あいにくですが、この悪役令嬢に悪役になるつもりは毛頭ございません
「エスター・デュカル! 貴様との婚約を、ただちに破棄する!」
凛とした私の眉がわずかに跳ね上がったのは、その断固たる宣言に対する唯一の反応だった。宴会場の喧騒は一瞬にして静まり返り、集まった貴族たちの誰もが息をのんだ。
私は首をゆっくりと傾げ、視線を彼から、その腰を抱き寄せられている女へと滑らせた。
「理由をお伺いしてもよろしいでしょうか? もっとも、そちらの方のお姿を見れば、推測は容易にできますけれど」
顎をほんの少し上げ、射抜くような視線を真っ直ぐに向ける。目の前に立つ若き貴族は、得意満面な笑みを浮かべながら胸を張り、一歩前へ踏み出した。
「イゾルデを害し、さらには王冠に対する謀反を企てていたことは分かっているのだ。素直に罪を認めよ!」
私は胸元に優雅に手を添え、小さく息を吐いた。
「分かりましたわ」
思いがけない言葉に、彼は面食らったように瞬きをし、誇らしげだった姿勢を崩した。
「……なに?」
私は静かに首を振り、指先まで完璧な所作で体の前で手を組んだ。
「ですから、分かりましたと申し上げたのです。ですが、この国で私の名がこれで潰えるとお考えでしたら、どうぞお続けになって」
彼は声を荒らげ、指を突きつけながら、死罪に値すると主張するありとあらゆる捏造された罪状を並べ立て始めた。私はその責め立てる言葉の数々を、唇に穏やかで静かな微笑みを湛えたまま聞き流していた。
ドレスの裾を極めて冷静に整え、すでに私の没落を確信して浮き足立つ貴族たちをぐるりと見回すと、再び手を静かに重ね合わせた。
「誠に残念ですが……この悪役令嬢、死ぬつもりなど毛頭ございませんの」
「……は?」
「一つ質問がございます。私を全貴族の前で告発された後、一体どのようなご予定でおいでなのですか?」
彼は拳を握り締め、蔑むような笑いを漏らした。
「決まっているだろう! 貴様から奪い取る爵位と権力を手に入れるのだ。貴様のような悪女が、この会場から生きて出られるとでも思っているのか?」
二本の指を顎に添え、冷ややかな瞳でその滑稽な姿を見つめる。
「なるほど。この王国がそう易々と私の首を渡すと本気でお考えなら、呆れるほどおめでたい頭脳をお持ちのようですわね」
彼は怒りを露わに一歩踏み出し、大広間に響き渡る大声で叫んだ。
「屁理屈は終わりだ! エスター、貴様の罪は死をもって贖うがいい!」
私は手を組んだまま、静かに首を横に振った。
「繰り返し申し上げますが、私は一切の罪を犯しておりません。私にとって真の罰であったと言えるのは、貴方様と婚約していたことくらいですわ」
私の微塵も揺るがない態度に、隣の女は顔色を失って蒼白になり、周囲の貴族たちは私の処刑が始まるのではないかと息を殺していた。
恐れの欠片もなく、ドレスの袖口をゆっくりと整える。
「イゾルデ様、この男を引き取ってくださり感謝いたしますわ。喜んで差し上げます……もっとも、お二人がここから勝利して生きて出られればの話ですが」
そこへ公爵が冷や汗を流しながら、私の放つ圧倒的な威圧感に気圧されるように慌てて駆け寄ってきた。
「エスター、頼む! 惨事になる前に、我が愚息の無礼を許してはくれまいか!」
私は計算高く、冷徹な視線を公爵に向けた。
「構いませんわ、公爵閣下。むしろ感謝しているくらいです。私を断罪するおつもりのようでしたが、おかげでこの件から手を引く完璧な口実ができましたもの」
その時、緊迫した空気を切り裂くように、一筋の涼やかな声が響き渡った。
「この断罪劇の末に婚約者の座が空いたのでしたら……エスター様、私が立候補してもよろしくて?」
姿を現したその人物に、私は視線を止めた。
