表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

世界の終わりは、思ったより静かだった

作者: 終電作家
掲載日:2026/03/20

世界が終わるとき、たぶん誰かが気づいている。

ただ、言わないだけで。

言ったところで、どうにもならないから。

お時間があれば、最後までお付き合いください。


 最初に気づいたのは、音のことだった。


 十月の第二月曜日。朝七時十八分。


 中村灯は、いつも通り目を覚ました。アラームより三分早く。それはいつものことだった。物心ついた頃からそうだ。目が開いて、天井を見て、三分後にアラームが鳴って、止める。なぜそうなのかは、考えたことがなかった。


 カーテンを開けると、川崎市の住宅街に朝が来ていた。隣のアパートの壁。電線。自販機。曇り空。


 ただ——雀が、鳴いていなかった。


 電線に三羽いた。くちばしを動かしているように見えた。でも、音がしなかった。


 窓を開けた。風は入ってきた。ゴミ収集車のオレンジ色が角を曲がっていった。


 音だけが、薄かった。


 気のせいかもしれない。


 シャワーを浴びた。トーストを焼いた。コーヒーを淹れた。音はした。ただ、遠かった。全部、少しだけ遠かった。


 鍵を閉めて、外に出た。廊下に朝の光が落ちていた。自分の影が、床に伸びていた。


 なんでもなかった。ただの影だった。


 駅へ向かった。





 電車の中で、向かいに座った男性がイヤホンをしていた。


 音楽が漏れていなかった。


 それは普通のことだ。最近のイヤホンは性能がいい。それだけのことだ。


 でも灯は、その男性をしばらく見ていた。


 あの人は今、何を聴いているんだろう。あるいは——何も聴こえていないんじゃないか。


 ……気のせいだ。


 窓の外に目を向けた。住宅街が流れていった。


 会社についた。


「おはようございます」


「おはようございます」


 それだけのことだった。





 昼休み、食堂で田中さんと昼食を食べた。


 田中さんは経理部で、灯より三つ年上だった。同じフロアで五年一緒に働いている。悪い人ではない。ただ、それ以上でも以下でもなかった。


「なんか顔色悪くないですか」


 田中さんはお弁当を開けながら言った。


「そうですか」


「昨日ちゃんと寝ました?」


「寝ました」


「なんか、目が遠い感じがして」田中さんは首を傾けた。「前からそうだっけ」


「前から、ですよ」


「そうだっけ」


 卵焼きを食べた。


 食堂の窓の外に、空があった。曇り空だった。ただ、西の端が、わずかに暗かった。夜が滲んでいるみたいに。


 灯はそれを見た。


 見て、何も言わなかった。


 言ったところで、どうにもならない。


 気のせいかもしれない。


 食器を返して、席に戻った。





 翌日。


 西の空の暗さが、広がっていた。


 朝、カーテンを開けると、空の三分の一が暗かった。


 おかしい、と思った。


 それから、気のせいかもしれない、と思った。


 天気予報を確認した。「曇り時々晴れ」だった。


 会社へ行った。仕事をした。


 昼休みに屋上へ上がった。


 境界線が、朝より少し東に移動していた。じわじわと。波が引いていくみたいに、ゆっくりと。


 誰かに言おうと思った。


 やめた。


 言ったところで、どうにもならない。





 三日目。


 駅のホームで電車を待っていると、ベンチに座っていた老人がいなくなっていた。


 立ち上がる瞬間を、見ていなかった。目を向けると、いた。目を逸らして、また向くと、いなかった。


 ベンチに、折りたたんだ傘だけが残っていた。


 電車が来た。灯は乗った。ドアが閉まる直前、ベンチを振り返った。


 傘が、まだあった。


 電車が動き出した。


 一駅。二駅。人が降りていく。普通のことだ。でも今日は、降りていく人たちの背中を、いつもより長く見ていた。


 あの人たちは、ちゃんとホームに降りているのか。


 ドアの向こうに、ちゃんと続きがあるのか。


 ……確認する方法が、ない。


 終点の手前で、車内に灯一人になった。


 静かすぎた。


 空の西側は、もう半分を超えていた。


 言わなかった。誰にも。





 四日目。


