檜山青次
「よーっす、おはよう」
背中を叩かれて、突っ伏していた頭を上げる。右隣りの席の檜山青次が、机の上に鞄を置いて席に座った。
「なんか、祥、今日は眠そうだな。春眠暁を覚えず、ってやつか?」
「……ま、そんな感じ」
眠そうだという青次の評価は正しくて、僕の頭は屋外に放置したバターみたいに使い物にならなくなっていた。
寝不足、だ。
「青次はいつもさっぱりしてるね。羨ましいよ。何か睡眠の質を高めるコツとかあるの?」
「いや、朝が眠いのは俺も同じだ。たぶん、一限は寝るんじゃないか。よかったら起こしてくれ。俺もお前が寝てたら起こすから」
と、恬淡とした態度で青次は言った。夜ふかししていたことをアピールするほど、青次は子どもではない。その軽やかな雰囲気は、一緒にいて楽だ。それと至極当然といった態度で互恵関係を結んでくる親近感が、この隣人の美徳だった。
「夜ふかしなんかするタイプじゃないだろう」
と何気なく訊いてくる青次。
「さては何かあったな。ものすごい良いことか、あるいはちょっと悪いことが」
「ものすごく良いこと、ね」
「ちょっとの良いことでは眠れなくならないだろう。逆にちょっとでも嫌なことがあれば睡眠の質は落ちてしまう。嫌なことのほうが記憶に残りやすいからな」
「嫌な記憶能力だ……」
言いながらあくびをする。別に嫌なことがあったわけではない、はずなのだが、昨日のあれが眠れない原因になったのは間違いがなかった。
「よかったら話してみないか。壁に向かって話すよりかは、俺に話したほうが甲斐はあるぞ。たぶん」
そこは言い切ってほしかった。
異性から好かれる、という点では、確かに青次はこれ以上ない相談相手だった。小学生の頃から、青次は男女問わず色々な人から好かれていた。運動神経はよく、勉強はさほど得意ではなかったけれど、それを補って余りある魅力を抱えていた。中学校は別のところに進んだから、中学でどのような人間関係を築き上げたのかは知らないけれど、小学生の頃に比べて急成長を遂げた身長を見るに、やはり中学でも魅力的な人物として扱われていたのは想像に難くない。
青次とここ、緑北高校で再会した時にはちょっと驚いた。自転車で通学できる、比較的近い学校を選んだのだから、同じように通学にかかる時間を削減し、朝はぎりぎりまで寝ていたいと考える同級生が集まることに不思議はないのだが、青次の場合はわけが違った。学力がこの学校に適うほど高くないのだ。
再会して、よくこの学校に通ったね、という旨の会話をしたところ、彼は軽い感じでこう言った。
「努力をしたんだ。めちゃ勉強した。それでも入試の点数は、合格者の中では最下位に近かったんだけどな」
と言う彼の点数を聞いたところ、確かによくその点数で合格したな、という数字だった。
「内申点は高かったんだぜ。ほぼオール五」
なんて発言を聞いて妙に納得してしまった。ほどよく砕けていて可愛げがあり、優等生という感じでもなく、ひたむきに一つのことに対して夢中になれるタイプ。何より本人はそれを自慢するでもなく、自然体でやっている。確かにこれは教師に好かれるだろう、という雰囲気をうっすら身に纏っていた。
「相談、か……」
昨日のやり取りが頭に浮かぶ。
結局、僕は春原そよぐを名乗る女子生徒からの告白を、保留にした。というか、彼女が保留を提案したのだった。
「いきなり結論を出すのは難しいと思う。返事はまた今度でいいから、たくさん悩んで答えを出してほしい。知り合い……友人とかに相談するのがいいんじゃないかな」
じゃあ、また、と言って彼女は呆然から抜け出せないままの僕をその場に置いて、校舎裏から去っていった。
名前のごとく、風のような自由な振る舞いだった。
友人に相談するのがいい、と彼女は言った。他人から好意を抱かれていることを吹聴するのは、あまり良いことだとは思えないのだけど、彼女は気にしていないのだろうか? 他人からの好意をひけらかすような真似は、あまり誠実だとは思えない。モテることをアピールしているように見える気がする。自意識過剰だろうか?
