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春の嵐と名無しの愛  作者: 青桐鳳梨


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二度目の「好き」

 五限の授業は数学I・Aだった。中学生の頃、そこそこ得意だった因数分解も、複雑になった途端、理解が難しくなった。そもそも覚える公式が増えた。中学生の時に覚えた乗法公式の五倍ぐらい多い。そのくせ、それらを応用して問題を解く必要があるもんだから、嫌になってしまう。


 ただ、そう感じている人は僕だけではない。周りを見ると退屈そうにしている生徒は多かった。青次にいたっては授業開始から十分ぐらい経ったところで眠ってしまっていた。昼食後だから仕方がないのかもしれない。

 数学の担当は、あの祝井先生ではない。佐々岡先生、という若くて優しそうな男の先生だった。寝ている生徒を見ても起こしたりはしない。中学生、高校生なんて居眠りしてしまう生き物なのだから仕方がないと割り切っているのかもしれない。


「ああ……ねむ」


 と授業終わりの青次は暢気だ。なんというか.……ちょっと情けない。


「青次って、本当にこの学校の入試に通ったの?」

「何だよいきなり、失礼な奴だな」

「授業中、先生の話を聞かないで突っ伏しているヤツに言われたくないな」


 この学校の倍率は、大体一・五倍ぐらい。一学年三六〇人だから、志願者は五四〇人程度で、そのうちの一八〇人が落ちたことになる。

 この学校に通いたくてもできなかった人が一八〇人もいる。だからその人の分まで、しっかりと学習に励むべきだ、などと言うつもりはない。青次はその一八〇人に勝るぐらい勉強をしたのだろうし、落ちた一八〇人の中には、たった今青次がしていたような居眠りを勉強中にしていた受験生もいただろうから。


 僕や青次の中学校はここから近い。だからこの高校を志願する生徒も多くいたし、その分、落ちた生徒も合格した生徒も一定数いた。仲がいいグループみんなでこの学校に通いたい、と意気込んでいた集団もいて、でもやっぱり現実はそこまで単純ではなくて、そのグループの内落ちる生徒もいれば合格する生徒もいた。彼らの交流が今も続いているかどうかは僕の知るところではない。


 告白。先ほどの神野さんとの会話を思い出す。


 どうして青次はモテるのだろう?


 確かに顔はかっこいいし背も高い。気遣いができる、というわけではないのだが社交性は高く、誰とでもすぐに仲良くなれるような、砕けた雰囲気があった。


 授業中寝る、というのもある種の弱みで、そういった隙が他人の好意を集める。神野さんも青次のそういうところに惹かれたのだろう。


 告白のこと、訊いてやろうか。でも、本人が話さないことをわざわざ訊くこともないか。言わないことにも何かしらの意味があるはずで、それをわざわざほじくるのも美しくない。


「飲み物買ってくる」


 と言って僕は席を立つ。いってら、と気さくな返答で青次は僕を送り出した。

 そして、先ほどの小さなラウンジに行くと、いる。


 あの、春原そよぐと名乗って僕に告白してきた女の子が。


 見ない振りをしようか、自動販売機をスルーして別の場所に移動している途中であるように装うか。

 そのどちらも失敗し、僕は彼女と眼を合わせてしまう。不思議な引力を伴っているみたいに、彼女は僕の視線を引き付けてしまう。


「あ」


 とその子は言う。手に握られているのは砂糖がいっぱい入った紅茶で、そういうの飲むんだな、という感想を抱く。彼女のことをまた一つ知ることができた。が、その情報が僕と彼女の関係に何か新しいものを付け加えるかといえばそうではない。


