名前
「おや、今日はよく会うね」
文芸部の部室で、祝井先生は本を読んでいた。小説ではなさそうだ。学術書かもしれない。当然、部室にいたのは先生一人だけだった。
「仕事はないんですか」
「一応、今の私は文芸部の顧問だ。文芸部という組織はまだ終わっていない。ここにこうして私が存在しているだけで、私は仕事をしていることになる。それが顧問というシステムだ」
そう言って先生はページをめくる。存在をしているだけで仕事をしていることになるのなら、存在がすなわち収入減になるのであって、これほど幸せなことはない。いや、どうだろう。存在全てが仕事になってしまったら、かえって心労になったりするようにも思える。いずれにせよ、先生の言っていることは詭弁に過ぎないのだから、考えるだけ無駄なのだけど。
本棚に目を遣る。火曜日に、僕と神野さんを騙すために借りてきた古典作品はなくなっていた。図書室に返却したらしい。部活動見学期間はもう終わったのだから、それらの名作も役目を終えたということなのだろう。
「文芸部に入ろうと思って、ここに来ました」
そう口にするのは、少し勇気がいった。本を読んでいた先生が顔を上げる。その顔に、不愉快な微笑やそれに準ずる感情が少しでも読み取れたらこの教室を出て行って、もう先生には一切関わらないでやろうと決めていたのだが、幸いなことに先生は温度の低い無表情を保っている。
「そうか。意外だね。なんだかんだ、君は理由をつけて部活に入らないことを選ぶと思っていた」
「当てが外れましたね」
「ああ、いい方向にね」
と言って先生は何が面白いのかわずかに笑う。
「文芸部に入りたくない理由もあります。祝井先生が嘘つきだっていうこともその一つです。でも、文芸部に入る理由も見つかりました。人間のことを知りたくなったんです」
先生は、ここは人間のことを知れる部活だと言っていた。奇抜なことを言って興味を引こうとするセールストークだろうか? 変なことを言う先生だから、それも否めない。
ただ、そういった違和感を踏まえてでも、一つの経験を手に入れたいと思う。部活に入ったことを後悔するかもしれない。三年間もあるのだ、一度くらい辞めたいと思うタイミングに遭遇することもあるだろう。先生の発言とは違って、人間のことを何も知れず、特に何のイベントも起こらずに三年間を終える可能性も全然ある話だ。
それでも、ここを選ぶ。とりあえずはそう決めたのだ。
空いている机で入部届を書き、先生に渡す。先生はそれを両手でしっかりと受け取った。
「歓迎しよう、渡波祥くん。今日から君はこの部室を自由に使ってもいい。本を読むのも自由だし、自分の本をここの本棚に入れてもいい。しかしスペースは有限だから、ほかの部員と譲り合って使うんだよ」
「ほかの部員? 僕以外に部員がいるんですか?」
「新入部員は君だけではない。昼休み、部の存続は何とかなりそうだと言ったのをお忘れかい?」
そういえば、そういう会話もした。何かダーティな手を使って、幽霊部員すらいない空虚な部を延命させたとばかり思っていた。
「もうじき帰ってくるはずだが」
「帰ってくる? さっきまで部室にいたんですか?」
「図書室から借りた本を返しに行ってもらったんだ」
どうやら、僕を騙すために借りてきた本を、新入部員に返却させているらしい。やはり、祝井先生の素行は教師にあるまじき悪さだ。この人が顧問を務める部活に入ってしまったことに、僕は早々と後悔の念を覚える。
そこに、新入部員が帰ってくる。
見知った顔だった。
しかし、名前の知らない相手だった。
「あ」
と言った彼女は大量の本を抱えていて、先生はおかえり、と低い声で言う。
「返却できなかった?」
「あ、はい。なんか、借りた人が直接返却するルールだって、図書委員の人が言っていました」
「ふうん……そんなルールはないはずだが。ブックポストも設置しているはずだし……まあいいか、私が直接返してこよう」
と言って立ち上がった先生は、入り口のところに立っている彼女の腕から本を取って抱える。
「二人しかいない部員だ。親交を深めておいてくれ」
それじゃ、と言って先生はいなくなり、教室には僕と彼女が取り残される。躊躇うような沈黙が流れて、先に口を開いたのは彼女のほうだった。
「結局、文芸部に入ったんだね。部活とかもういいって言ってたのに」
「うん。確かにそう言ったけど、でも今の僕には人との交流が必要に思えた。成長のため、というか、このまま他人と話そうとすることなく高校三年間を過ごしてしまったら、何か取り返しのつかないことになると思ったんだ」
