世界の終わりは、思ったより静かだった
世界が終わるとき、たぶん誰かが気づいている。
ただ、言わないだけで。
言ったところで、どうにもならないから。
お時間があれば、最後までお付き合いください。
最初に気づいたのは、音のことだった。
十月の第二月曜日。朝七時十八分。
中村灯は、いつも通り目を覚ました。アラームより三分早く。それはいつものことだった。物心ついた頃からそうだ。目が開いて、天井を見て、三分後にアラームが鳴って、止める。なぜそうなのかは、考えたことがなかった。
カーテンを開けると、川崎市の住宅街に朝が来ていた。隣のアパートの壁。電線。自販機。曇り空。
ただ——雀が、鳴いていなかった。
電線に三羽いた。くちばしを動かしているように見えた。でも、音がしなかった。
窓を開けた。風は入ってきた。ゴミ収集車のオレンジ色が角を曲がっていった。
音だけが、薄かった。
気のせいかもしれない。
シャワーを浴びた。トーストを焼いた。コーヒーを淹れた。音はした。ただ、遠かった。全部、少しだけ遠かった。
鍵を閉めて、外に出た。廊下に朝の光が落ちていた。自分の影が、床に伸びていた。
なんでもなかった。ただの影だった。
駅へ向かった。
電車の中で、向かいに座った男性がイヤホンをしていた。
音楽が漏れていなかった。
それは普通のことだ。最近のイヤホンは性能がいい。それだけのことだ。
でも灯は、その男性をしばらく見ていた。
あの人は今、何を聴いているんだろう。あるいは——何も聴こえていないんじゃないか。
……気のせいだ。
窓の外に目を向けた。住宅街が流れていった。
会社についた。
「おはようございます」
「おはようございます」
それだけのことだった。
昼休み、食堂で田中さんと昼食を食べた。
田中さんは経理部で、灯より三つ年上だった。同じフロアで五年一緒に働いている。悪い人ではない。ただ、それ以上でも以下でもなかった。
「なんか顔色悪くないですか」
田中さんはお弁当を開けながら言った。
「そうですか」
「昨日ちゃんと寝ました?」
「寝ました」
「なんか、目が遠い感じがして」田中さんは首を傾けた。「前からそうだっけ」
「前から、ですよ」
「そうだっけ」
卵焼きを食べた。
食堂の窓の外に、空があった。曇り空だった。ただ、西の端が、わずかに暗かった。夜が滲んでいるみたいに。
灯はそれを見た。
見て、何も言わなかった。
言ったところで、どうにもならない。
気のせいかもしれない。
食器を返して、席に戻った。
翌日。
西の空の暗さが、広がっていた。
朝、カーテンを開けると、空の三分の一が暗かった。
おかしい、と思った。
それから、気のせいかもしれない、と思った。
天気予報を確認した。「曇り時々晴れ」だった。
会社へ行った。仕事をした。
昼休みに屋上へ上がった。
境界線が、朝より少し東に移動していた。じわじわと。波が引いていくみたいに、ゆっくりと。
誰かに言おうと思った。
やめた。
言ったところで、どうにもならない。
三日目。
駅のホームで電車を待っていると、ベンチに座っていた老人がいなくなっていた。
立ち上がる瞬間を、見ていなかった。目を向けると、いた。目を逸らして、また向くと、いなかった。
ベンチに、折りたたんだ傘だけが残っていた。
電車が来た。灯は乗った。ドアが閉まる直前、ベンチを振り返った。
傘が、まだあった。
電車が動き出した。
一駅。二駅。人が降りていく。普通のことだ。でも今日は、降りていく人たちの背中を、いつもより長く見ていた。
あの人たちは、ちゃんとホームに降りているのか。
ドアの向こうに、ちゃんと続きがあるのか。
……確認する方法が、ない。
終点の手前で、車内に灯一人になった。
静かすぎた。
空の西側は、もう半分を超えていた。
言わなかった。誰にも。
四日目。
影が、薄くなっていた。
昼休み、コンビニへの道を歩いていて気づいた。アスファルトに落ちる自分の影が、薄かった。他の人の影も、電柱の影も、建物の影も、全部薄かった。
