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春の嵐と名無しの愛  作者: 青桐鳳梨


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先生の嘘

「先生、祝井先生」


 来訪者は男子生徒だった。校章の色は赤色。三年生のようだ。


「ああ、君は……先ほど私に本を貸してくれた図書委員くんじゃないか。どうしたんだい? 補習でも受けに来たのかな」

「何言ってんすか。そんなわけないでしょ」


 と図書委員くんと呼ばれた生徒は一蹴する。というか、名前で呼ばないところを見るに、やはり全ての生徒の名前を把握しているというのは嘘だったらしい。


「図書カードですよ、図書カード。あなた、図書カードを忘れたでしょ。それを返しに来たんですよ」

「ああ! それはありがたい」


 先生は近づいて図書委員から図書カードを受け取った。教師も図書カードを利用するんだな、とぼんやり思っていると、図書委員は僕と神野さんに視線を向けた。

「君たち、文芸部に入る気?」

「そのつもりだよ」


 と言ったのは僕でも神野さんでもなく、祝井先生だった。


「先生には訊いていませんよ。君たち、これはおせっかいかもしれないが……悪いことは言わない。文芸部だけはやめたほうがいい」

「え……どうしてですか?」


 神野さんが問いを返した。先輩は少し悩むようなそぶりを見せた後、口を開く。


「部員、少ない割に変な人が集まるし」

「図書委員なのに文芸部のネガティブキャンペーンなんて、君もなかなかひねくれている」

「あと、顧問の先生もちょっとおかしい」

「それはむしろ、部活のチャームポイントと捉えてもらいたいね」

「とにかく、読書は一人でもできる。ここに入る前に、ちょっと考えてもらいたい。あ、先生、それと返却期限は来週ですからね。必ず返してくださいよ」


 と言って、図書委員は扉を閉めた。残された僕ら三人の間には、少し気まずい空気が流れている。


「やれやれ、彼にも困ったものだ」

「困らせているの、先生に見えましたけど。図書カードも忘れたみたいだし」

「渡波くん。君はなかなか鋭いことを言うね。年上相手にも物怖じせずに物申すことができるのはいいことだ。遠慮を覚えればさらに人間的魅力が増すのは間違いなし」


 ……なんて都合の良い人間的魅力だろう。


「あの、私」


 と神野さんが声を出す。


「そろそろほかの部活のところに行きます。今日はありがとうございました、祝井先生」


 深々と神野さんが頭を下げる。時刻はもうじき十六時半を回る。全ての部活を回るのであれば、一つの部活に長居はできない。


「君の納得のいく部活が見つかることを願っているよ。もちろん、文芸部に来てくれるのであれば嬉しい」


 祝井先生は無理に引き留めたりせず、神野さんを見送った。僕と先生が教室に残される。


「さて、君はどうする? ま、ほかに見たい部活がないのであれば、ゆっくりしていくといい。ここにはお茶はないが、本がある。時間を潰すのに退屈はしないよ」


 そう言いながら先生は席の一つに腰を掛けた。先ほどまで黒板の表面を照らしていた夕日は、今は部屋の隅の柱に当たっている。


「……あの、先生。少し気になることがあるんですけど」

「何だい?」

「この本棚に入っている本は、先生の私物ですか?」


 科学の読み物や、「Newton」が押し込まれた棚を見る。


「そうだよ。興味があるなら貸してあげようか」

「いえ、遠慮しておきます。少し話は変わるんですけれど、この部室に来る途中、ある生徒とぶつかってしまったんです。その生徒は、大量の本を運んでいて、前が見えなくなっていました」

「……へえ」

「その生徒が運んでいたのは、古典作品です。さっき、先生が図書室から借りてきたような」


 先生が黙ってこちらを見る。遠くから、運動部のかけ声が聞こえてきた。


「その生徒は、それらの本がもう必要なくなったと言っていました」

「……そうか」


 と言った先生はどこか残念そうに見えた。


「必要が無くなった本を運ぶ生徒と、それと同じラインナップの本を運んできた先生。最初は特に何も思いませんでしたが、さっき図書委員が来た時に違和感に変わりました。先生は、あの大量の本をわざわざ図書室から借りてきたんですよね。それを、本棚の空いている箇所に入れた。一週間後には返さなければいけないのに、本棚のばらばらに空いている部分に仕舞ったのは少し不自然に僕には思えました。家に持ち帰って読むならまだしも、学校にいる間、一週間で読むには冊数が多すぎる」