「へえ……意外。渡波くんってそんなことを考えられる人だったんだ。何もかも嫌だなんて言うより、その考え方のほうがいいよ」
と言って彼女は控えめな笑みを浮かべる。今まで彼女が見せた笑顔とは全く違っていた。
彼女。月曜日の放課後に、僕に告白してきた彼女。そして、春原そよぐの告白を失敗させようと企んだ彼女。
水曜日の昼休み、春原さんと彼女が話しているのと盗み聞きした。そこで春原さんは「私も文芸部に入ろうかな」と口にした。「私も」と言っていたのは、目の前の彼女が文芸部に入ることを検討していたからだったのだ。
「……ごめん」
と文脈を乗り越えて謝罪を繰り出す僕に、え、と小さく彼女は漏らす。
「何か謝るようなことをしたの?」
「僕はした、と思っている。君があの告白を妨げたのは、勝手な思いで春原さんを独り占めするためだと思い込んでいた。でも、違ったんだね。君は、ほかの人間を春原さんから守るためにあの行動を取ったんだ」
春原さんの目的は神野さんを傷つけることにあった。春原さんとの会話で、本当の告白の意図に気が付いていた彼女は、神野さんが傷つく前に対処しようとした。
「ほかの人間を守るため、っていうのはちょっと違うかも。そんなに大げさな理由なんかなくて、ただそよぐの行動を諫めたかっただけだから。あの子は口で言っても矛を収めることはしない。諦めざるを得ない状況に追い込むしかなかった」
結果的にその思惑はうまくいった。春原そよぐの告白計画は失敗に終わったわけで、誰も傷つくこともなく、青次も自分のことを好きでもない相手と付き合わずに済んだわけだ。
「少し気になったんだけど、計画を邪魔するような真似をして春原さんは怒らないの?」
「怒らない。あの人は普通の価値観で生きていないから」
という彼女の発言に、僕は納得してしまう。確かに、彼女は普通ではなかった。かといって過度に狂っているかというとそうでもないような気もする。そういった尺度では推し量れない人間は、確かにこの世に存在する。
「君はこれからも、あの春原そよぐの友達をやっていくつもり?」
「うん。もちろん」
友達が間違ったことをしようとしているなら、それを止めるのが本当の友情と言うものだ、という意見がある。素晴らしい言葉だとは思うけれど、そもそも本当の友情っていったい何を指すのだろう? あの、超然とした春原そよぐと目の前の彼女の間にどのような関係性があって、それがどのように形作られてきたのか、僕は一切知らない。けど、ちょっと歪んでいるところがあるんじゃないだろうか、とやんわりと思う。平気で他人のことを傷つけようとする春原さんもそうだけど、それを諫めつつ一緒にいようとする彼女もちょっとおかしい。
「私のほうこそ、君に申し訳ないことをしたね」
と、唐突に彼女は言う。
「ああ……僕に告白したこと?」
「うん。そよぐを止めるには、そうするしかなかった。君から檜山くんに圧力を加える方法しか思いつかなかったんだ」
「まあ、しょうがない。何はともあれ、一番いい結末には落ち着いたと思うよ」
春原さんと青次は付き合わない。それはすなわち、今まで通りの関係で進んでいく、ということだ。今まで通りがベスト、だとは思わないけれど平穏で滑らかな生活は嫌いではない。
変わったのは、僕が文芸部に加入して、名前の知らない彼女が目の前にいる、ということだ。
「僕は渡波祥。これからよろしく」
とやはりまた唐突に言ったので、彼女はけげんな表情をする。
「……知ってるけど、名前」
「君が勝手に知ったんじゃないか。月曜日も、僕は自己紹介をしないで君の会話に流されるままになっていた。やっぱり、そういう姿勢ってあまりよくないと思うんだよ」
春原さんは、他人のことを訊き出す前に自分のことを話さないといけないと言っていた。その通りだと思う。僕は今まで目の前の彼女だとか、春原そよぐという人間のことを調べるあまり、自分の内面に向き合うことを疎かにしていた。たぶん、他人のことを知るだけでは駄目で、自己開示をして、相手のことを知って、それでまた自分の内面が変化して……そういう風に進めていかないといけないのだ。
「いい名前だね」
と彼女は言う。
「私の名前は」
部活に入って、僕と彼女は変わっていく。それがいい方向なのか悪い方向なのかわからない。時々変化に抗ったりして、あるいは流されたりして僕らの青春は形作られていく。
文芸部に置いてあった金庫に収められていた、遥か遠く、昔の先輩が遺したのであろう爆弾の設計図が何者かによって盗まれ、僕らはそのいざこざに巻き込まれていくのだが、それは春の嵐が過ぎ去ってしばらく経った夏の話だ。