「アークライト殿下……?」
彼は交わされる視線や周囲の剣呑な雰囲気を意にも留めず、悠然と前へ進み出た。
「左様だ」
全貴族が固唾をのんで見守る中、私は冷ややかに微笑んだ。
「私は殿下より四つ年上ですし、今まさに死罪を言い渡されかけた身、その上国中が混乱に陥っておりますのよ? 殿下にとって、あまりに危険すぎる結びつきになりませんこと?」
貴族たちの間に緊張した囁き声が広がった。政略結婚を受け入れる用意はあるものの、第二王子である彼と婚約を結ぶことが果たして適切なのだろうか。私の姉はすでに第一王子と婚約しており、我が 家の権力はすでに絶大なものだったのだから。
それに、四つも年下の輝かしい未来を持つ少年からその将来を奪ってしまうのは、いささか思慮に欠けるように思えた。どのような狂気が彼を駆り立てたのかは分からないが、一十四歳の少年が家の重圧も顧みずにそのような決断を下すのは早計にすぎる。私と結婚するということは、わがデュカル公爵家の柱石となることを意味するのだから。
私は目の前の少年に穏やかな視線を向け、ゆっくりと首を横に振った。
「殿下、おやめになられることをお勧めいたしますわ。なぜそのようなご提案をなさるのかは分かりかねますが、殿下には同年代の素晴らしい令嬢がほかにおいでになるはずです。それに、国王陛下がこのような王国に対する不敬をお許しになるはずがございません」
彼はその身にまとった気品を崩すことなく、静かに一歩前へ踏み出した。
「ご心配には及びません。父上にはすでにお話ししてあります」
一瞬の驚きから、私の睫毛がわずかに揺れた。
「……はい?」
私は小さく咳払いをしてすぐさま優雅な調子を取り戻すと、穏やかな微笑みを浮かべた。
「陛下とお話しなさった、とおっしゃいましたの?」
アークライト殿下は微かに首を傾げ、真っ直ぐな視線をこちらに向けたまま答えた。
「左様です。もし現在の婚約が破棄されるようなことがあれば、私が新たな婚約者として立候補する許可をいただきたい、と」
私は手にしていた扇をぎゅっと握りしめた。
「念のため確認させていただきますが……陛下は何とお答えになられたのですの?」
「『好きにしろ』と」
静寂が場を包み込み、私は思わず首を傾げた。
「なぜ陛下はそのようなお答えを……?」
「エスター様の婚約が重大な過失によって解消されるかもしれないと知り、父上に直談方いたしました。幼少の折より、私はエスター様が私の婚約者となってくださることを切望しておりました。ですが当時、父は幼子の戯言と取り合わず、テセオに先を越されてしまったのです」
その告白に興味を惹かれ、私は片方の眉を跳ね上げた。
「……お待ちになって。幼少の折から? 一体何のお話ですの?」
「私が初めてエスター様をお見かけしたのは、私が六歳ほどの頃、王宮の庭園でのことでした」
呆然と立ち尽くす貴族たちを余所に、私の脳裏をかすかな記憶がかすめた。当時は姉が未来の王太子妃として立ち振る舞い、両親が国の政務について議論を交わしていた頃だ。私はただそこにいて、貴族たちの目から逃れて目立たないように過ごす方法を探していたのだった。
記憶を辿るように、あごに指先をそっと添える。
「その際、何か特別なことでも list?」
彼は静かに首を横に振った。
「いいえ。私にとっては忘れがたい思い出ですが、エスター様にとってはきっと些細な出来事にすぎなかったのでしょう」
私は当時のことを思い返していた。周囲が政治の話題に花を咲かせる中、私は妹に見つかって夕食に野菜ばかり食べさせられるのを避けるため、庭園の植え込みの陰に隠れては菓子を口いっぱいに頬張っていたのだ。
