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春の嵐と名無しの愛  作者: 青桐鳳梨


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神野早紀

 教室へ戻る途中、飲み物を買い足すために自動販売機に立ち寄る。


 緑北高校には自動販売機とベンチがいくつか集まった、ラウンジみたいな空間があった。といっても、設置されている自動販売機は三つほどで、その向かいの壁に置かれているベンチに座れるのは、せいぜい五人程度なのだが。公立高校なのだから、広い空間が確保できないのは仕方がない。


「あ」


 見覚えのある生徒が、そこにいた。


 昨日、文芸部の部室で出会った、神野さんだった。


 自動販売機で飲み物を購入しようとしているようで、紙幣を挿入口に差し込んだのだが、紙幣は戻ってきてしまう。手で紙幣のしわを整えて再びチャレンジするのだが、それでもやっぱりお札は帰ってきてしまった。


「……何やってるの」


 と尋ねると、「あ」と言いながら顔をこちらに向ける神野さん。


「ええと……渡波、くん」


 少しの間があった。どうやら僕の名前を忘れかけていたらしい。昨日ちょっと言葉を交わしただけで、直接自己紹介をしたわけじゃないから無理もない。


「この自動販売機、壊れているみたい」


 と言う間にも、彼女は一所懸命に紙幣を入れようとしている。が、奮闘虚しくも紙幣はやはり帰ってきてしまう。


「なんか、うまく入らなくて。ほかのを使ったほうがいいのかな」

「そうかもね。……いや、ちょっと待った」


 神野さんの手元、握られている紙幣を見る。

 彼女が自動販売機に入れようとしているのは、五千円札だった。


「神野さん。五千円は自動販売機じゃ使えないよ」

「え? そうなの?」


 神野さんは自分の手元にある五千円と、目の前にある自動販売機を交互に見た。


「ほら、ここ」


 僕は自動販売機の、彼女が紙幣を入れようとしている部分を指さした。


「千円のお札の絵が描かれているじゃん。千円しか使えないってことだよ」

「あっ、へえ……そうなんだ。初めて知った」


 ふふ、と彼女は自分の失敗を誤魔化すように笑った。僕はなんとなく気まずくなって、手に持っていたペットボトルのラベルを剥がし、近くにあったごみ箱に、ラベルと空のペットボトルを捨てた。

 神野さんは薄い水色の財布のチャックを開けて、硬貨を自販機に入れようとする。一枚目は問題なく入れられたのだが、二枚目が紙幣と同じように、お釣りを返す部分に帰ってきてしまう。それを再び手に取って入れるのだが、小銭はまた、軽い音を立てながら戻ってきてしまった。


「……一円玉や五円玉も使えない」

「え! 何で?」

「何でかな……自動販売機の内側に、一円玉とか五円玉を大量に入れる人が出てきたら困るから、とか? 自動販売機で一円玉とかお釣りで返しにくいし……」


 と真面目に細かい硬貨が使えない理由を考察している横で、神野さんは黄色いレバーを下げて、自動販売機に入れていた百円玉を戻す。


「戻しちゃうの?」

「うん……ちょっと、小銭なくって。買えないや」


 と苦々しく笑って、僕は少し心苦しくなる。というか、五千円と百円と五円、一円しか持っていないのか? 所持金の内訳がちょっと極端だ。

 そういえば、青次は神野さんを評して、要領があまりよくない、と言っていた。このような、自動販売機の仕様を知らず、所持金のバランスもあまりよくないみたいな、なんとなく詰めの甘い部分が、彼女の日常生活にはよくあるのかもしれない。


「神野さん、電子マネーとか持ってない?」

「電子マネー……あ、それならある」


 神野さんは財布のポケットから銀色のカードを取り出した。

 いささか、というよりかなりほっとした。自動販売機で飲み物を買うのに失敗する、という切ない経験を彼女がしなくてよかった。青次と同じ中学、ということは家もここから近いはずで、電車通学をしないであろう神野さんが電子マネーを持っているかは賭けだった。

 神野さんが電子マネーを自動販売機の機器にタッチする。ディスプレイに、彼女のカードにチャージされた金額が、緑色の数字で表示された。


 一六七五〇。


 彼女の電子マネーには、一万六千七百五十円がチャージされていた。

 瞬間、神野さんが先ほど、懸命になって自動販売機に五千円を入れようとしている光景が頭の中で思い浮かぶ。

 一万五千円はもちろんのこと、五千円も僕たち高校生にとっては大金だ。いや、大人になっても五千円は大金かもしれないが。


 先ほどはあまり気にしなかったが、五千円が高校生の財布に入っているというのは、驚くべきことだ。

 緑北高校はそこそこの進学校で、アルバイトは禁止されている。校則を破って入学してすぐにアルバイトを始めていたとしても、まだ二十日にもなっていないので給料は振り込まれていないはずだ。実際にアルバイトをしたことがないからわからないけれど、日雇いのバイトをしていたとしても、給料は月末に支払われるものだろう。


