うまくやること
「……うぁ」
昼休み、僕は昇降口の下駄箱の前に立っている。
そして昇降口のロビーには、一番会いたくない人が目を見開きこちらを見つめて立っていた。
「おや、おやおや」
言いながら、祝井先生の顔にじんわりと笑みが浮かんでくる。
「誰かと思えば渡波くんじゃないか。こんなところで奇遇だねえ」
「同じ学校内で生活をしているんだから奇遇でも何でもないでしょう」
僕の返答に、なぜか先生は満足そうな表情を浮かべる。先生の背後には中庭に面した窓があって、そこに強く風が吹き込んでいるのか、植えられているブナやカエデが身じろぎをするように揺れている。
「ラブレターとは古風だね」
僕は今、放課後のために下駄箱に手紙を入れた。
「生徒の恋愛事情に首を突っ込むとは、おせっかいな教師ですね。越権行為と言ってもいいのでは?」
「おお怖い怖い。君は見かけによらず攻撃的だね。キジのようだ」
わけのわからぬ比喩に、僕は肩をすくめる。下駄箱の前を離れて、ロビーの壁に寄りかかった。
「僕のことはどうでもいいでしょう。恋愛だの悩みだのは僕の抱える固有の問題であって、あなたには関係がない。部活はどうなったんです? 存続の目途は立ちそうなんですか?」
「ご心配どうもありがとう。そちらのほうは何とかなりそうだよ」
何とかなりそう。文芸部に加入してくれそうな生徒が見つかったということだろうか?
「教頭先生に掛け合って正解だった。土下座というのは素晴らしい文化だね。すればどんな人間でも言うことを聞いてくれる」
「は……え? 教頭先生に、土下座?」
思わず祝井先生のほうを見る。冗談だ、と先生は小さく返した。
「さすがに私だってそこまで落ちぶれていないさ。文芸部が必要とされないのが時代の流れだっていうのなら、私はそれを甘んじて受け入れよう」
「……ああ、そうですか、驚いて損した」
冗談にしては程度が深刻すぎる。大人、とりわけ先生という教え導く立場の人間が土下座をしている姿を想像して、少し引いた。
「いったい、何の目的があってそんなくだらない嘘をついたんです? 酔狂にもほどがある。冗談が言い合えるぐらい、僕らは親しくないはずです」
「冷たいことを言うね、君は。単に場を和ませようと思っただけだよ。今日の君はなんだか、物足りない表情をしている」
僕は先生の顔を見る。先生も僕の顔をじっと見ていた。少しの間が空いて、先生はふっと息を吐く。
「さっき、君が下駄箱に入れた手紙。私は先ほどラブレターだと言ったが、本当はそうじゃないんだろう?」
「え……どうして、そう思うんですか」
「君は部活に入ることにすら躊躇を覚える消極的な人間だ。そんな人間が誰かに好意を伝える手紙を出せるはずなんかないと思ったからさ。そういう人間は手紙ではなく、メッセージアプリを利用するだろう。今の時代、直接向き合わずに他人に想いを伝える手段は掃いて捨てるほどありふれている」
先生の言う通り、僕が下駄箱に入れたのはラブレターではなかった。好意を伝える意図などは全くない。
ただ、それを看破されたところで何も思うことはなかった。
大きな声で会話をしている男子生徒の集団が通り過ぎるのを待って、僕は口を開く。
「だったら何だって言うんです? 何を考えて、どのような行動を取ろうが、僕の勝手で、僕の責任でしょう」
「責任」
先生はなぜかその言葉だけ繰り返す。
「立派な言葉だね。勝手、という言葉だけを吐いて自由気ままに振る舞い、他人に迷惑をかけ続けるしょうもない人間にもその精神を学んでほしいよ」
「もしかして、馬鹿にしてますか?」
「いや、してない。君のその精神は見上げたものだ。それは偽りなく思っているよ。信用してくれるかはわからないがね」
祝井先生はそこで窓の外へ目を向ける。つられて僕もそちらを見た。空はまた厚い雲に覆われ始めている。
「ただ、責任という言葉をそうやって口にするがね、責任を取るという行為は具体的に何を指す? 君が取れる責任なんて、たぶん、謝罪して回るぐらいのことじゃないかな」
そう言われて、言葉に詰まる。確かに、僕が発した責任という言葉に、具体的な内容なんてなかった。僕にできることは極々わずかで、力の及ぶ範囲は本当に狭いのだ。