依然として驚きから立ち直れずにいる宴会場の喧騒をよそに、私は再び腕を組み、目の前の幼い王子に楽しげな笑みを向けた。
「どうやら、私が庭園で己の不始末を隠そうと必死になっていた頃、殿下はこの国の未来を揺るがすような、遥かに危険な企みを巡らせておられたようですわね」
アークライト殿下は周囲の貴族たちの存在など意にも留めず、私から目を逸らさずに更にもう一歩踏み出した。
私はその光景を鮮明に思い出していた。あの日、彼は差し出された菓子を受け取り、口(にする前に)じっと私を見つめた後、「どんな宮廷晩餐会の馳走よりも美味しい」と漏らしたのだった。それ以来、殿下は夜会が開かれるたびに視線で私を探し、ひそかに二人だけの時間を共有しようと近づいてきていた。当時の国王陛下がその意図を笑い飛ばしていたとしても。
私は扇を軽やかに動かし、不意に頬を染めた朱を隠すように顔の半分を覆った。
あの頃は過ぎ去り、王室によって私の婚約が公に発表されると、密かな訪問は終わりを告げた。私を縛り付け、その存在感すら押し殺すような男に引き合わされたと知った時の殿下の衝撃は、計り知れないものだったに違いない。貴族社会のしきたりが、私の伸びやかな (振る舞いや)率直な笑顔を消し去っていくのを、殿下は受け入れることができなかったのだ。
貴族たちが息をのんで見守る中、殿下は極めて自然な所作で距離を縮め、更にもう一歩近づいてきた。
何年もの間、彼は陛下に訴え続け、ついに私の婚約を解消するための条項を突き止めたのだ。そして、婚約破棄が現実のものとなった暁には、第一に立候補する権利を賜る約束を勝ち取ったという。
彼の献身的な想いの重さに気恥ずかしさを覚え、私は視線を脇へと逸らし、大広間をうろ覚えに見渡した。周囲では、王国の喧騒の中で貴族たちが互いに視線を交わし、この劇的な光景に魅了されたように微笑みを浮かべ始めていた。
その時、大理石の床を激しく叩く乾いた音が、場の雰囲気を一変させた。テセオが怒りに満ちた足踏みをしたのだ。貴族社会全体が自分を完全に無視していることに気づき、その顔は怒りで歪んでいた。
「おい、エスター! 貴様、アークライトと浮気でもしていたのか?!」
私はゆっくりと首を傾げ、その滑稽な光景に小さく息を吐いた。照れくささでほんのり温かくなっていた頬は、一瞬にして冷ややかな平静を取り戻した。この愚かな男のぶしつけな割り込みに、心の中でひそかに感謝した。彼のおかげで、私の狼狽は綺麗さっぱりと消え去ったのだから。
「まあ……不貞を語る口で、他の女性の腰を抱いて登場されるとは。頭はよろしくて?」
テセオは歯を食いしばった。貴族たちが私を王子に心動かされている姿を見つめ、自分には蔑みしか向けられないことに耐えかねたのだ。彼の身勝手な論理では、私は許しを乞い、隣の女に対する冤罪を白状しているはずだった。
彼は顔に血をのぼらせ、激昂した様子で老貴族の方へと急に振り向いた。
「父上! エスターはイゾルデを痛めつけ、私の裏で私を欺いていた裏切り者の女です! このような女との婚約破棄を要求します!」
ノルクラム公爵は重々しく目を閉じ、ざわめく貴族たちの前へ一歩踏み出した。
「大声を出すな。婚約はすでに破棄されている。お前からは直ちに公爵家の継承権を剥奪し、その素行を改めさせるために修道院へ送る。もし改心できたなら、騎士団への入隊を取り持ってやるやもしれん。できねば、残りの人生をそこで作業に費やすことになるだろう」
「な、何を言っているのですか、父上?!」
「これはすでに決まったことだ。お前は私の警告を無視し、その育ちのせいで盲目となった。ノルクラム公爵家は私の代で終わらせる。爵位はただ王室へ返上するのみだ」
その時、鋭い悲鳴が静寂を切り裂いた。
