第1話:買い出しのついでの「しつけ」は致し方ありません
第1話:買い出しのついでの「しつけ」は致し方ありません
その日、有馬閃の目的は「卵」だった。
特売の卵、1パック98円。
主婦の戦場、有馬家における「生存の条件」。
実家の山梨にある古びた道場。そこには、飛ぶハエの足だけを斬り落とす、剣聖と呼ばれる剣道8段、居合道8段の祖父の有馬千駕と、熊を素手でしつける、数多の古武術を極め立ち格闘技界で拳聖の異名を持つ父の有馬将、そして怒らせると文字通り山が動く、ポーランド出身の元プロ総合格闘家で中欧のアルティマウェポンの異名を持つ母の有馬クリスティーナがいる。彼らへの献上品を買い忘れることは、有馬家において「死」を意味した。
「……おかしいですね。スーパーは、右に曲がってすぐのはずなのですが」
閃は首を傾げた。
手に持ったチラシを握り締め、霧の深い森のど真ん中で立ち尽くす。
周囲には、見たこともない巨木が立ち並び、空気は肺を焼くような濃密な魔力――彼にとっては「少し湿っぽい空気」――に満ちていた。
「また、道に迷いましたか……。じいちゃんにバレたら、『1000本素振り』では済まないかもしれません」
閃は溜息をつく。
彼の方向音痴はもはや呪いの域にあった。焦れば焦るほど空間が歪み、気づけば見知らぬ土地にいる。
――思い返せば数時間前、霧に巻かれた瞬間に視界が真っ白になり、彼は奇妙な神殿のような場所に立っていた。
『異界の迷い子よ、驚くことはありません』
そこにいたのは、神々しい光を放つ女神だった。
彼女は慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、この世界が危機に瀕していること、そして閃に「救世主」としての役割を期待していることを告げた。
『あなたには、この世界で生き抜くための特別な力を授けましょう。望むスキルを言いなさい。破壊の魔法か、不滅の肉体か、それとも――』
「……隙を、なくしたいです」
閃は即答した。
女神は一瞬、きょとんとした顔をした。
『えっ…隙……ですか? 』
「隙を見せると、父にやられるので。一瞬の油断が死に直結するんです」
閃の脳裏には、稽古中に動作が一瞬遅れただけで飛んでくる親父の正拳突きがフラッシュバックしていた。
女神は彼の瞳に宿る、あまりに深すぎる「生存本能」の闇を見て、わずかに震えた。
『わかりました。あなたのその切なる願い、叶えましょう。10秒の間に1回だけ、自身の動作を0.1秒短縮し、因果を追い越す神速の業――ユニークスキル【刹那の削り(タイム・トリミング)】を授けます』
光が閃を包み込み、気づけば彼はこの森に立っていた。
本人にとっては「これで少しは親父の不意打ちを避けられるかもしれない」というささやかな安心材料を手に入れたに過ぎない。
だが、彼が踏み込んだのは、人類未踏の『禁忌の古戦場』。
100年前に国を滅ぼしかけた古龍が眠る、絶望の地だった。
――ズ、ズゥゥゥン。
大地が震えた。
森の奥から、山のような巨体が現れる。
古龍、エンシェント・ドラゴン。
その咆哮1回で小国が消えると言われる厄災。黄金の瞳が閃を捉え、大気が震動する。
『小さき者よ。我が眠りを妨げる、死を覚悟したか』
脳内に直接響く、威圧的な念話。
だが、閃の感想は極めて淡白なものだった。
「……威圧感はすごいですが。じいちゃんの『晩飯抜きだぞ!』と言われた時の眼光に比べれば、まだ優しいですね」
閃は、ごく自然に腰の得物に手をかけた。
それはいつも稽古用に持っている、黒ずんだ古い木刀だ。だが、有馬家の人間にとって、手に持つものが真剣だろうが箸だろうが、そこに大した差異はなかった。
『愚かな。その棒切れで、我を――』
古龍が動いた。
巨大な前足が、音速を超えて閃を圧殺しようと振り下ろされる。
刹那。
先ほど女神から貰ったスキルが、無意識に発動する。
「……少し、急ぎますね。タイムセールが始まってしまいますから」
自身の動作から、無駄な「0.1秒」を強制的に削除する。
他者から見れば、それは因果を無視した「瞬間移動」にすら見える神域の業。
スッ、と閃の体が揺れた。
古龍の爪が、彼が先程までいた地面を粉砕する。だが、閃はすでにその懐に入り込んでいた。
「有馬流・居合――『瞬閃』」
抜く動作。当たる瞬間。戻す残心。
その間のプロセスを「削った」一撃。
パシィィィン!
