込む凛を、6体の不気味な異形たちが音も立てずに追いかけてきた。
†
今から10年ほど前のこと。
当時の首相・狭部歳三は工業復興をマニフェストに掲げ、実現の先駆けとして凛の住む地区を第一次経済特区と認定。株式上場の13企業を誘致すると共に、周辺のインフラを整備して企業関係者を中心とした一大都市を形成することを試みた。
世界恐慌時に米国のルーズベルト大統領が実施したインフラを模したその政策は「フランクリン計画」と名付けられ、年々増加する失業者の救済も期待されたが、4年前の関東大震災により都市の一部が壊滅。復興支援に伴い「フランクリン計画」は一時中断を余儀なくされる。
計画の中止により、特区の治安は悪化。不良や浮浪者の徘徊する、犯罪が絶えない街になってしまった。警察も見捨てたこの街は、危険がいつも隣り合わせだった。
凛も面倒ごとに巻き込まれぬよう、毎日を大人しく、目立たぬようにと生活していた。ーー特殊な力を手に入れる、その日までは。
「スタンバイ・ディスク!」
凛の掌に突如現れた円盤に、対峙していた男が怯んだ。
赤いターバンに白いTシャツ、カーゴ 色のワークパンツ。特徴的な外見をしたこの男は、昼間に駅前でかつあげをしていたため、凛が「制裁」と称して路地裏へ連れ込んだ。
「ロック!」
狙いを定めれば、男の肩が大きく跳ね上がる。かけ声は無くとも攻撃出来るが、あった方が臨場感も増すしテンションも上がる。そんな単純な理由で、攻撃時のフォームは凛が独自に作った。
「シュート!」
掛け声と同時に放たれた円盤は、男の首筋を数ミリ削った。表面の皮膚だけを削るのは難しいが、日々の鍛錬のお陰で狙った場所へと円盤を飛ばせるようになってきた。
凛には相手を殺すつもりはない。ヒーローたるもの、不殺で制裁をくわえるのが格好いいと、昔読んだ漫画の主人公が言っていた。
滴る 血を押さえながら、怯えた表情で尻餅をつく男の様は滑稽で、自信満々に学生から金を巻き上げていた面影は感じられない。
「これに懲りたら、馬鹿なことすんじゃねーぞ」
「っ、くそ、なんだその、へんてこな武器は…」
「俺がヒーローになるために必要な力だよ!お前らみたいな悪は、俺が正義の鉄槌を食らわすのさ」
得意気に鼻を鳴らす凛。
中二病、と馬鹿にされるだけの無能な己はもう居ない。自分には特殊な力がある、と信じていたら、ある日突然目覚めたのだ。信じるものは救われる。そんな言葉も、あながち嘘ではないのかも知れなかった。
「次はどいつをぶっ飛ばしに行くかな」
「……くそ、覚えてろ…っ」
「弱いやつほど良く吠える、ってか!い つでも返り討ちにしてやるよ!」
一目散に逃げ出す男を見送ると、凛は右手を天にかざす。
「俺がヒーローだ!」
楽しくて仕方がなかった。
欲しいと思っていた力を手に入れて、圧倒的なパワーで悪者を捩じ伏せる。自分は神に選ばれた人間なのかも知れない。治安の悪いこの地域で、夜な夜な不良狩りに出かけるようになった息子を母親は嘆いたが、凛にとっては些末な問題だった。
「さーて、帰って学校の時間まで一眠りすっかなー」
鼻歌混じりに歩き出した凛は、背後から強烈な殺気を感じて振り返る。
どこから現れたのか、幾つもの足を蠢めかせた異形たちが、凛を目掛けて飛び掛かって来た。
†
「くっそ、このビルへ逃げ込んだのは失敗だったか……」
凛は荒い息を吐きながら、辺りを見回す。フランクリン計画中断に伴う企業撤退により、街には建設途中の工場やビルがそのまま残っている。その中のひとつに逃げ込んだ訳だが、建物の内部は骨組みと階層、最低限の壁や仕切りしか出来ておらず、身を潜められそうな空間は殆ど見当たらなかった。外に出ようと思っても、背後には異形が迫っている。凛に与えられた選択肢は、建物内をひたすらに逃げまとうことだけだった。
ひたすら上へと伸びる建物の中、階段を登っては下り、また登っては躓く。凛の肺がヒリヒリと痛み始めても、敵は追いかけることを止めない。
一体どれだけの時間が経っただろうか。辺りは少しずつ明るくなり始めていて、もうすぐ朝の訪れが近いことを感じさせる。