「お待ちください!」
テセオの腕にしがみついていた若い女が、顔を蒼白にし、声を震わせながら前へ躍り出た。
「公爵家を諦める?! 修道院?! そんな話、誰も私に教えてくれませんでしたわ!」
私はノルクラム公爵へ視線を向けた。公爵は深い恥入る思いに沈み、ただ首を横に振るばかりだった。真実は明白だ。公爵は最初から明確に説明していたにもかかわらず、テセオが連れの女に現実を一切伝えていなかったのだ。
私は極めて落ち着き払った所作で、ドレスの袖口を整えた。
「どうやら話が全容まで届いていなかったようですわね、イゾルデ様。ですが、よくよく考えれば、貴女は全貴族の前で私に無実の罪をなすりつけました。それはわが家の名誉に対する重大な侮辱でございます」
アークライト殿下が私の隣に一歩寄り添い、冷ややかに両手を背中に回した。
「公爵家の評判を傷つけるに十分な告発だな」
殿下の後ろ立てに小さく頷き、彼の言葉が場にもたらす威圧感を心ゆくまで味わった。
「その通りですわ。したがって、無知を理由に言い逃れすることはできません。咎める相手をお探しなら、このような無様で公開の醜態を晒した愚か者のテセオを恨むことですわね」
「この人は、公爵になれば指一本動かさずに贅沢な暮らしができると言ったのです!」
イゾルデは完全に取り乱し、なりふり構わず叫んだ。
私は扇の陰で、忍び笑いを漏らした。
「高位貴族が怠惰に暮らしているとお考えだなんて、とんでもない思い違いですわね。爵位とは王国の重圧を背負うもの。本気でこの男にそれが支えられるとお思いでしたの? 家をこの男に委ねれば、崩壊を招くだけでしたわ」
イゾルデは現実の崩壊に打ちひしがれ、落ち入った破滅を処理しようと絶望の面持ちで虚空を見つめた。強欲さに目が眩んでいた彼女は、根本的にはテセオの愚かさの被害者に過ぎなかったのかもしれない。しかし、貴族社会はこの程度の身の程知らずを容赦しはしなかった。
一歩、また一歩と、その若い女は大理石の床に膝をつき、現実の重みに押し潰されて崩れ落ちた。
私はその前に佇んだまま、イゾルデの家名が下位貴族のどこかに属していたかを思い出そうとしていた。しかし、愛する女が床に崩れ落ち、貴族全員から自身の要求を無視されたテセオは、ついに完全に正気を失ってしまった。
憎悪で顔を歪ませ、額に血の気を上らせた彼は、手を伸ばしながら私に向かって飛びかかってきた。
その瞬間、この男の愚かさはもはや笑い事ではなくなった。己の行動の不条理さ、常識の欠如、そして一度として責任を取ろうとしなかった男の抑えきれない怒りは、あまりにも苛烈だった。私を目がけて突進してくるその姿に、背筋を本物の寒気が駆け抜けた。
「エスター!」
鈍く激しい衝撃が大広間に響き渡り、続いて大理石の床に重い音が落ちた。一瞬にして、会場全体が墓場のような静寂に包まれた。そしてその直後、高笑いとも狂気ともつかない高慢な笑い声が、壁の間に響き渡り始めたのだった。
突如として、耳の奥でかすかな耳鳴りが響いた。
ゆっくりと顔を巡らせると、視界はぼやけ、高笑いを上げながら私を指さすテセオの影が見えた。周囲の景色が奇妙に歪んで感じられる。冷たい床の上に倒れ込み、激しい衝撃を受けたのだと理解するまでに、数秒の時間を要した。
アークライト殿下が即座に私の元へと駆け寄ってきた。彼は私の傍らに膝をつき、必死の形相で何度も私の名を呼んでいたが、その声は鼓膜の奥で鈍く籠もって聞こえた。私の反応がないのを見るや、殿下は即座に衛兵へ手で合図を送り、侍医を直ちに呼ぶよう要求した。
床に血は流れていなかったが、衝撃の凄まじさは内部への深刻な損傷を予感させた。殿下はテセオへと顔を向け、底知れぬ激怒を込めた鋭い視線を突き刺した。