コンビニに入った。いつものレジの店員がいなかった。別のアルバイトの子が入っていた。
シフトが変わっただけだ。よくあることだ。
おにぎりを買った。
「ありがとうございました」
声が、遠かった。
外に出た。
空の西側は、もう三分の二を覆っていた。
言おうと思った。コンビニの店員に。ねえ、空おかしくないですか、と。
やめた。
あの子に空をどうにかする力はない。灯にも、ない。だったら言っても意味がない。
食堂に戻った。田中さんがドラマの話をした。面白かったらしい。灯は聞いた。笑うべきところで笑った。
「中村さん、最近目が死んでますよ」
笑いながら。
「そんなことないですよ」
「何か悩んでることありますか」
「ないですよ」
「本当に?」
「本当に」
田中さんは少し間を置いた。「まあ、何かあったら言ってくださいよ」
「はい」
食器を返しながら、思った。
言ったら、何が変わるんだろう。
答えは出なかった。
帰り道、スーパーに寄った。野菜売り場で、隣に女性が来た。キャベツを手に取った。値段を確認して、カゴに入れた。
足音が、しなかった。
スニーカーを履いていた。フローリングの床を歩いていた。音がしなかった。
灯はキャベツを持ったまま、少し立ち尽くした。
その女性が、振り返った。目が合った。
何も言わなかった。
少し微笑んで、また歩いていった。今度は、足音がした。
灯はその足音を聞きながら、息を吐いた。
レジに向かった。
帰って、飯を食って、寝た。夢は見なかった。
五日目。
音が、ほとんど消えた。
アラームの音が聞こえなかった。振動で気づいた。
外に出ると、車が走っていた。でも音がしなかった。子どもが走っていた。でも声がしなかった。風が吹いていた。でも音がしなかった。
全部が、無音映画みたいだった。
会社に着いた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「今日なんか静かじゃないですか」
田中さんが、そう言った。
灯は少し驚いた。
「……気のせいだと思いますよ」
「そうですかね。なんかいつもより静かな気がするんですよね」
「秋だからじゃないですか」
「ああ、そうかも」
仕事をした。
昼、屋上に上がった。
空の青が、もうほとんどなかった。東の端に、わずかに残っているだけだった。あとは全部、暗かった。光のない暗さだった。
誰もいなかった。灯一人だった。
言う相手も、いなかった。
言ったところで、どうにもならない。
屋上を出た。
帰り際、田中さんが「また明日」と言った。
「また明日」
エレベーターのドアが閉まった。
田中さんの背中が、消えた。
田中さんは明日、ちゃんとここに来るだろうか。
——来るに決まっている。
首を振って、帰った。
コーヒーを淹れた。飲んだ。温かかった。苦かった。
それだけが、はっきりしていた。
六日目。
空が、全部暗かった。
東も西も、全部。時計は七時十七分だった。
灯は会社を休んだ。
テレビをつけた。画面の中の空は、青かった。「今日は全国的に晴れ」とキャスターが言っていた。
窓の外は、暗かった。
テレビを消した。
外では、町が動いていた。車が走っていた。人が歩いていた。みんな、普通にしていた。空が暗いことを、誰も気にしていなかった。
灯だけが、気にしていた。
——あるいは。
気づいているけど、言わない人間が、どこかにいるかもしれない。田中さんでさえ、「なんか静かな気がする」と言っていた。
灯が「気のせいだと思いますよ」と返したから、そう思うことにしただけで。
その考えを、途中で止めた。
コーヒーを淹れた。
昼過ぎ、田中さんからメッセージが来た。
「大丈夫ですか?」
しばらく、そのメッセージを見ていた。
「なんか変な感じがして」と打った。送ろうとして、消した。
「大丈夫です、すみません」と打った。送った。