 影が、薄くなっていた。


 昼休み、コンビニへの道を歩いていて気づいた。アスファルトに落ちる自分の影が、薄かった。他の人の影も、電柱の影も、建物の影も、全部薄かった。


 コンビニに入った。いつものレジの店員がいなかった。別のアルバイトの子が入っていた。


 シフトが変わっただけだ。よくあることだ。


 おにぎりを買った。


「ありがとうございました」


 声が、遠かった。


 外に出た。


 空の西側は、もう三分の二を覆っていた。


 言おうと思った。コンビニの店員に。ねえ、空おかしくないですか、と。


 やめた。


 あの子に空をどうにかする力はない。灯にも、ない。だったら言っても意味がない。


 食堂に戻った。田中さんがドラマの話をした。面白かったらしい。灯は聞いた。笑うべきところで笑った。


「中村さん、最近目が死んでますよ」


 笑いながら。


「そんなことないですよ」


「何か悩んでることありますか」


「ないですよ」


「本当に?」


「本当に」


 田中さんは少し間を置いた。「まあ、何かあったら言ってくださいよ」


「はい」


 食器を返しながら、思った。


 言ったら、何が変わるんだろう。


 答えは出なかった。


 帰り道、スーパーに寄った。野菜売り場で、隣に女性が来た。キャベツを手に取った。値段を確認して、カゴに入れた。


 足音が、しなかった。


 スニーカーを履いていた。フローリングの床を歩いていた。音がしなかった。


 灯はキャベツを持ったまま、少し立ち尽くした。


 その女性が、振り返った。目が合った。


 何も言わなかった。


 少し微笑んで、また歩いていった。今度は、足音がした。


 灯はその足音を聞きながら、息を吐いた。


 レジに向かった。


 帰って、飯を食って、寝た。夢は見なかった。





 五日目。


 音が、ほとんど消えた。


 アラームの音が聞こえなかった。振動で気づいた。


 外に出ると、車が走っていた。でも音がしなかった。子どもが走っていた。でも声がしなかった。風が吹いていた。でも音がしなかった。


 全部が、無音映画みたいだった。


 会社に着いた。


「おはようございます」


「おはようございます」


「今日なんか静かじゃないですか」


 田中さんが、そう言った。


 灯は少し驚いた。


「……気のせいだと思いますよ」


「そうですかね。なんかいつもより静かな気がするんですよね」


「秋だからじゃないですか」


「ああ、そうかも」


 仕事をした。


 昼、屋上に上がった。


 空の青が、もうほとんどなかった。東の端に、わずかに残っているだけだった。あとは全部、暗かった。光のない暗さだった。


 誰もいなかった。灯一人だった。


 言う相手も、いなかった。


 言ったところで、どうにもならない。


 屋上を出た。


 帰り際、田中さんが「また明日」と言った。


「また明日」


 エレベーターのドアが閉まった。


 田中さんの背中が、消えた。


 田中さんは明日、ちゃんとここに来るだろうか。


 ——来るに決まっている。


 首を振って、帰った。


 コーヒーを淹れた。飲んだ。温かかった。苦かった。


 それだけが、はっきりしていた。





 六日目。


 空が、全部暗かった。


 東も西も、全部。時計は七時十七分だった。


 灯は会社を休んだ。


 テレビをつけた。画面の中の空は、青かった。「今日は全国的に晴れ」とキャスターが言っていた。


 窓の外は、暗かった。


 テレビを消した。


 外では、町が動いていた。車が走っていた。人が歩いていた。みんな、普通にしていた。空が暗いことを、誰も気にしていなかった。


 灯だけが、気にしていた。


 ——あるいは。


 気づいているけど、言わない人間が、どこかにいるかもしれない。田中さんでさえ、「なんか静かな気がする」と言っていた。


 灯が「気のせいだと思いますよ」と返したから、そう思うことにしただけで。


 その考えを、途中で止めた。


 コーヒーを淹れた。


 昼過ぎ、田中さんからメッセージが来た。


「大丈夫ですか?」


 しばらく、そのメッセージを見ていた。


 「なんか変な感じがして」と打った。送ろうとして、消した。