「こんにちは、春原さん」


 と僕はかろうじて言う。


「あ……こんにちは、渡波くん」


 僕がそちらに一歩近づくと、彼女は一歩後ずさった。


「ちょっと待って」


 手に持った紅茶のペットボトルを顔のあたりに持ってくる。金色の液体が容器の中でふわっと揺らいだ。


「ちょっと……あまり近づいてほしくない、かも」

「……え」


 その言葉によって受けたショックは小さくない。言葉の意味を理解した瞬間、すっと周囲の気温が下がったような気がした。


「あ、いや、違くて。午前中に体育があったから、それで少し汗臭くなっちゃって」

「ああ……そういう」


 そういうもの、なのだろうか。彼女が言うのなら、そういうものなのだろう。適切な距離感を保ちたい、という気持ちはわからないでもなかった。ただ、少し遠すぎる。僕と彼女の間には三メートルぐらいの空間があって、会話をするには少々奇妙な間隔だ。


「飲み物買いに来たんでしょ? どうぞ」


 と言って彼女は自動販売機の前から後ずさる。ラウンジは小さく、奥にはガラス窓が貼られていて、向こうに体育館が見える。この狭い空間で、僕は彼女を追い詰めているような、そんな立ち位置に置かれていた。

 財布から小銭を取り出して自動販売機に入れる。その一挙手一投足を、彼女が後ろから観察しているみたいで落ち着かない。完全な思い込みなのだろうけど、どのボタンを押すのか、試されている心地がした。


「……春原さん、何かお勧めある?」

「ない」


 即答する。拒絶に似た響き、と僕が感じたのは被害妄想かもしれない。


「……リンゴジュースとか、私は好きだけど」


 と付け加えて、僕は彼女がちょっとわからなくなる。お勧め、ないんじゃないのかよ。

もともと彼女のことを知っているわけじゃないのだが、その不安定な言動に、より一層彼女への不理解が募る。


「リンゴジュースか……」


 正直、僕は甘い物があまり好きじゃない。かといってコーヒーみたいな大人っぽい飲み物も口に合わない。味もそうなのだが、カフェインの多く含まれた飲み物を飲むと、夜の寝つきが悪くなってしまう。

 僕は両手で緑茶と天然水のボタンを同時に押す。そうして自動販売機から吐き出されたのは、天然水だった。

 彼女はこの場を離れるタイミングを逃してしまったのか、まだこの場所にいた。二年生の集団がジャージを着て廊下を通り過ぎていく。体育だりい、と騒ぐ彼らの声は過度に廊下に響き渡って、ちょっと耳障りだった。


「……そういえば、春原さんは入る部活とか決めた?」

「部活、部活か」


 呟いて、彼女は考える仕草を見せる。


「中学の頃とは違う部活に入ろうかなって考えてる。中学は吹奏楽部だったんだけど、私には少し賑やかすぎ」

「賑やかなところ、嫌いなの?」

「無理して賑やかな振る舞いをしているのを見るのが、苦手」


 と独特な感想を述べる。明るい性格を装った人を見たくない、ということだろうか。そういう人は確かにいるけれども。


「渡波くんは、何部に入るの?」

「僕は……」


 中学の時はソフトテニス部に入っていた。そこそこ努力をしたが、最後の大会で勝てたのは一度だけだった。二回戦目は他校の二年生に負け、その二年生は次の試合でストレート負けした。どんなことでも、勝つことは難しい。


「部活とか、もういいかなとも思うんだよね」

「そう。ま、無理に入ることもないしね」


 彼女は軽々しく、僕に同意する。青次や神野さんは部活に入ることを勧めてきた。二人とは違った価値観を彼女は持っているみたいだ。気が合う、と言ってもいいのだろうか。


「そういえば、春原さんは文系、理系、どっちに進む?」


 緑北高校の生徒は、二年次から文系と理系に分けられる。その文理選択のアンケートは、なんと七月頃に行われるのだ。つまり、まだ入学してから数か月しか経ってないのに、文系に進むか理系に進むかを選ばなければいけない。文理のどちらに適性があるのか、まだわかっていないのに、大学への進学にも関わる選択をこの時期にしなければいけないのは、少し酷に思えた。