「なかなかの観察眼だ。続けたまえよ」


 先生はどこか余裕そうだ。なんとなく気後れしそうになる。

 何かがおかしい、という感覚。それは祝井先生と話をするうちに僕の中に少しずつ溜まっていった。この不可解な現象、胸の裡に生じた縺れみたいなものを、僕はどうにかしてほどかなければいけない。


「どうして祝井先生は本を借りて、部室の本棚に仕舞ったのか? それは、読むためではなく古典的名作がこの教室にあることをアピールするためだったんじゃないですか?」


 僕はポケットからスマホを取り出した。画面に、先ほど神野さんに教えてもらった、文芸部のページを開く。


 そこには、古典的名作を対象にした評論がアップされていた。


「夏目漱石、ドストエフスキー……生徒が運んだ本、先生が持って来た本と同じです」


 これらの情報をどのように解釈すればいいのか、答えは明白だった。


「僕がぶつかった、本を運んでいた生徒はこの部活の唯一の部員でした。でも、本はもう必要なくなった。つまり、その生徒は退部してしまったんです。その生徒はこの部室に置いてあった私物の古典作品を整理するために持ち出した」


 ホームページにアップされている評論も、あの生徒が書いたものだろう。あの生徒が運んでいた作品は、評論を書くために使用したものだったに違いない。


 唯一の部員が退部。さすがに部員が一人もない部活は存続できないだろう。まさしく今、文芸部は廃部の瀬戸際にいる。


「でも、その行動は先生にとって不都合だった。とりわけ、新入生が見学に来るこの時期には。見学をしに来る生徒の中には、神野さんみたいにホームページの評論を閲覧するような真面目な生徒もいる。でももし、その評論で論じられている作品が部室に一冊もなければ、生徒は違和感を覚えるかもしれないし、最悪の場合、そこから唯一の部員が退部したことも露呈しかねない。そこで先生は、図書室から古典作品を借りてくるという対策を取った。見学の生徒が不自然に思わないように」

「……驚いた、いや、驚いたよ」


 三回ほど、先生は柏手を打つ。


「君、本に興味があると言ったね。探偵小説が好きなのかな」

「それ、犯人のセリフですよ」

「小説家になるべきだ、とまでは言わないよ。しかし君の指摘することは正しい」

「認めるんですか?」

「そういうことになるね。渡波くんの言った通り、唯一の部員は本日付で退部した。それを隠すために私は色々工作を試みた。露呈してしまったがね。やはり嘘は苦手だ」


 そう言って微笑を浮かべる先生には、悪びれるところがない。


「先輩が退部した理由は何ですか?」

「それも推理してみてはいかがかな?」


 と、先生は挑戦的な目つきで言った。一瞬、剣呑な雰囲気が教室内に漂うが、その空気はすぐに霧消する。


「……冗談だ。理由は教えてくれなかった。ま、私も深く訊かなかったんだけどね。理由はどうであれ、彼が部活を辞めたということは事実だ」

「文芸部、廃部になるんですか?」

「このまま誰も入ってこなければ、そうなるね。困ったよ。本棚の整理が大変だ」


 もしかして、部活を潰したくないのは、ここの整理をしたくないからではないか。本棚には先生の私物も多くある。


「もちろん、君が入ってくれれば廃部にはならない」

「部員が一人でも、部活として成立するんですか?」

「規則で見れば、成立しない。一応、校則には部活動の維持には三名以上の部員が必要だと明記されているからね。でも、私は潰させない。今までだってうまく立ち回って部活を延命させてきた」


 実際、今まで部員は一人しかいなかったみたいだし、祝井先生の言っていることはある程度信頼できるのだろう。どうやっているのかは知らないけれど、先生には一人しかいない部活を延命させる手腕がある。


「そもそも、どうしてそこまでしてこの部活を存続させたいんですか? 物置に便利だからですか?」

「それもある」


 と先生は堂々たる態度で肯定する。でもそれだけじゃない、と祝井先生はさらに言葉を続けた。


「このような部屋が必要な生徒がいるからだよ。このような、自分自身と他人と向き合って思考を巡らせるための部屋がね。今日辞めた子も、ある時期まではこのような場所が必要だったんだ。彼のパーソナリティに関わることだからあまり多くは言いたくないんだけど、彼はこの場所で、生きる上で重要な何かを掴んだ。辞めてしまったが、彼がここで手に入れたものは決して無駄なものではない。そして」