「あの、もしかして、なんだけど」

「ん?」


 自動販売機のボタンを押そうとしている神野さんがこちらを振り向く。


「失礼だったら申し訳ないんだけど……神野さん、お金持ちだったりする?」

「ああ……どうかな?」


 彼女は自動販売機のボタンを押した。麦茶のペットボトルが音を立てて落ちてくる。


「そこまでじゃないと思うんだけど……お父さんが医者でさ。こう表現するのもあまりよくないかもしれないけれど、平均的なご家庭よりかは、確かにお金があるかも。あ、もちろん、極端にお金持ちってわけじゃないよ?」


 と、彼女は屈託のない様子で言った。お金を持っていることに、少しも引け目を感じていない様子だ。もちろん、その情報を引き出すための質問をしたのは僕のほうで、彼女が僕に遠慮をして、申し訳なさそうな表情になられても困るのだけれど。


「どうしてそう思ったの? あ、青次だね。そうでしょ。今度会ったら蹴っ飛ばしてあげないとね」


 と楽しそうに言う神野さん。金銭的ステータスを隠すつもりもなければ、隠すべきものだとも思っていないのかもしれない。


「そうだね、そうしてくれ」


 と青次を犠牲にして僕は驚きを隠す。電子マネーは金額がわかるから人前では使わないほうがいいし、何なら学校に五千円も持ってこないほうがいいかも、というアドバイスもしようと思ったが、理由を訊かれても自分の心の汚さが強調されるだけなので、何も言わないでおく。


「青次と中学校が同じだったんだって?」

「え、ああ、うん。そうだよ」

「僕は小学生までのあいつしか知らなかったんだけど、あんまり変わってない感じがするね」

「小学校が同じなんだ? 確かに、小学生みたいに幼い一面もあるよね。机の整頓ができなくて、折れ曲がったプリントとか引き出しに詰め込んでいたしさ。それで大掃除の時にプリントを全部出して、先生に怒られていた」


 その話を聞くと、やっぱり青次は小学生の頃とあまり変わらない中学生活を送っていたようだ。

小学生の時も、夏休み前に持ち物を少しずつ持って帰ろうとしないで、終業式の日に、アサガオを育てていたプランターだとか、図工の時間に制作した水彩画だとかといっぺんに持ち帰る羽目に陥っていた。


「勉強とかもあまりできるイメージなかったんだけど……」

「そう、そうなんだよね」


 神野さんがなぜか嬉しそうに頷く。


「うちの学校、一学年が百五十人ぐらいいてさ。青次はだいたい、百二十位ぐらいを行ったり来たりしていたんだよね。ま、バスケ部に入って勉強する暇がなかったからしょうがなかったんだけど、勉強ができるグループにはいなかったよね。でも、中三になって部活を引退してからは凄かった。鬼気迫る勢いで勉強してさ、めきめき成績を上げていったんだよね。テストの順位も百位ぐらい上げてさ」

「ああ、なんか想像できるかも。そういうヤツ、いるよね。何か一つのことになりふり構わず打ち込めるヤツ」


 青次はまさにそういう人間だったのだろう。バスケにせよ、勉強にせよ、自分がこれと決めたことに全力で打ち込める人間。

 そういった情熱って、いったいどうやったら養うことができるのだろう? 幼少の頃から何かスポーツとかやっていれば、そういう努力の感覚が身に着くのだろうか。あるいは、才能的なもので、先天的にしか得られないものなのだろうか。


「神野さんも努力家だって聞いたよ。青次から」

「ああ、うん。私も、受験期はそうとう勉強したから。それも、青次には負けたくなかったからなんだけどね。もともと下から数えたほうが早い順位を取っていた人に、負けたくなかったんだよ。だってさ、理不尽じゃない? 私は中一の頃からコンスタントに頑張っていたのに、中三の受験期になって発揮された、瞬間最大風速的な努力に打ちのめされるなんてさ」

「……そうか、そうかもね」


 青次が神野さんを馬鹿まじめと形容したことに得心が行く。青次の努力を理不尽なものだと思ってしまうところが、まさに真面目だ。あいつに対抗心を燃やして、それをエネルギーに自分も努力ができる、というところが、神野さんの良いところなのだろう。


「青次、ほかに何か言ってた?」

「ほか? ほかって?」

「……ええと、告白、のこととか」

「告白」


 告白、だって? どうして神野さんがそのことを知っているのだろう?

 ……いや、僕がされた告白のことではないだろう。僕の告白について訊きたいのであれば、僕に直接訊けばいい。

 ということは、つまり。

 ……なるほど。やはり青次はモテる。


「いや、特に何も言ってなかったよ。僕は何も聞いていない」

「そっか。そうなんだ。それならいい」


 と神野さんは短めに言う。

 なんとなく触れにくい話題から逃げるように、僕は無理に話題を転換する。


「部活は何に入るか決めた?」

「あ、えっと……まだなんだよね。まだ全部を回りきってないから。でも、文芸部はちょっとないかな」

 やっぱり、そうですよね。

「先生も変な人だったしね」


 続けて、部員もいませんしね、と付け加える前に神野さんが言葉を続ける。


「いや、祝井先生が理由じゃなくって。確かにあの先生、少し不思議でつかみどころのない人だったけど、悪い人ではないと思うんだよね」

「……どうかな」


 神野さんは、祝井先生が嘘をついていたことを知らない。あの人は部を存続させるために、先輩の退部を隠蔽しようとしていた。それも、わざわざ図書室から本を借りてくるという手の込みようだ。

 あのような人間を信用できるか、といわれると甚だ疑問だ。一度嘘をついた人間は、平気で次も嘘をついてその場をやり過ごそうとするだろう。退部した先輩から、部活を辞めた理由を教えてもらえなかった、というのも僕には怪しく感じられた。本当は何かしら都合の悪い理由があって、僕にそれを教えるのを躊躇ったのではないだろうか?


