愛しいものは美しいもの
アデアはいつものように、朝日が地平線から顔をのぞかせる頃に目を覚ました。
もぞり、と緩慢な動きで上体を起こし、体に纏わりつく長い黒髪を鬱陶しげに払う。そして、これまた緩慢な動きでベッド横の窓を開け放つ。
光が差し込みながらも暗闇が色濃く残る空を見やり、どこかひんやりとした空気を肺一杯に吸い込んで、アデアは飛び立った。
アデアは黒い鱗と金の瞳をもつ齢200の竜だ。卵から孵ったところ、周囲には両親どころか同族もおらず、一人で生き抜かなければならぬことを生誕して5秒で悟った。
それからというもの、眼下に広がる広大な森を母とし生きてきた。
魔術も変化も飛行も自然と身に付いたし、これといった問題もない。
太陽がゆっくりと姿を現し大分暖かくなった頃、アデアは方向を変えるため翼を強くはためかせた。
竜から人へと変化しなおし、日課の空中散歩から帰宅すると家の中は変わらず静まり返っていた。
自室の向いの部屋へと、足音も軽く向う。音を立てないように扉を開けるとベッドへと一目散に駆け寄った。
「スーシャ?」
そっと呼びかけるも、毛布からはみ出ている白金の頭はピクリともしない。
「スーシャ、朝だぞ」
「ううう」だの「あああ」だの不明瞭な言葉が返ってきた。
うきうきしながら毛布を引き下ろすと、現れた中性的な美貌をとっくりと眺めた。
大理石のような綺麗な肌は光を弾いて白く輝き、薄い唇は淡く色づいている。鼻筋はすっと通り高く、影を落とすほど長い睫毛に、綺麗に整った直線的な眉。周りに広がった金糸のような髪。
うむ、と一人満足したところで、溢れる愛しさのままに行動した。すなわち麗しい顔を両手で挟み、唇を落した。
まずは額に、瞼に、鼻の頭に、両頬に、そして唇に
「……」
しようとしたのだが、熱く硬い掌に止められた。
「なんふぁおいあのあ」
「…アデア、俺、止めてって言ったよね?」
ぱちぱちと不機嫌そうに瞬きを繰り返す青石のような瞳と金眼が至近距離で見つめあう。
光を反射する小川も、朝露に濡れて光る赤い木の実も、葉を透かして降り注ぐ日の光もアデアは好きだ。愛しているし、大切にしている。
竜は己が美しいと感じたものを集め愛で心を慰める。アデアにとって心が動かされるのはそれらのものだった。そして、その中でも一等好きなのが、スーシャの瞳だった。
感情によって煌めきと色合いが変わる青の瞳をアデアは最も美しいと思う。
「何故接吻してはならん?幼少の頃はよくしていたではないか。それに抱擁も。ほれほれ、ぎゅーっとさせてごらん?ん?」
「は・な・れ・ろ、この馬鹿力!昔と今じゃ事情が違うの!あぁもう。起きたから早く出て行ってよ」
「む、待て。そこが何か腫れているのか?毛布が膨らんで」
「お願いだから出て行ってください」
「そうか。それが噂の朝立」
「この目抉り取ろうかな」
「出て行こう」
ぴゅっとスーシャの部屋を出る。扉に寄りかかりながらくふふと笑った。今日もアデアの愛しいものは元気だ。
アデアがスールシャルゥを森で拾った時、彼はまだ七つで、薄汚れて、死にそうだった。人買いに浚われ売り飛ばされそうなところを何とか逃げ出してきたが、足を滑らせて崖から落ちたらしい。その時の彼は血まみれだった。血の匂いに引かれて様子を見に来ていた竜型のアデアは、スールシャルゥのその姿を確認すると再び飛び立とうとした。人間に興味はなかったからだ。
『助けて』
青い宝石が水分に覆われ憐れに光るのを見るまでは。その時、アデアの心はスールシャルゥの瞳に確かに囚われた。これまで見た美しいものの中でも特別に美しかった。
その日から12年、アデアがスールシャルゥを養い育てた。さまざまな光を青石に宿すのを傍で見てきた。ずっと、スールシャルゥはアデアの美しい宝物の一つだ。
「それで、ズーばあさんの腰の調子が悪いみたいだから、しばらくは毎日村に行こうと思うんだ」
アデアが焼いた卵を口に入れながら、スールシャルゥは向いの席から言った。当のアデアは返事もせずに熱心にスールシャルゥの瞳を見つめる。
「…アデア、聞いてる?」
「うむ。ズーの奴が腰を痛めたのだな。腰痛にきく薬草と、そうだな。確かに手伝いが必要だろうから、行ってやれ」
「聞いていたのならちゃんと返事してよ…」
「すまん。今日はお前の瞳がいつもより色濃く、美しかったのでな」
「…ふん」