必死で打開策をさがしていたが、逃げる以外の選択肢を与えられず、息を切らせて駆け上がった階段の先では建物が上を目指すことを辞めていた。転落防止の柵は錆びつき、今にも崩れそうになっている。少なくとも10階分は階層を登ってきたため、飛び降りれば即死だろう。階下に降りようとも、唯一の出入口は異形たちによって塞がれている。絶体絶命とはまさにこの事だ、と凛は思った。
得意の攻撃も敵には通じない。助けを求めようと思っても、誰を呼べばいいのかさっぱり分からなかった。
警察を呼んだところで、どうせ当てにはならないだろう。銃弾を撃ち込んだ所で、その場所から再生を始める事は想像に易い。
家族、友人?……いや、自分と同じように特殊な力を持った者でなければ、恐らくこの異形には太刀打ちできないはずだ。
何より、今この状況ですぐさま駆けつけることの出来る人物がいったい何処にいるのだろう。この街に警察署は1つしかないのだ。彼らがすぐに駆けつけたとしても、あと20分は自分ひとりで耐え忍ばなければならない。それではもう、遅い。
「来るな、来るなってば」
ゆったりとした速度で、凛との間合いを詰めてくる敵たち。
その内の1体が、足を伸ばして凛の首筋を撫でた。
「っ、気持ち、悪ィ……」
ぬめり気を帯びた感触に、背筋がざわめく。スライムを首に塗りたくられている心地だ。
ーー俺は、ヒーローになる男。自分で信じた設定を貫いて、今日此処まで来たじゃないか。俺は間違っていない、正しいことをして来たはずだ。……力を信じ、悪を成敗する、俺の信じた正義が、間違っていた?そんなはずは、ない。
「テイコウ、テアラデモ、ツレテイク」
「ぐっ…ぐぁ……っ」
首に絡んだ黒い足が、凛の呼吸を遮る。
抵抗しようと伸ばした腕は、別の異形の足によって絡め取られた。
「っ、やめ、っ」
頭の芯がぼやけて行く。意識が遠のき始めているのが分かる。
ーー俺、このまま連れて行かれんのかなぁ……?
視界が白く染まる。身体に力が入らない。もう駄目だ、と意識を飛ばすまさにその瞬間、凛の首を絞めていた足が弾けた。
「っぐぁっ!」
凛は地面に倒れ込むと、思い切り咳き込んだ。酸素が勢い良く身体中を駆け巡っていくのが分かる。
呼吸を整えながら首に残った足の先端を剥がせば、その切断面はまるで鋭利な刃物で切断されたかのようだった。切り離された部分から溢れ出た粘液が辺りに飛び散っている。凛の顔や手にもかかっていたが、そんなことを気にしている場合ではない。
「何が起きたんだ……?」
「すまんすまん、すっかり五目並べに夢中になっとったわい。遅くなったのぅ」
声のした方へ目を遣ると、そこには初老の男が立っていた。
白い顎髭をたくわえた彼は、転落防止用の柵の上から凛を見下ろし、独特な笑い声を上げる。ウェーブのかかった白髪は首筋の辺りまで伸びており、顎髭と混ざりあって顔の輪郭を分からなくさせていた。
「……そこの下郎よ、去るがいい。さもなくば我が魔の水がヌシらを消し去るぞ?」
「オマエ、ジャマ。ホカクタイショウ、ツレテイク」
「ほう、わしの言うことを聞かんとな。少年を連れていくというなら、容赦はせぬぞ」
軽やかに柵を飛び降りた男は、異形から凛を庇うように立ちはだかった。何者かは分からないが、凛を助けに来てくれたようだ。
「湧き出よ、清き水の……あーれ、なんじゃったかのぅ?まぁよい、ほほいのほいっとな!」
男が呪文らしき言葉を唱えると、1cm程度のごく小さな水の球が現れた。ビー玉のようなそれは空気中の水分を吸い集め、物凄い速度で膨張していく。凛が瞬きを2つ、3つする間に、球体は異形よりも大きなものへと成長した。
「さぁて、そのまま敵さんを包み込むがいい」
直径3メートルはあるであろう水の塊が、異形の上から勢い良く覆い被さる。あっと言う間に蛸のような身体を丸々と包み込んだ球体は、異形ごと宙へ浮いた。
「わしに逆らった罰は重いぞ。……散れ」
男の合図と共に、水の塊が突如小さくなった。
縮んだ、というよりは圧縮された、と言った方が的確かもしれない。3メートル以上もあったその塊は、凛が最初に見た1cm程度の球体に戻っている。
「なっ……!」
「水圧ってのは、存外恐ろしいものじゃよ。こんな風に跡形もなく押し潰すことができてしまう」
「今のが水圧……?」
「ほっほっほ、不思議で仕方ないといった顔じゃな。人のそういう顔を見るのはとても楽しいものだ。例えば、手品を見ている人。キツネに化かされた人。原理の分からないものを見るときの顔は、みんなとても良く似ておる」
