第10話 薬師の表と裏
小さな街の市場に、簡易的な診療所を開いた。
布一枚を日除けにし、薬草を並べた棚の前に座る。街道沿いの宿場町。焼いた肉の脂と、干し草と、馬糞の匂いが混ざった市場の空気。人口は千に満たないが、交易路の中継地点として人の出入りは多い。薬師の看板を出せば、半日もしないうちに列ができる。
彼女が棚の横で薬を小分けにしている。紙の包みに用量を書き込み、患者ごとに分けて並べていく。この女は整理が速い。司書の訓練を受けた人間は、情報を分類する手つきが違う。患者が増えても混乱しない。三人分の処方を同時に管理して、一度も間違えない。
最初の患者は子供だった。母親に手を引かれてきた。五つか六つ。顔色が悪い。
膝をつき、子供の目線に合わせる。
「大丈夫ですよ。ちょっとお腹を触らせてくださいね」
腹部を軽く押す。右下腹部で子供が顔を顰めた。冷えだ。腸の動きが鈍っている。
「——ああ、冷えましたね。甘草の煎じ薬をお出ししますので、温かいうちに少しずつ飲ませてあげてください。二日で治りますから」
母親が何度も頭を下げる。「おいくらですか」
「お代は結構です。旅の薬師ですので」
微笑む。穏やかに。誰に対しても同じように。
関節痛の老婆には温湿布の調合法を紙に書いて渡した。「無理はなさらないでくださいね。この配合でお作りになれば、しばらくは楽になりますから」。風邪の青年には解熱の煎薬を処方しつつ「三日ほどはお酒をお控えくださいませ。体が温まったように感じても、内臓は休みたがっておりますので」と柔和に忠告する。
丁寧で、的確で、効果が早い。午前中だけで十五人を診た。評判はすぐに広がる。
彼女が包みを渡しながら、小声で言った。
「普通に人助けしてるじゃない」
「表の信用がなければ裏の仕事はできない。薬師の信用は各地で通用する。情報も入る」
「本当にそれだけ?」
「それだけだ」
次の患者の脈を取っている。手つきが穏やかで、確かだ。
——この人はいつもそう。本心を言わない。合理的な理由をつけて、善いことを隠す。だからわからない。私のことを、どう思っているのかも。いや、私のことだけじゃない。この人自身が、自分の中の善意を認めていないのだ。
午後。市場の通りから騒ぎが聞こえてきた。
男が声を張り上げている。派手な装飾を施した荷車に色とりどりの瓶を並べ、両手を広げて住民を集めていた。
「さあさあ! 万病に効く秘薬だ! 熱病も腹痛も関節の痛みも、これ一本で全部治る! 聖都の修道院で秘伝の製法によって作られた——」
彼女が棚の整理をしていた手を止め、こちらを見た。
「……あの薬売り、朝から声が大きいと思ったら」
「知ってたのか」
「市場に来た時から見てた。瓶の色が全部同じなのに、ラベルだけ変えて別の薬のふりをしている。それと、荷車の車輪の泥が東街道のものじゃない。南から来てる。聖都は北よ」
——この女は目がいい。
母親が一人、列の先頭で立ち止まっている。腕に子供を抱えていた。子供の額に汗が浮き、頬が赤い。熱がある。母親の手が財布を握りしめたまま、値札と瓶を交互に見つめて動けないでいる。銀貨二枚。この街の日雇い労働者の三日分。
立ち上がった。
薬売りの前に立つ。瓶を一つ手に取り、蓋を開け、匂いを嗅いだ。一滴、指先に垂らして舌に載せる。甘い。それだけだ。薬効成分はゼロ。
「失礼。少し確認させていただいてもよろしいですか」
穏やかな声。薬師の微笑み。だが目が笑っていない。
「これは甘草水に蜂蜜を混ぜたものですね。原価は銅貨三枚ほどでしょうか。それを銀貨二枚で販売なさっている」
薬売りの顔が引き攣った。周囲の住民がざわめく。
「な——お前、何者だ」
「旅の薬師です。それと一点、気になることがございまして」
声は穏やかなまま。丁寧語を崩さない。だが一歩、距離を詰めた。
「聖都の修道院は戒律により薬の製造を禁じております。聖都に参拝された方でしたら、どなたでもご存知かと思いますが」
薬売りの額に汗が浮いている。周囲の視線が集まっている。逃げ場がない。
「もし、この瓶を一本でもお売りになりましたら——私がこの街の衛兵の方に、成分の分析書をお渡しいたします。書くのに一刻もかかりません」
笑みを崩さない。声は最後まで穏やか。
薬売りは荷車を押して去った。走りはしない。だが二度と振り返らなかった。
周囲からまばらな拍手が起き、やがて大きくなった。母親が駆け寄ってくる。
「ありがとうございます、薬師さま。危うく——」
「お気になさらず。お子さまの熱がおありでしたら、私の診療所にお越しください。すぐにお薬をお出しします」
振り返って歩く。彼女が隣に並んだ。
——また。この人はまた、合理的な理由をつけずにやった。「表の信用」とか「情報収集」とか、今の行動には何の関係もない。ただ、偽薬で金を取られそうな母親が目に入っただけだ。それだけで立ち上がった。
……この人は本当に——。
言葉が見つからない。いつも見つからない。
夜。
宿の一室。ランプの灯り。
乳鉢で薬草をすり潰している。明日の分の煎薬の仕込みだ。甘草の根を砕き、乾燥させた白蓍草を混ぜる。石と薬草がぶつかる乾いた音だけが、薄暗い部屋に響いている。
彼女はテーブルの向かい側に座り、地図に書き込みをしている。次の街までの距離と街道の状態、補給可能な拠点を一枚の紙に纏めている。こういう作業を任せると、この女は速くて正確だ。
「次は鉱山の街だ。勇者が魔物族と和平を進めている」
「それは……いいことでしょう?」
乳鉢を回す手が一瞬止まった。また動く。
「いいことだ。だが壊す」
沈黙。乳鉢の音。
「……今回は、今までと違う」
「……どう違うの」
ランプの炎が揺れた。窓の隙間から入った風が、部屋の空気を一瞬だけ冷やしていく。
「人を殺す」
乳鉢の音が止まった。
長い沈黙。彼女は俺の横顔を見ている。影がランプの灯りで壁に伸び、揺れている。
何も言わない。問い詰めることも、泣くこともしない。ただ、見ている。——この女はいつもそうだ。俺の言葉を、まず受け止める。受け止めた上で、自分の中で何かを組み立ててから、初めて口を開く。
だが今夜は、口を開かなかった。
薬の調合に戻った。手は震えていない。
——まだ。