満面の笑みで言ったアデアに、スールシャルゥは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
最近、こういったことが頻繁にある。その度、アデアの胸はちりちりと火に焙られるかのような痛みを覚える。
「スーシャ?どうした?何か嫌だった?私か?私が何かしたか?」
「…何でもないよ。ごちそうさま。じゃぁ、そろそろ行ってくる」
森の中に閉じ籠って人の子であるスールシャルゥを育てるのは無理だった。そのため、アデアは人に変化し、近くの村で薬草を売る生活をした。その時にズーとは縁を持った。
今ではアデアの代わりにスールシャルゥが三日に一度は村に薬草を売りに行く。
本当は一日中でもスールシャルゥの瞳を見ていたいのだが、そんなことをしたらスーシャは嫌がるし、それこそ目を潰しそうだ。スーシャは繊細な外見を裏切ってなかなかに過激な子だ。
「もう行くのか。つまらん。早く帰ってこいよ。気をつけて行け」
「はいはい」
薬草の入った荷袋を手に、扉へと向うスールシャルゥの周りをうろちょろする。
それに適当に返事をした彼は、急に振り向いた。
「じゃぁ、行ってくる。まさかとは思うけど誰か来ても開けないでよ。……好きだよ。愛してる」
ちゅ、と柔らかな感触が額に降りた。くすぐったくて、くふふと笑う。
「もちろん私もだ」
けれどスールシャルゥは笑わない。まるでどこか切りつけられたかのように、痛そうに苦しそうに顔を顰めて出て行った。
最近、スールシャルゥは苦しそうな顔をする。どこか痛いのかと問いかけても、「別に」と返す。そのくせ、悲しそうな濡れた目でこちらを見ている。
「…行くか!」
ぎゅ、と喉に何か詰まったような感じを無理やり脇にやり、気合いを入れるために声を出した。
音消しの魔法と姿をくらます魔法を駆使し、一刻を費やしてズーの家までこそこそとやってきた。
何故ならスールシャルゥはアデアが村に降りることを嫌がるし、今回の目的のためには彼に見つかるわけにはいかないからだ。
近くの家の影から、ズーの店番をしているスールシャルゥの様子を覗き見る。
ふむふむ、なかなかに繁盛している。特に雌、いや女が多いな。スーシャもいい感じに愛想笑いができているではないか。目は笑っていないが。
店番をするスールシャルゥに、3人組の女が近寄る。真ん中の栗毛の女が、全身を赤く染めながら何か包みを差し出した。
それを、スーシャルゥは微笑んで受け取る。恐らく礼を言ったのだろう。女はもぎとれんばかりに首をふる。
だがしかしもう一度言おう。スーシャ、目が笑ってないぞ。
そんなやり取りを日が傾くまで何度か繰り返した。その間、アデアは壁のひっつき虫と化していた。
「ぬぅ、候補が絞り切れぬ…」
むむむ、と一人唸っていた時だった。あまりにもスールシャルゥに集中しすぎていたため、周囲への警戒を怠っていた。誇り高き竜であるアデアは、背後から飛んできた布ボールの急襲を頭にくらった。
「うわっ!?」
衝撃に思わず魔術も解けてしまう。
「お…姉ちゃん、どこから出てきたの?」
「きゅ、急に出てきた…」
背後には、ぽかんと口を開けた子供たちの姿があった。
誰もいなかったところから、溶け出るようにアデアの姿が現れたのだから茫然としている。大きく開いた口を、顎を上げて閉めてやりたい衝動を覚えながら子供を観察する。
七つ八つ程か。スールシャルゥのこともあり、子供には自然と甘くなってしまう。これが大の大人なら、八つ裂きだ。
「しーっ、静かに。私は魔術師なのだ。だから姿を消すことも簡単なのだよ。今私はかくれんぼをしているのだ。だから、私がここにいることを誰にも話してはいけないよ」
人差し指を口元にあて、順々に子供たちの頭を撫でてやる。すると、やっと我に返った子供たちは顔を赤くしながらこくこくと頷いた。
この時アデアは再び警戒を怠っていた。
「アデア」
地の底から響くような低い声が頭上から降ってきた。
アデアは時間を無駄にせず、竜へ変化し飛び立とうとし…襟首を掴まれ断念した。
「アデアなんでここにいるの何していたの誰と一緒にいるの?」
一息に言いきられた。怖い。
アデアの背後の人物を見たであろう子供たちが一目散に駆けていく。無邪気なふりして私もあの中に紛れたい。
「アデア」
「答えて」という言葉と同時に襟首をぎゅっを引っ張られた。首が締まる!
