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呼べない名前

名前を呼ぶことは、

距離を認めることだ。


近づきたいほど、

人は言葉を失う。


夏目は、

もう朝、来ない。


目覚ましで起きて、

自分でネクタイを結んで、

少し歪んだまま家を出る。


誰にも何も言われない朝は、

静かすぎて、

かえって落ち着かなかった。


教室に入ると、

秋内がもう席にいた。


ノートを広げて、

ペンを走らせている。


「おはよう」


声をかけると、

彼女は顔を上げて、


「おはようございます」


そう言って、

少しだけ笑った。


その笑顔を見ると、

胸の奥が、

きゅっと鳴る。


名前を呼ぼうとして、

喉で止まった。


――秋内。

――つばさ。


どちらも、

まだ遠い。


授業中、

何度か視線が合う。


逸らしたのは、

俺の方だった。


昼休み、

夏目がいない席に座る。


弁当は一つだけ。


向かい側が、

やけに広い。


そこに、

秋内が立った。


「……ここ、いいですか?」


「あ、うん」


二人で食べる昼は、

思ったより静かだった。


でも、

気まずくはない。


沈黙が、

ちゃんと呼吸している。


「最近、

ネクタイ曲がってますよ」


秋内が言って、

指で軽く示す。


「自分でやってるから」


そう答えると、

彼女は少し驚いた顔をした。


「前は、

誰かがしてたんですか?」


その一言で、

胸が詰まる。


「……うん」


それ以上は、

言えなかった。


名前も、

過去も、

まだ整理できていない。


でも、

秋内の前では、

誤魔化したくなかった。


「なあ」


呼びかけて、

また止まる。


結局、

名前は呼べなかった。


秋内は、

何も聞かずに、

小さくうなずいただけだった。


その優しさが、

少しだけ、

痛かった。


呼べない名前があるうちは、

まだ、

踏み込めない場所がある。


でも、

立ち止まった場所は、

次の一歩の手前だ。


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