と、森に乾いた音が響く。
木刀が古龍の眉間に触れた。ただ、それだけ。
だが、古龍の巨体はまるで巨岩に激突したかのように仰け反り、地響きを立ててひっくり返った。
『な……っ、がはっ……!? 今のは、物理的な……衝撃、ではなく……概念的な……?』
「暴れてはダメですよ。じいちゃんも言ってました。『しつけの基本は、痛くしすぎないこと』だと」
実際は、じいちゃんの「しつけ」は山を一つ消し飛ばすレベルだったが、閃にとってはこれが「適度」な加減だった。
古龍は痙攣し、そのまま意識を手放した。
伝説の厄災が、1人の青年による「軽い説教」で沈黙した瞬間だった。
「さて、買い出しを急がないと。おや、あそこに光る草が。これは見たことがないぞ」
閃は足元に生えていた、7色に輝く草を適当にむしり取ると、それをエコバッグに放り込んだ。
「……あ、トカゲさんの角も折れてますね。邪魔そうですし、拾っておきましょう。何か置物にしても良さそうですね」
古龍の額から剥がれ落ちた黄金の逆鱗(角)を拾い上げ、彼は再び歩き出した。
方向なんて分からない。だが、「とにかくあっちの方にスーパーがあるはずだ」という強い(そして間違った)信念だけを頼りに。
1時間後。
閃がたどり端いたのは、スーパーではなく、石造りの街壁がそびえ立つ王都だった。
「……また、全然違う場所ですね。困りました」
途方に暮れる閃。そんな彼の前に、ボロボロの装備を纏った美しいハイエルフが現れた。
「ちょ、ちょっと、あなた! 立ち入り禁止区域から来なかった!?」
銀髪を振り乱し、必死の形相で詰め寄ってきたのは、元・特級冒険者のアルウェンだった。
彼女は、閃が持っている「袋」の中身を見て、目を見開いた。
「……それ。まさか、神霊草? それに、その黄金の塊は……古龍の逆鱗……!? あなた、一体どこから来たの?」
「え、ああ、すみません。今、おつかいの途中で…」
閃は深々と頭を下げた。有馬家の教え、常に謙虚であれ。
「道に迷ってしまって。変なトカゲに絡まれたので、少し大人しくしてもらったんですが……。あの、ここから近所のスーパー『オギノ』にはどう行けばいいでしょうか?」
「スーパー……オギノ……? 何それ、知らないわよ! というか、トカゲって……まさか、あの古龍を倒したっていうの!?」
「倒すなんて滅相もない。少し、しつけをしただけです。修行不足で、一撃では終わらなかったですし」
閃は本気で「じいちゃんならもっと綺麗に処理したはずだ」と落ち込んでいた。
だが、アルウェンにはそれが「底知れない強者の余裕」にしか見えなかった。
「……あなた、名前は?」
「有馬、閃です」
「アリマセン……。わかったわ。あんた、放っておけないわね。その方向音痴、私が案内してあげる。その代わり、その獲物をギルドに持っていきなさい。……じゃないと、この国がパニックになるから!」
「案内してくださるんですか! ありがとうございます!」
閃はパッと顔を輝かせた。
「よかった。これで夕飯の門限には間に合いそうです」
「(……この男、絶対におかしい。何なの、この圧倒的な殺気と、それに相反する卑屈なまでの謙虚さは……!)」
アルウェンの予感は正しかった。
これは有馬家の「当たり前」が、異世界の「絶望」を塗り替えていく物語。
迷子による、冒険がここから始まる。
しかし、この時の閃の悩みはただ一つ。
――「このエコバッグ、卵が入るスペースがなくなってしまいましたね」
実家の「魔境」に比べれば、異世界の存亡など、些末な問題でしかなかったのである。