「す、スーシャ…」
「何?」
そっと振り仰げば、絶対零度の視線と無表情が待っていた。
「……」
「……」
アデアとスールシャルゥは、森の中の自宅で無言で向い合っていた。今朝はここで仲良く朝食を摂ったことを思い出すと、時間を巻き戻したくなる。
「……」
「……」
スールシャルゥに捕まったアデアが言い渋るのを見ると、彼はズーに辞去を述べ問答無用で自宅へ引き返した。その間アデアの腕は一度も放さなかったし、無言を貫き通した。卓についても未だに。
いかん、私は誇り高き竜だぞ。己の愛しい宝に怯えるなど言語道断だぞ。
精一杯の矜持を集め、下を向いていた顔をあげた。美しくも愛しい青い宝石が凍えるほど冷え切っているのを認めて、すぐさま顔を戻した。
何度でも言おう。怖い。
「……」
「……」
「……それで?」
「え?」
「何で村にいたの?」
「……」
「この目抉り」
「スーシャのつがい候補を探していたのだ」
言い終わると同時に冷気が部屋を満たした。発生源は言うまでもない。暑さと寒さを感じないはずのアデアの肌に鳥肌がたった。
「……どういうこと?」
「お、お前もそろそろ年頃ではないか。人はこの時期につがいを見つけ結ばれるのだろう?私もスーシャにつがいを見つけてやらねばと思ったのだ」
先日、村から帰ってきたスールシャルゥから女の花の匂いがした。それで気がついた。
スールシャルゥはもう立派な雄、男なのだ。つがいを見つけ、子をなし、血を継ぐのが自然の摂理。ついこの間まであんなに小さかったのに、今や仰がねば目線が合わない。
時間の違いを感じた。スールシャルゥはアデアよりずっと早く生き急いでいる。アデアはこの愛しい青い宝物を近く失くすのだ。
「私はお前より長く生きねばならん。お前を、愛しい私のお前を失くしたくはないのだ。美しい青い瞳を受け継ぐお前の子が見たい。欲しい。愛したいのだ」
「…つまり、俺に子供を作らせて、その子を俺の代わりに愛すの?…冗談じゃない」
叩きつけるように言われた。がたん、と席を立ったスールシャルゥの瞳は、今まで見たことのない色をしていた。
「家畜を掛け合わせるように、アデアは俺に女をあてがおうとしたんだ」
「違う!そんなこと」
「何が違うの?アデアは俺の瞳が好きなんでしょ?愛しているんでしょ?大切なんでしょ?俺の目さえあれば、持ち主が俺でなくともいいんだ」
「スーシャ?」
「わかってたよ。アデアは俺なんか見ていない。俺の愛とアデアの愛は違う。アデアは俺の瞳だけを愛してる。宝石を愛でるように、宝物として。俺が欲しいのはそんな愛じゃない。そんなのじゃ全然足りない」
「待て、スーシャ!」
「何度この目を抉り取ろうと思ったか。その度、アデアに見向きもされなくなる自分を想像して思いとどまった。つくづく、俺の価値はこの目以下なのだと思い知ったよ。…馬鹿みたいだ」
背を、向けて。吐き捨てて。
スールシャルゥは自分の部屋へと消えた。アデアはその場から動くことができなかった。
スーシャが怒っていた。傷ついていた。私が傷つけた。
あんなにも暗く歪み怒るスールシャルゥを見たのは初めてだった。どうしたらいいのかわからない。
「スー…シャ…」
応えがないのも、初めてだった。
何があろうと太陽は巡る。地平線が輝き始めたころ、アデアは目を開けた。
昨日のことを考えると、いつもの散歩に行く気力もない。
毛布を跳ね除け、自室の扉を開ける。スールシャルゥの部屋の扉が目前にあり、遠慮がちに近づいた。
こつりと額を預ける。と。異常に気付いた。
「スーシャ?」
恐る恐る扉を開ける。いつもなら膨らんでいるベッドはもぬけの殻。冷えた空気が、長い時間の持ち主の不在を告げる。
「スーシャ!」
居間に飛びこむと、スールシャルゥが村に行く時に持っていく荷袋がない。そして。
「これ、は……」
卓の上には、スールシャルゥの瞳によく似た美しいサファイアが二つ。
出て行ったのだ、と直感した。
スールシャルゥというアデアの宝物はアデアのものではなくなったのだ。
太陽が高く昇り沈むまで、アデアはサファイアを握りしめたまま居間の椅子から動かなかった。何をする気にもならない。
しんとした家の中が、より一層一人きりであることを突き付ける。まるで幼い頃に戻ったかのようだった。
光を反射する小川や、朝露に濡れて光る赤い木の実や、葉を透かして降り注ぐ日の光が美しいものだと知らなかった頃。
アデアは一人ぼっちだった。
スールシャルゥという一番の宝物はなくなっても、他にも美しい宝はまだ残っている。けれど、それらは今のアデアには全く慰めにならないのだ。
何故、と自問する。スールシャルゥの瞳のように美しいサファイアがあるのに。昨日アデアが言った状況と同じなのに。スールシャルゥが居なくなっても、代わりの青い宝石がある。それがアデアの愛しい宝物となるはずなのに。
――スールシャルゥが居なければ、美しいものは全て色褪せる。
ほろりと頬を何かが滑り落ちて行った。
「あ、あ、あ、ぁあああああああああん」
何故世界はこんなに冷たく淋しいのか。私は孤独ではないか。
美しいものを愛しいと思えない。淋しい寂しいさみしい…!