「無理しないでください、また明日」
スマートフォンを置いた。
また明日。
田中さんは明日も来るつもりでいる。世界が暗くても、また明日がある前提で動いている。
田中さんのメッセージを読んで、少し、温かかった。
夕方、外に出た。
猫が一匹、塀の上にいた。灯を見た。逃げなかった。
声をかけようと思った。
やめた。
猫は、しばらくしてから、塀の向こうへ消えた。
帰った。コーヒーを淹れた。飲んだ。温かかった。苦かった。
それだけが、その日もはっきりしていた。
七日目。
誰も、いなかった。
朝、目が覚めた。アラームより三分早く。いつものことだった。
カーテンを開けると、空は暗かった。昨日よりも。もはや夜と言っても良かった。ただ、時計は七時十八分だった。
着替えて、外に出た。
町は、あった。建物はあった。道路はあった。信号は青と赤を繰り返していた。自販機は光っていた。
ただ——人が、いなかった。
一人も。
車も走っていなかった。自転車もなかった。犬も猫も鳥も、いなかった。
音は、完全に消えていた。
信号が青になった。渡った。
コンビニに入った。棚に商品が並んでいた。レジには誰もいなかった。缶コーヒーを一本取った。百二十円を、カウンターに置いた。
外に出た。
プルタブを開けた。その音だけが、した。
飲んだ。温かかった。苦かった。うまかった。
川の方へ歩いた。どこへ向かうかは、決めていなかった。ただ、歩いた。
川沿いに出ると、川は流れていた。
水の音がした。
この七日間で、初めてはっきり聞こえた音だった。
川べりに立った。川面を見た。暗い空が映っていた。灯の顔も映っていた。
しばらく、見ていた。
七日間のことを、思った。
鳴かなかった雀。薄くなっていく影。足音のなかった女性と目が合った瞬間。田中さんが「なんか静かな気がする」と言ったこと。「気のせいだと思いますよ」と返したこと。「なんか変な感じがして」と打って、消したこと。
何度も、言えなかった。
言ったところで、どうにもならない——そうやって、ずっと飲み込んでいた。
でも。
本当に、気のせいだったか。
川面に映った自分の顔を見た。
その顔が、答えを知っていた。
ゆっくりと、息を吸った。
暗い空の下で、誰もいない川沿いで、声に出した。
「気のせいじゃなかった」
誰も聞いていなかった。返事もなかった。空が明るくなったわけでもなかった。人が戻ってきたわけでもなかった。
ただ。
川面が、少し揺れた。
風もないのに。
水面に映る自分の顔が、揺れながら、ぼんやりと光っていた。
光源はなかった。でも、光はあった。
気づかなかった。
自分が光っていることに。
缶コーヒーを最後まで飲んだ。缶を、川沿いのゴミ箱に捨てた。
また、歩き始めた。暗い町の中を。誰もいない道を。どこへ向かうかも知らないまま。
足音が、した。
自分の足音が、ちゃんと、した。
——誰もいない町で、灯だけが、まだ光っていた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
この話を書き始めたのは、ある朝、電車の中でふと思ったことがきっかけでした。
向かいに座っている人が、イヤホンをしていた。音は漏れていなかった。それだけのことなのに、なぜか——あの人には、今、何も聴こえていないんじゃないか、と思ってしまったんです。
根拠はなかった。ただ、その考えが頭から離れなかった。
「気づいているけど、言わない」ことって、日常の中にたくさんあると思います。おかしいと思っても、気のせいかもしれないと思って飲み込む。言ったところで、どうにもならないと思って黙る。
灯もそうでした。
でも、最後に一言だけ声に出した。誰も聞いていない場所で。それで何かが変わったわけでもない。ただ、川面が少し揺れた——それだけの話です。
それだけのことが、書きたかった。
読んでくださったあなたの中に、少しでも何かが残れば、うれしいです。