「あの部活に入ったら、ちょっと苦労しそうだから」


 と神野さんは小さな声で言った。


「苦労? 努力じゃなくて?」

「ううん、苦労。何か一つのことに向かって頑張るというより、ほかのことに精神をすり減らしてしまうかも」


 という神野さんの言葉は、少し抽象的すぎて僕には理解できない。確かに、苦労をすることと努力をすることは必ずしも同じではない。努力、という言葉には成功につながるニュアンスが伴っているが、苦労という言葉はもっとネガティブな響きがある。

 彼女にとってその違いは大切なものなのだろう。そもそも部活に入るかどうかすら曖昧な僕には、あまりよくわからない感覚だ。


「渡波くんはどうするの? 何部に入るか決めた?」

「ううん……文芸部に入るか、そもそも部活に入らないか、どちらかという感じかな」

「あ、そうなんだ。部活には入っておいたほうがいいよ?」

「皆同じことを言うよ。青次も同じことを言ってた」

「ああ、あいつは言いそう。青次はまた、中学と同じように過ごすんだろうな。部活に入って魂燃やして、それで部活が終わって受験期になって死ぬ気で頑張る」


 受験期に入ったら、青次はまた瞬間最大風速的な努力で頑張るのかもしれない。それを見るのはちょっとだけ楽しみだ。


「ちなみに神野さんは、どうして部活に入ってたほうがいいって思うの?」


 短い三年間に、何かしら打ち込めるものに熱中したほうがいい、というのが青次の主張だった。青次に限らず、多くの人は、情熱を注ぐ先として部活を勧めることが多い。

 ただ、僕にはなんとなく納得できない部分もあった。熱量を注ぐことが、そこまで魅力的に思えないのだ。そういう努力って、何かしら目的がありその過程として生じるものであって、努力そのものを目的にするのは違う気がする。

 たとえば、甲子園を目指していて、それに向かって努力をする、という流れがある。そういう流れは正当に感じられる。正当、というかそうあるべきというべきか。とにかく、努力っていうのはそういう順番で発生するべきものだと僕は思う。


 だけど、青次を初めとする多くの人は逆のことを言う。何かしら部活に入って、努力をしたほうがいい。目標が前提にあるのではなく、努力が先行している。何かしら努力をして、そして身近なところで目標を定めて、それが達成できれば素晴らしい。そういう価値観は、歪んでいるのではないかと思うのだ。


「こう……神野さんには少し悪いんだけど、努力のために部活に入る考えが馴染まないんだ。何か目標があって部活に入るっていうのならわかるんだけど、残念ながら僕には目標がない」

「……渡波くんって、真面目だね」


 と僕の発言を受けて感想を述べる神野さん。


「もっといい加減なヤツかと思ってた。青次の友達だし」


 その評価のほうこそいい加減だろう、という反論を僕がする前に彼女は言葉を続けた。


「皆、部活に入ることをそこまで深く考えていないよ。なんとなく楽しそうだからとか、友達がほしいからとか、そういう理由で十分なんじゃないかな。確かに私は努力ができる部活を捜しているけれど、それは私の理由であって、そこまで深刻に捉えてもらうようなものでもないしさ。もっと気軽に、チャレンジしてみてもいいんじゃないかな。それでミスっても責任は取れないけどね」


 と最後に少し怖いことを言って、神野さんは微笑む。その快活な感じ、というか軽やかさは、確かに青次と同じ種類のものだった。


「あ、もうそろそろ授業、始まっちゃう」


 スマホで時間を確認して、神野さんが言った。スマホをこちらに向けて、あと三分で授業が始まってしまうことを教えてくれる。


「じゃあ、またね」


 と言って彼女は立ち去ろうとするが、あ、と言って途中で立ち止まる。


「そう言えば、自己紹介がまだだった」

「自己紹介? 名前は知ってるけど」

「それ、祝井先生を通してでしょう? 私はまだ自分で名前を教えてないじゃん」


 それはそうだが、わざわざここで再び名前を教え合うことに意味を見いだせない。育ちの違いなのだろうか。


「神野早紀(さき)です。これからよろしく」


 微笑む彼女に少し緊張して、


「……渡波祥です。よろしく」


 と言った僕の声は小さかった。


「じゃあね!」


 神野さんがその場を離れ、少し経って僕はまだ飲み物を買えていないことに気がつく。財布をズボンのポケットから取り出して、小銭を出そうとチャックを開けたところで、チャイムが鳴った。

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