 先生は左手の指先を僕に向けた。


「君にもこのような場所が必要であるように、私には見える」

「僕に……? どうしてそんなことが言えるんですか? まだ会って少ししか経っていないのに」

「勘さ」


 と先生は潔く何の論理的根拠もないことを言う。あまりに清々しい開き直りに僕はわずかながら感動すら覚えた。


 しかし、僕の性向をそんな一面的な捉え方で評価されるのは、少しばかり不快だ。


「……考えておきますね」


 僕は机の上に放置してあった通学鞄に手を伸ばした。


「推理小説の欠陥って、なんだかわかるかい」


 祝井先生が、話の流れを断ち切るように、そんな問いを投げかける。僕は鞄に伸ばす手を止めて、先生を見た。


「……後期クイーンの問題、のことですか」

 後期クイーンの問題とは、推理小説において、探偵が犯人を指摘するのは探偵小説という形式上不可能なのではないか、というアポリアのことだ。アメリカの小説家エラリー・クイーンの作品の中に見られる「偽の手がかり」からこの問題が発見されたため、クイーンの名前がついている。


 たとえば、ある手がかりAがあり、その手がかりが、容疑者Aが犯人であることを示していたとする。しかし、後の推理にて手がかりBが発見され、その手がかりBは、手がかりAが容疑者Bによって捏造されていたものであり、容疑者Bが犯人であることを示している。手がかりBによって容疑者Bが真犯人だと推理することができるが、さらに手がかりCが見つかり、容疑者Cが犯人だと推理されそれで事件は収束を見ると思いきや、またまた手がかりDが……といったように、新たな手がかりの提示により、無限の犯人の可能性がありえてしまう。

 真犯人が、あたかも探偵小説の作者であるかのように手がかりを提示し、探偵を誤った推理、誤った犯人に誘導できてしまう。その結果、真犯人の追及が不可能になってしまい、真理が宙ぶらりんになってしまう。探偵小説は構造上、犯人が決定できないかもしれないという不安を抱えている。これが後期クイーンの問題の大まかな内容だ。


「確かに、後期クイーンの問題もあるが、それとはちょっと別のものだ。すなわち、探偵は犯人の内面を特定することができるのか、という問題だよ」

「犯人の、内面? 動機ってことですか?」

「そう。内面なんて、どのように取り繕うことができる。探偵が犯人の動機を特定できるのは、人間が合理的に振る舞うという前提があるからだ。何かしらの理由があって行動を起こすというルールが動機の推理を成立させている。しかし、人間は常に合理的行動を取るわけではない。意味もないのに横断歩道の白い部分だけを歩いたり、川に石を投げこんだりする」

「それらは楽しいから行われるものじゃないですか? 意味のないように見える行動も理由付けは可能です」

「仮に理由付けが可能だったとして、それをたった一つの正解とみなすことは困難だ。奇妙に見える儀式にも鎮魂の意味合いがあったりする。些細な出来事で憎悪を滾らせて殺人に踏み込むような異常者がいれば、他方でどれだけ傷つけられても笑って相手を許す聖人みたいな人間がいる。探偵は表層的な理由の探求しかできない。多くの人間が人を殺さないのに、どうしてその人だけが人殺しになってしまったのかを彼らは考えない。ま、そういうのは彼らの役割ではないと言ってしまえばそれまでだがね」


 先生の言っていることはなんとなくわかる。例えば、殺人を犯した人間が法廷で「反省しています」と言ったとする。でも、言葉はいくらでも取り繕える。全く反省しておらず、出所したら再び人を殺すことだけを考えている人間でも「反省しています」と神妙な顔つきで言うことは、恐ろしいことに不可能ではない。そういった嘘が可能である、という点を先生は指摘しているのだ。


「先生が部員の退部を隠蔽しようとしたのも、本当は違う理由があるということですか?」

「いや、それに関して言えば君の結論が正しい。私は隠蔽を試みて、そしてほかならぬ君の推理によって失敗した。でもね、渡波くん。今日はうまくいったかもしれないが、いつもそれがうまくいくとは限らない。君はいつが、大きな失敗をすると思う」


 祝井先生は、どこまでも落ち着いた表情でそう言った。


「……負け惜しみに聞こえます、先生」

「単なる忠告だよ。私は教師だ。悩める生徒と一緒に悩むのが仕事なんでね」

 一緒に悩んでいたら駄目だろう。教師であれば、悩める生徒を教え導かなければならない。


「今日はもう帰ります。見学、ありがとうございました」

「こちらこそ来てくれてありがとう。入部を心待ちにしている」

「入部することはないかもしれませんが、授業でお世話になるかもしれません」


 さようなら、と言って僕は部室を出る。夕暮れがさしかかった廊下は薄暗く、僕は何かに急かされるように校舎を出た。夕日が透ける黄土色の雲の下、吹奏楽部の奏でる華やかな音楽は、校舎を出てもしばらく聞こえてきた。

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