「どうかな……どっちでもいいかも。渡波くんは?」

「僕はどっちも嫌だ、という感じだ」


 深く考えずにそう言うと、彼女は鼻でふっと笑い、薄い微笑みを口元に浮かべて、こう続ける。


「そういう言い方、私は嫌い」


 と言われて、僕は少し揺らぐ。というか動揺する。


「文系か理系か、この時期に選ばなければいけないのは確かに大変だけど、そうやって可能性全てを(くた)すようなことを言うのは、ちょっと情けないと思うよ。大人になるのを(いと)っているような感じがする」


「そう……そっか」


 大人になるのを厭っている、という言葉は僕の身体に重たくのしかかる。大人になりたくないと思っているつもりはなかったのだが、そう見えている、というのは情けなく思う。


「でも君は好き」


 だよ、と言った彼女の声は尻すぼみになって消える。その顔は少し、というかかなり真っ赤になっていて、それを見た僕の顔も熱くなる。幸い、周囲には誰もおらず、二人きりだった。そのことを意識すると、また心臓がギュっとされたみたいになる。嫌いだの、好きだの、今まで言われてきたことのない、直接的な表現に、僕の頭はどうにかなってしまいそうだった。


「思うんだけど、よくそういうこと、平気で言えるよね」

「平気じゃないよ。失礼だね」


 口元を覆いながら、言葉を続ける。


「こう……他人に想いを伝えるのって、渡波くんが考えているよりしんどいと思うよ。やっぱり怖いし、勇気がいることだから」

「そうなんだ」


 と返して、そうだよな、と思う。僕が誰かに、例えば目の前の彼女に、好きだ、と言うのもものすごく勇気がいるだろう。想像しただけで、首のあたりがぞわぞわする。どんなことであれ自分の本心を相手に明け渡すのは、困難なことだ。平気で言っているように見えるのは、たぶん彼女が平静を装っているからで、それを自然なことのように見なすのは、確かに失礼かもしれない。


「あの……返事は早いほうがいいのかな」


 そう訊ねると、彼女はふっと笑った。


「それ、私に訊く? 普通、そういうの相手に訊かないよ?」


 そりゃそうだ。でもほかにどうすればいいのか僕にはわからなかった。


「やっぱ、そうだよね。ごめん」

「別に謝ることないけどさ。すぐに返答が欲しいわけじゃないから、ゆっくりでいいよ。いっぱい考えて、悩んでほしい」


 と彼女は言うが、考えて結論が出せるものなのだろうか、とも思わなくない。悩めば悩むほど、結論は少しずつ遠ざかっていくような気がする。


「そう言ってくれるのは、僕としては凄く助かるんだけど、なんか申し訳ないな」

「え、どうして?」


 僕の頭に、さっきの昼休みの時に盗み聞きした二人の会話がよぎる。こうして向き合っていると彼女は涼しげな表情を保っているけど、その内面は僕への愛情だとか、待たされているいらだちとかで凄惨な心持かもしれない。


 そう思うと、少し恐ろしい。


「いや、ただ単純に、待たせるのは申し訳ないって思ってさ」

「ふーん……じゃ、今ここで返答をしてもいいんだよ」


 と彼女は真っ直ぐ僕を見て言う。近づくな、と彼女は僕に言ったくせして、心の距離感は一瞬にして詰めてくる。

 当然、僕は何も言えない。二秒の沈黙が流れて、彼女はちょっと困った風に微笑む。


「やっぱり、難しいよね」


 と言われてしまい、僕は情けない心地になる。


「まあ、ここで返答されても困っちゃうんだけどね」


 フォローするようなことを、彼女は続けて言ってくれる。彼女はどうして、こんなにも優しいのだろうか。僕が好きだから、なのか?