しわがれた声で男が喋る間にも、次々と現れた水の球が異形を飲み込んでは消えていく。凛は呆気に取られ、その光景を眺めることしか出来なかった。
「ふぅ、これで全部かのぅ。見かけの割に、大したことない奴らじゃったな」
「俺がまったく倒せないやつを、こんなにあっさりと……」
「そりゃ『年の功』ってやつじゃな」
そう言って、こちらに手を差し出してくる男。
しゃがみ込んだままだった凛は、暫し躊躇したがその手を掴み、立ち上がる。
「どーもッス」
「礼には及ばんよ。お主が天月凛君じゃな」
「っ、どうして、俺の名を知って……」
「わしはお主を迎えに来たんじゃ。申し遅れたが、わしはクレメンツと言ってな。お主のように力を持った者たちが集まる学校で、教師をしている。カタフィギオ、という巨大空中都市について、何か聞いたことはないかの?」
クレメンツと名乗った男は、身に付けていた衣服の胸ポケットから10cm程度の液晶端末を取り出し、凛にその画面を向けてくる。スマートフォンにしては少々大きめだが、タブレットにしては少し小さい。
「そこで修練すれば、さっきの異形なんてちょちょいのちょいじゃ。ほら、ここ。軌道エレベーターでだいたい50キロくらい上がればすぐのところにある」
「なんだよ、これ……こんなもんが、この世界に?」
「そうじゃよ。魔法や超能力と言った特殊な力は、一般認知こそされていないが国の上層部では常識になりつつある。だからこういうものがあるのも、上手に隠してあるんじゃ。秘密基地みたいでわくわくしてくるじゃろ?」
液晶端末のモニターに映し出される風景は、凛が今まで見て来た世界とは大きく異なるものだった。遥か空へ伸びるエレベーター、宙に浮かぶ巨大な空中都市。都市の中には様々な施設があり、そこで生活のすべてが事足りるように見える。
「すっげー!俺がここに行って、修行できるのか!」
「そうじゃ。ちゃんと最初に説明して映像を見せておかんと、信じてくれん者があまりに多くてのぅ。……そうそう、しばらくこっちには帰ってこられなくなると思うが、親御さんや学校にはこちらからきちんとお話しておくから心配いらんぞ」
「ここに行けば、俺はヒーローになれるのか?」
「それはお主次第じゃな。その力を生かすも殺すも、全ては己の努力次第。天月凛くん、主にはその覚悟があるかの?」
クレメンツの穏やかな瞳が、凛を真っ直ぐに見遣る。その眼力の強さに、凛は思わず怯んだ。
ーーあんな異形一匹ですら倒せなかった自分にも、努力すれば力が宿るのか。幼いころから憧れていたヒーローに、なることができるんだろうか。
「やらなければ、初めから出来ないまま『本当は出来るかもしれない』とその場所で吼えているだけの小物だ。やるだけやって、自分には出来なかったと分かっても、そこで出会った者や得た経験によって、新たな『自分にしか出来ないこと』が見つかったりもする。人生っていうのは、そういうもんじゃ」
「俺にしか、出来ないこと……」
「その力の原理を、そして扱い方を、教えてくれる人がいる。わしらはそういう環境をお主に提供することができる」
自分にしか出来ないことをしたい、とずっと思ってきた。それは特別な何かが無かった幼少期も、そして今も変わらない凛の望みだ。
だが今の凛には、せいぜい地元の不良を狩って威張ることしか出来ないのだ。そんなことを続けていても、特別な人間になどなれるはずもない。
「……クレメンツのおっさん、俺やるよ!その、カタルシス?とやらに行って、この力を使いこなしてやる!!」
「カタフィギオ、じゃよ。共に来てくれるなら、わしはお主を歓迎しよう」
朝焼けが辺りを照らし始め、遠くでは鳥の鳴き声が聞こえる。
--なんて清々しい朝だろう。
頬に残る異形の粘液を擦ると、凛は意味もなく拳を空へ突き上げた。
「やってやるよ!俺はヒーローになる男だかんな!」
「ふぉふぉ、頼もしいのぅ。ところでお主、将棋は出来るかの?」
「将棋、携帯のアプリでやったことあるけど……詳しいルールは良くわかんなかったな」
「そうか、そうか。じゃあわしが教えてやろう!」
クレメンツはそう言って、今日一番の笑顔を浮かべたのだった。