私たちの目の前で、男は不快な歪んだ笑みを浮かべたまま嘲笑い続けていた。婚約の喪失、父親からの絶縁、貴族社会からの軽蔑、そして愛する女からの見捨て。それらが彼の脆弱な理性を完全に粉砕し、自己満足に満ちた身勝手な正義感だけが彼を動かしていた。
殿下が掲げた手が命令を下すと、衛兵たちが一斉に動き出した。
テセオは大理石の床に押さえつけられながら激しく抗い、貴族たちに向かって自己弁護をしようと必死に喚き散らしていた。
アークライト殿下は静かに立ち上がり、襲撃者の父親の元へと冷徹な足取りで歩み寄った。
ノルクラム公爵は顔色を失い、事態の深刻さを悟ってその言葉を受け止めていた。
これ以上視界を保つことができず、私は目まぐるしい展開の連続に疲れ果て、静かに瞼を閉じた。宮廷医と私の専属メイドが急いで救護に駆けつける中、ノルクラム公爵は引きずられていく我が子の姿を見つめ、避けられぬ運命に屈するように苦い溜息を漏らしたのだった。
✲✲✲
私はまる三日の間、深い眠りに落ちていた。ようやく目を覚ました頃には、私を滅ぼしかけていたあの醜聞は完全に決着を迎えていた。
テセオは斬首に処され、ノルクラム公爵夫人ならびに彼の養育に関わった親族らは悉く爵位を剥奪された。ノルクラム公爵自身は残りの人生を神に捧げるべく自発的に地位を辞し、教会の僕となった。そしてイゾルデは、私に無実の罪を着せようとした罪により国外追放に処されたのだった。
私は枕の上でゆっくりと首を傾げ、ベッドの傍らに腰かける父を見つめた。
「私を一打ちしただけで斬首……少し厳しすぎる処分ではありませんこと?」
父は小さな溜息を漏らし、上着の衿元を正した。
「奴の狙いは、お前に真の危害を加える前にアークライト殿下を排除することだったのだよ」
「まあ……」
自室の静けさの中にありながらも、テセオの引きつった表情を思い出すと背筋に冷たい寒気が走った。彼の没落の引き金となったのは私だったかもしれないが、謝罪するつもりなど毛頭なかった。自らの破滅という引き金を引いたのは彼自身であり、その銃口を私の手に握らせたのもまた彼なのだから。
目を覚ました私を見て安堵の涙を流していた母が瞳を輝かせる中、父は真面目な面持ちで小さく咳払いをした。
「アークライト殿下より、正式な求婚の申し入れが届いている」
私は両親の視線を受け止めながら、ゆっくりと瞬きをした。
「……はい?」
父は上質な紙で仕立てられた、かすかに芳しい香りの漂う封筒を取り出し、うやうやしく私へと差し出した。
「極秘裏になされたものだが、殿下の直筆によるものだ」
手紙を取り出すと、どこか見覚えのある香りが私の鼻腔をくすぐり、続いて流麗で気品に満ちた筆致が目に飛び込んできた。そこには私の体を案じる言葉と共に、私の傍らで公爵家の柱石となるためならば王位継承権すら喜んで放棄するという、真摯な求婚の意志が綴られていた。全貴族の前で求婚してしまった軽率さを詫びつつも、二度と誰かに私を奪われるのではないかという恐れを素直に吐露していたのだった。
頬に突如として熱が集まるのを感じながら、私は震える指先でその紙を握りしめた。
「お父様……これをお読みになられたのですか?」
父は何とも言えない表情で視線を逸らした。
「ああ、読んだ」
私は赤面を隠そうと、その書状を胸元に強く押し当てた。
「では……これが何を意味するのかお分かりですの?」
手紙の行間からは、揺るぎない献身的な情愛が溢れ出していた。母は心底満足そうに微笑んでいる。政治的な障害を取り払えば、わが家の血脈にとってこれ以上ない最上の縁組みだった。
父は再びポケットを探ると、先ほどよりもシンプルでありながら極めて上質な第二の封筒を取り出した。