「ぅあぁぁぁぁぁぁぁん」
初めて涙を流すアデアは、外に人の気配があるのに気付かなかった。
「っアデア!!?」
ばぁん、と少々歪んだ扉を壊さんばかりに開けて入ってきたのは、出て行ったはずのスールシャルゥだった。
「………スーシャ?」
暫らく見つめあい、ぐずぐず鼻をならしながら問いかけたところ、スールシャルゥはバネ仕掛けのようにとんできた。
瞬きした間に、ぎゅうぎゅうに抱きしめられる。
「アデアどうしたの何かあったのどこか痛いの!?誰かに何かされたの教えて俺がぶっ殺してあげる」
次に瞬きした間に息継ぎなしに言いきられた。
「ぐず…スーシャ、出て行ったのではないのか?」
「違うよ。昨日の朝言ったでしょ。ズーばあさんが腰を痛めたから毎日村に行くことになるって。そりゃぁ、ちょっと腹が立ってたから何も言わずに出かけたけれど。それより誰になにされたの」
「このサファイア…」
「アデアは俺の目が好きでしょ。だから、俺が村に行っている間はこれで我慢してねってことで前から用意していたものだよ。何も言わずに置いたのは腹いせだけど。それで誰になにされたの」
「スーシャのせいで泣いた…」
「え!?」と素っ頓狂な声を出したスールシャルゥは、ぽろぽろと涙を流すアデアを見てさらに深く抱きしめた。
私が大泣きしたのに、スーシャは何故にこにこしているのだ。
「俺に置いて行かれたと思ったの?」
「うぬ」
「淋しかった?」
「当たり前」
「俺の目の代わりに、サファイアがあったのに?」
「スーシャがいい。スーシャの全部がいい」
「アデアかわいい」
とろんとした響きで囁かれた。軽い音を立てて、濡れた目尻に唇が降ってくる。
とくとくと、どちらとも知れない鼓動が聞こえ、心地よさに頭がぼーっとしてきた。
「スーシャが居なければ、何も美しいと思えない。スーシャが一番美しい。愛しいのだ」
唇が触れ合いそうな距離で、アデアはそっと囁いた。
アデアの最も愛しい青玉が、甘く蕩けた。
「アデア、好きだよ。愛してる」
今まで囁かれてきたその言葉が、違う響きをもってアデアの中に落ち着く。
「スーシャ…、私も、愛してる」
微笑んだスールシャルゥの顔が、かつてのように、それ以上にアデアの心を揺り動かした。ぽっと火が灯ったように心が温まる。
今のスーシャの顔が、今までのどの宝よりも美しく愛しい。
告げたかった言葉は、吐息と共にスールシャルゥの唇に飲み込まれた。
――深い深い森の中、一匹の黒い竜は愛しく美しい宝と幸せに暮らしている。
アデア(♀)200歳……黒い鱗と金の瞳を持つ竜。人化すると、膝裏まである黒のストレート、金の瞳。外見年齢は20代前半。無自覚だが絶世の美女。人間に関しては興味なし。好きにすれば?状態。スーシャだけは別。コミュニケーション力は底辺。自分の顔やスーシャに見慣れているため、無自覚面食い。美しいものが大好き。
スールシャルゥ(♂)19歳……祖先に妖精族がいたため、その先祖がえりとして生まれた。線の細い儚げな美人。人買に浚われたりした過去から、人間不信。薬草の知識は豊富。たびたび村に行く。アデアよりはコミュニケーション力がある。奥様方に評判の好青年。外面は完ぺき。若い女子から頂いたプレゼントは裏でぽい。食べ物だったらアデアにお土産。アデア至上主義。読んでわかるようにヤンデレ入ってる。