 「大丈夫です、すみません」と打った。送った。


「無理しないでください、また明日」


 スマートフォンを置いた。


 また明日。


 田中さんは明日も来るつもりでいる。世界が暗くても、また明日がある前提で動いている。


 田中さんのメッセージを読んで、少し、温かかった。


 夕方、外に出た。


 猫が一匹、塀の上にいた。灯を見た。逃げなかった。


 声をかけようと思った。


 やめた。


 猫は、しばらくしてから、塀の向こうへ消えた。


 帰った。コーヒーを淹れた。飲んだ。温かかった。苦かった。


 それだけが、その日もはっきりしていた。





 七日目。


 誰も、いなかった。


 朝、目が覚めた。アラームより三分早く。いつものことだった。


 カーテンを開けると、空は暗かった。昨日よりも。もはや夜と言っても良かった。ただ、時計は七時十八分だった。


 着替えて、外に出た。


 町は、あった。建物はあった。道路はあった。信号は青と赤を繰り返していた。自販機は光っていた。


 ただ——人が、いなかった。


 一人も。


 車も走っていなかった。自転車もなかった。犬も猫も鳥も、いなかった。


 音は、完全に消えていた。


 信号が青になった。渡った。


 コンビニに入った。棚に商品が並んでいた。レジには誰もいなかった。缶コーヒーを一本取った。百二十円を、カウンターに置いた。


 外に出た。


 プルタブを開けた。その音だけが、した。


 飲んだ。温かかった。苦かった。うまかった。


 川の方へ歩いた。どこへ向かうかは、決めていなかった。ただ、歩いた。


 川沿いに出ると、川は流れていた。


 水の音がした。


 この七日間で、初めてはっきり聞こえた音だった。


 川べりに立った。川面を見た。暗い空が映っていた。灯の顔も映っていた。


 しばらく、見ていた。


 七日間のことを、思った。


 鳴かなかった雀。薄くなっていく影。足音のなかった女性と目が合った瞬間。田中さんが「なんか静かな気がする」と言ったこと。「気のせいだと思いますよ」と返したこと。「なんか変な感じがして」と打って、消したこと。


 何度も、言えなかった。


 言ったところで、どうにもならない——そうやって、ずっと飲み込んでいた。


 でも。


 本当に、気のせいだったか。


 川面に映った自分の顔を見た。


 その顔が、答えを知っていた。


 ゆっくりと、息を吸った。


 暗い空の下で、誰もいない川沿いで、声に出した。


「気のせいじゃなかった」


 誰も聞いていなかった。返事もなかった。空が明るくなったわけでもなかった。人が戻ってきたわけでもなかった。


 ただ。


 川面が、少し揺れた。


 風もないのに。


 水面に映る自分の顔が、揺れながら、ぼんやりと光っていた。


 光源はなかった。でも、光はあった。


 気づかなかった。


 自分が光っていることに。


 缶コーヒーを最後まで飲んだ。缶を、川沿いのゴミ箱に捨てた。


 また、歩き始めた。暗い町の中を。誰もいない道を。どこへ向かうかも知らないまま。


 足音が、した。


 自分の足音が、ちゃんと、した。


 ——誰もいない町で、灯だけが、まだ光っていた。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

この話を書き始めたのは、ある朝、電車の中でふと思ったことがきっかけでした。

向かいに座っている人が、イヤホンをしていた。音は漏れていなかった。それだけのことなのに、なぜか——あの人には、今、何も聴こえていないんじゃないか、と思ってしまったんです。

根拠はなかった。ただ、その考えが頭から離れなかった。

「気づいているけど、言わない」ことって、日常の中にたくさんあると思います。おかしいと思っても、気のせいかもしれないと思って飲み込む。言ったところで、どうにもならないと思って黙る。

灯もそうでした。

でも、最後に一言だけ声に出した。誰も聞いていない場所で。それで何かが変わったわけでもない。ただ、川面が少し揺れた——それだけの話です。

それだけのことが、書きたかった。

読んでくださったあなたの中に、少しでも何かが残れば、うれしいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