「なあ……恋愛ってどう思う?」
結局、曖昧な表現で訊ねることにした。でも言った瞬間、何か取り返しのつかないことを言ってしまった気がした。僕は何か、とても恥ずかしいことを言ったのではないか。
「恋愛?」
と一言繰り返した青次は、うーんと唸り声を上げる。
「……わかんね」
「壁に相談したほうがマシな返答だね」
「いや、質問が抽象的すぎるだろ」
それはそうだ。恋愛ってどう思う、と訊かれて明瞭な答えができるほうがかえって胡散臭い。この質問に対してあれこれ指南できる人なんて、ホストぐらいではなかろうか。いやそのホストの返答も信頼に足るものではないのだろうけど。
「……あまり詳しいことは言いたくないんだけど」
でも、言わなきゃどうしようもないか、という気もして、僕は必要最低限のことを彼に教えることにする。
「昨日、告白された」
「へえ。そりゃ素晴らしい」
と青次は最小限の相槌。
「相手は初対面で、向こうは僕の名前を知っていたみたいだけど、僕は相手の名前すら知らなかった。それで、どうして僕を好きになったのかを訊いたんだけど、向こうは答えられなかった」
「ほう、それで断ったのか?」
「いや、保留にした」
「なるほどね。保留にしたってことは、可能性はゼロではないわけだ」
僕は曖昧に首を振った。ただ僕に決断力がなかっただけかもしれない。可や否を突き付けるだけの決断力が。
「しかし保留にするのも悪くはなかったと思うぜ。俺もそうした」
少し間を空けて、青次は同じ立場だったらの話だが、と付け加える。
「他人に深く関われる機会なんて、そうそう多くはないからな。もし向こうがこちらを好きだと言ってくれるのであれば、その気持ちを受け入れてうまく付き合っていく、というのも必要な人生経験なんじゃないか」
「……なんか、大人っぽいコメント」
というか大した恋愛観だと思う。色々あるんだよ、と言って頬杖をつく青次は、本人はそのつもりがないのだろうけど少し格好つけているように見えて、ちょっとむかつく。
「でも、僕はあまり人生経験のために誰かと付き合いたくはない。こういうのは少し恥ずかしいんだけど.……相手が僕のことを本気で思ってくれているのなら『経験のため』なんて注釈をつけて相手と向き合っていくのは、失礼なんじゃないかなって思う」
「考えはわかる。しかし実際はお前みたいにあれこれ考えて付き合う人間は極々わずかだ。もしも、向こうがお前に心の底から惹かれているなら、お前の側に注釈があろうと不純な動機があろうと、相手は気にしないだろうよ。恋は盲目って言葉だってあるだろ?」
恋は盲目。その言葉が、理由もなしに相手の人生と深く関わる免罪符になるとは、僕には思えない。
「しかし、初対面っていうのが気になる。一目惚れってことか?」
「言葉にしたらそうなるのかな……」
でも、少し表現が違っているような感じもしてもやもやする。そもそもの話、正直、一目惚れされるぐらいの見た目を僕がしているとは思えない。
「もしも一目惚れだったら、どこが好きになったのか、という僕の質問に、見た目だと答えてくれなきゃおかしい気がする。もちろん、他人の見た目に惹かれたと答えるのが恥ずかしくて、言えなかったという可能性もないわけじゃないけど……」
ただ、そこまでの恥じらいというか、奥ゆかしさみたいなものがあるならば、出会ってすぐに告白しないような気もする。まずは知り合いになって、それから友達になって、という段階を踏んでその上で告白をする。そういう一連の流れを踏むのではないだろうか?
「こういう説はないのか? 昔、同じ幼稚園とか、保育園に通っていて、高校の入学式で再会した。その女の子はお前のことがずっと好きだったんだが、お前は向こうのことを忘れてしまっていた」
「いや、ないな」
僕は首を横に振った。
「もし昔会っていたのなら、それを言うはず。でも彼女自身、僕とは初対面だと言っていた。僕らが初対面なのは間違いないんだ」
「なるほどね。運命の再会パターンもすでに考えてあったわけだ」
運命。彼女もその言葉を口にした。大げさな物言いだとは感じるけれど、不思議と説得力があるような言葉にも思えた。理由もなく他人を好きになることを正当化するような響きがその言葉にはあった。
でも、ちょっとそれが暴力的にも感じられるのだった。
「いいんじゃないか、付き合ってみても。全く知らない人間が恋愛の相手なら、自分を大きく変えられるかもしれない。変化するっていうのは、そんなに悪いことじゃないぜ」
「変化、ね。別にいいこととも思えないけれど。恋愛の目的も、別に成長とか変化することではないと思うし」
「消極的だな、お前は」
とやや呆れたような声で青次が言う。
「何か拒否したくなるような理由があったりするのか? まったく見た目がタイプじゃなかったとか」
「いや、僕は見た目とかよくわからないから……」
興味のないアイドルグループのメンバーが皆同じような顔に見えるのと同じだ。関わりのない人の顔の特徴を、僕はあまりうまく認識できない。そもそも、他人の顔に評価を下すなんておこがましい行為はしたくない。他人をジャッジするということは、自分に対する一方的なジャッジも受け入れることを意味する。