「もう一回訊きたいんだけど、春原さんは……」


 僕のどこが好きなのか、訊ねようとしたところ、彼女は手を伸ばして


「待って」


 と言う。廊下を上級生の軍団が通り過ぎていき、やがて辺りはまた静かになった。


「ごめんなさい。お願いがあるんだけど」

「お願い?」

「私の名前を呼ばないでほしい」


 恥ずかしいし、と小声で彼女は付け加える。少しの間が空いた後、彼女は言いにくそうに言葉を続けた。


「実は、私、自分の名前があまり好きじゃないの。名前に好きとか嫌いとか、馬鹿らしいと思うかもしれないけど」

「……いや、別に思わないよ」


 と僕が言ったのは、初めて彼女と会ったあの薄曇りの日、彼女が僕の名前を「いい名前」と褒めてくれたのが、印象に残っていたからだ。僕は僕の名前を、あの瞬間までなんとも思っていなかった。良いものだとも、悪いものだとも思っていなかった。空気に味がないのと同じで、自分につけられた名前など気にしたことがなかったのだ。


「僕は、君の名前、良いと思うけど」

「……慰め?」

「いや、違うよ。本気で、心の底からそう思っている」


 というのは嘘ではない。伝わるかどうかはわからないけど、僕は本気で彼女の名前が素敵なものだと思っていたのだ。


「……ありがとう。嬉しい」


 と言った彼女の顔はあんまり嬉しくなさそうだった。かといって不快そうな表情をしていたわけでもなく、よくわからない、複雑な表情だった。

 彼女の嫌いが、僕の誉め言葉一つで治るとは思えないし、治す必要があるとも思えないけれど、彼女が僕の名前を肯定してくれて僕が自分の名前に対する感触が変わったみたいに、彼女も自分の名前に対する認識みたいなものがよくなればいいと思う。


「それともう一つ、お願いがあって。校舎の中で私と会おうとしないでほしい。私の教室に来たり、廊下で見かけても近づいたりしないでほしい。あんまり、人前で会いたくはないから。緊張するし」


 ね、と彼女は言葉を結ぶ。緊張しているようには見えない。でもそれも見え方の問題で、心の中は穏やかではないのかもしれない。


「す……君は何組だったっけ」


 もうすでに知っていることを質問する。僕が彼女の組を知っているのは、彼女のことをストーキングしていたからだ。彼女の組を僕が知っていないことを装うための質問だった。

 危うく名前を呼びそうになったことに、彼女は少し微笑み、答えてくれる。


「三組だよ。渡波くんのクラスは一組だよね。近いけど、あまり積極的に私のクラスに来ないでね」

「うん。努力はするよ」


 彼女が僕のクラスを知っているのは、僕が彼女に対してやったみたいに、彼女も僕に対してストーキングをしたからなのだろうか、とぼんやり考える。それと同時に、彼女が僕の名前を遠慮なく呼んだことに気が付く。僕は呼んではいけないけれど、向こうは僕の名前を呼ぶことを躊躇わないらしい。


「こちらからコンタクトを取るのはどうしたらいい? スマホの連絡先を交換しようか?」


 僕がスマホを取り出したのと同じタイミングで、彼女はううん、と唸る。


「連絡先はちょっと……また今度にしようか。ちょっと手間をかけるんだけど、下駄箱に手紙をいれてくれないかな。私が君を呼び出したみたいに」


 告白された日、僕の下駄箱に彼女からの手紙が入っていた。


「君の出席番号は?」

「……私の下駄箱に手紙は入れてほしくないかも。靴、入ってるし。使ってない下駄箱に入れて置いてくれないかな。三組の下駄箱の、右上の隅っこなら誰も使ってないはずだから」

「了解。何かあったら、そこに手紙を入れておくよ」


 彼女は満足そうに頷いた。


「じゃ、私、戻るから」


 ばいばい、と僕の顔のすぐ前に手のひらを突き出して、緩く手を振った。視界を肌色が覆ったと思った次の瞬間には、小走りで廊下を進んでいく彼女の背中が見えた。

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