「お前が休んでいる間の面会希望は断ったのだがね、殿下からこれをお預かりしたのだ」
父は王家の紋章が入った手紙を手に保持したまま、静かに言葉を付け加えた。
「国王陛下からのものだ。要約すれば、全面的に祝福を与え、最終的な決断はお前に委ねる、とのことだ」
アークライト殿下に承諾の返事を送るかどうか、そしてその時期をいつにするかは、完全に私一人の肩に委ねられていた。
テセオの愚行が貴族たちの目の前で白日の下に晒されたため、彼の恐ろしい本性に関する噂は瞬く間に広まっていた。目ざとい国王は裏で手を回し、私に対する侮辱の事件を、逆境に気高く耐え抜いた悲劇のヒロインの物語へと巧みにすり替えたのだ。私が手に入れた自由という歓喜は、一人の高貴な令嬢の劇的な勝利を好む民衆の関心の陰へと隠れてしまった。
私は手紙を握りしめたまま、父の目を真っ直ぐに見つめた。
「お父様は、この件についてどのようにお考えですか?」
父は目の前で手を組み、わずかに視線を泳がせた。
「テセオの件で失敗した私が、偉そうに判断できる立場ではないのだがね。しかし認めざるを得まい、アークライト殿下ならわが家にとって類まれなる優秀な指導者となられるだろう」
「まあ、そうでしょうね……」
母は弾むような笑みを浮かべて一歩前へ踏み出し、その興奮を隠そうともしなかった。
「私は大賛成ですわ! もうこの世にいない方の悪口を言うのは気が引けますけれど、あの愚か者と比べれば誰であれマシというもの。そして殿下は、あらゆる選択肢の中でも群を抜いて素晴らしいお方ですもの」
手紙の陰で、私は軽く微笑んだ。母がテセオのことを何ら躊躇うことなく『愚か者』と呼ぶのを聞いて、胸がすっとしたのだ。
「それにね、女というものは自分を心から深く愛してくれる男の傍にいてこそ、本当の幸福を掴めるのです。ありのままの自分を尊んでくれる男の傍にね」
私はシーツの皺をかすかに強く握りしめた。
「ですが、殿下は私より四つも年下ですのよ……」
母は軽く手を振って、それを取るに足らないことだとあしらった。
「そんなこと、些細な問題ですわ。それだけ長くあなたの傍にいてくれて、先に旅立たれてしまう心配もないということですもの」
その言葉の裏にある理屈を理解し、私は小さく息を吐いた。
「それならば……殿下が再び私の体調をお尋ねになられた際には、私からの前向きなお返事をお渡しくださいませ」
父は小さく頷いた。
「承知した」
母は私の表情を見ただけで気持ちを察し、さらに晴れやかな笑顔を見せた。
「すぐにこの知らせが届くよう手配いたしますわ。きっと、間を置かずにあなたに逢いにいらっしゃるでしょうね」
頬に再び灯る朱を隠すように、私は静かに顔を伏せた。
「ただ……焦らず、少しずつ始めていければと思っておりますの」
そう口にした時、私が襲われた瞬間のアークライト殿下の歪んだ表情、意識を失う前に私を支えてくれたその手の温もり、そして今、手紙から漂っているのと同じ彼の洗練された香りが脳裏に蘇った。
それから数年後、わが家は正式に公爵家へと爵位を進められた。
屋敷では、新しい公爵が私に対してあまりにも盲目的な献身を捧げるため、社交界でしばしば私が殿下を嗜めざるを得ないのだと、使用人たちがひそひそ話に花を咲かせていた。
華やぐ大広間の中、私に向かって歩み寄ってくるアークライトを見つめる。周囲の貴族たちが囁き交わす中、彼は私に穏やかな笑みを向けた。私はいつもの気品を保ったままその視線を受け止め、極めて静かにドレスを整えた。
結局のところ、この悪役令嬢は悪役になるつもりなど毛頭なかったばかりか……王国全体をその手中に収めてしまったのだった。