「むしろ逆で、僕には拒否する理由も特には見当たらなかった。なんとなく嫌だからとか、自分の時間を大切にしたいからとか、そういう感じで断ることもできたんだけど、なんか、相手のこともよく知らないでそうやって断るのは失礼な気がして……」
「真面目な奴だな」
「そうかな?」
「変わっていると言ってもいい」
その評価はあまりうれしくないかも。
「しかし、まあ、好きになるのに理由はいらないなんて言うだろ?」
「言うね」
昨日、あの女の子も言っていた。流行っているのだろうか。いや、単に恋愛に関して使いやすい言葉だというだけか。難しいことを考えずに済むその言葉は、確かに便利だ。同意したくないけど。
「だとしたら、嫌いになるのにも理由はいらないと思うんだよ。だから告白を断るのにも理由なんかつけなくてもいい。嫌ならただ、嫌だって言えばいいんだ。理由があろうがなかろうが、NOを突き付ける権利ぐらいあるはずだぜ?」
NO、と言ったところで青次は口の前でバツを作って見せる。
まあ、そうなのだろう。青次の言っていることは正しいし、それは理解できる。
好意を押し付けてくる相手に対して拒否権を発動できなければ、人間関係は成り立たない。好きな人間には傍にいてほしくて、嫌いな人間は近寄らないでほしい。誰だってそれぐらいの願望は抱えているはずだし、近くにいる人間を選ぶ権利はある程度認められていいはずだ。
でも、何だろう。
「……やっぱ、寂しくないかな。せっかく好きだって言ってくれた人を、理由もなく拒絶するのは」
「ああ、なるほど、そういうことか」
と一人で納得したようなことを言っている青次に、何だよ、と問う。
「お前は理由が必要なんだな。人を好きになるのに理由はいらない、なんて格言とは真逆なんだ。理由がないと人を好きにならないし、理由がなきゃ人を嫌いになれない」
言われて、なるほど、と納得するような気がするも、でもやっぱりなんか違うと思う自分もいる。そうなのだろうか?
「ただ単に気になるだけかもしれない。その子が僕を好きになった理由が。なんで、僕じゃなきゃダメだったのか」
「めんどくせーヤツだなあ」
と気怠そうに言う青次。しかし、その評価は正当なものに感じられる。何か不確かなものが気になって仕方がない僕のパーソナリティは、確かに面倒くさい。
でも、その面倒くさい僕を好きだと言ってくれた人がいる。
「そんなに気になるんなら、調べればいい。どうしてお前のことを好きになったのか、その理由をさ」
「調べる? どうやって? 直接訊いても答えてくれなかったんだよ」
「相手を追いかけまわして、どんな人間かを探るしかねえな。そもそも、お前は向こうのことを何も知らないんだろ? だったらひたすら観察して、相手がどのような考え方をするのか探るしかない」
「ストーカーじゃないか、やることが」
「探偵、とも言うぜ」
「言い換えればいいというわけでもないだろ」
でも青次の表情は真面目で、ふざけて言っているわけではないのはその眼を見ればすぐにわかる。言葉は力強く、不思議な説得力さえ感じられた。中学生のときのオール五に近いという成績も、その言葉の力で教師を相手取り、勝ち取ったものなのだろう。
「しばらく、相手を観察してみたらどうだ。部活動見学や仮入部も始まるし、学校にいる時間は向こうも長くなる。どんな部活に入るのかも、相手のことをよく知る手掛かりになると思うぜ。相手が何を好きで何を嫌っているのか、わかるかもしれない」
「部活、ね」
僕の悩みとは関係なしに、時間は進んでいく。入学から一週間、今日から部活動見学が始まる。
部活に入らない、という選択肢もなくはない。数年前までは何かしらの部活に入るのが義務付けられていたのだが、最近はその校則も廃止された。時代の流れなのだろうが、しかしルールなどなくとも、部活に加入する生徒がほとんどだ。帰宅部は一割にも満たないのではないだろうか。校則がなくなっても、部活に入れという目に見えない圧力が生徒たちの間で働いているのかもしれない。
「青次は何か部活に入るの?」
「俺? バスケ部」
即答だった。ほかの選択肢など検討する必要もない、といった様子だ。
「祥は? 帰宅部か?」
「いや、それも悪くはないんだけど……」
帰宅部はクラスでも浮くからなあ。クラスを超えた繋がりを作っておくと、何か忘れ物をしたときに貸してもらえるというメリットもある。それにクラス替えをしたときに顔見知りが増えたりもする。今後の学生生活を円滑に進めるためにも、何かしら部活には入っておいたほうがいいように思われた。
「ま、何かしら入っておいたほうがいいぜ。たったの三年間、何かに打ち込んでないともったいないしな」
メリットやデメリット考えている僕に対し、青次の部活への考えは純粋だ。何か打ち込んでいないともったいない、という気持ちも大いにわかる。
問題は、僕には打ち込めるものが何もない、というところにあるのだが。