「思うに、君は何か手痛い失敗をしたんだろう? あるいは、今もなお失敗し続けている。何かしらの間違いを犯し続けている」
どうしてそう思うのか、と問う前に、簡単なことさ、と先生は言葉を続ける。
「初めて君にあった日、私は君に言ったね。君はいつか大きな間違いをすると。実はね、渡波くんには言わなかったんだが、君が披露してくれた本の推理には、ある欠点があったんだ」
「欠点? 先生はあの時、僕の推理は正しいと言ったじゃないですか」
「言ったかな? 渡波くんが導き出した結論は的を射ていると言った覚えはあるがね」
思い返せば、そうかもしれない。
祝井先生は僕の推理が正しいとは言っていない。結論が正しいと言ったのだ。
「君の出した結論……すなわち、私が部員の退部を隠すために、その部員が持ち去った本を図書室から借りてきて、部員がいなくなった痕跡を隠蔽した、という箇所は正鵠を射ている。問題は君の推理だよ。君は私の行動を『退部を隠すため』と解釈したが、別の解釈だってできたはずだ」
「別の、解釈?」
「そう。例えば」
先生は右の人差し指を立てる。
「渡波くんが廊下でぶつかった生徒は、退部した文芸部の生徒ではなく、文芸部とは全く関係がない生徒だった、とか」
「……いや、ちょっと待ってくださいよ。文芸部と全く関係のない生徒だったら、文芸部から本を持って行きやしないでしょう。文芸部にあった本が読みたいんだったら、図書室から借りればいい」
「本を持って行った生徒の目的が、本を読むことではなく、文芸部の活動の妨害をすることにあったら?」
「……いや、は?」
先生は真面目な顔で話を続ける。
「その生徒は、誰もいない隙に部室に忍び込み、本を盗み出した。文芸部を陥れるために。緑北高校には今、部室がない同好会がいくつか存在している。その同好会が、部室を獲得したいと思うのは当然の思惑だ」
「……だから、文芸部を廃部に追いやるために本を盗み出したと。そう結論付けたいわけですね」
「そう。理解が早いね。花丸をあげよう」
そんなものをもらっても嬉しくもなんともない。
「渡波くんに事情を話さなかったのも理屈付けられる。盗難なんかが起こったことが露呈したら、当然事は大きくなる。学校全体に通達を出さなければいけないわけだし、君がもし正義感にあふれたヤツならば、犯人をとっちめようとするかもしれない。君は一度その生徒と遭遇していて、顔を知っているわけだからね。事が大きくなる前に、内々で処理しようと思って、盗難のことを隠し通そうとした、と考えるのも不自然ではないはずだ」
正義感にあふれたヤツ、という言葉は少し皮肉を伴った言葉に聞こえたけれど、先生の指摘は正しい。
もしかしたら僕は、もし本が盗まれたのだったら、その犯人を追い詰めようとしたかもしれない。先生の言った通り、僕は本を運んでいる生徒を見ているわけだし、その学年も知っていたのだ。できない話ではなかった。
「もちろん、今の話は、別の解釈も可能だったという例え話だ。実際には君の考え出した結論のほうが正しい。でも君の考えてくれた推理は、たまたま正しかった、というのに過ぎない。別の考え方をすることもできるのに、その別の考えには目もくれず、たまたま正解を言い当ててしまった。定期テストに出題された記号問題で、たまたま正解してしまうみたいにね」
正解は正解だ、と意味のない反論を試みるつもりはなかった。僕自身、そんな慰めは信じていない。
「なら僕はあの時、どうすればよかったんです? 先生の行動の違和感を無視して、結論を出さなければよかったんですか?」
「いや違う。その行為は、記号問題を空欄にして提出するようなものだ。たとえあてずっぽうでも、何かしら書いて提出したほうがいいに決まっている。もちろん、間違える確率のほうが正解する確率よりも遥かに高いがね」
窓ガラスが風で揺れる。外を通っている渡り廊下への扉から色あせた桜の花びらが校内へ舞い込んできた。
「必要なのは自覚だ。自分の考えは常に足りない。間違っているかもしれない。そう思いつつも行動することが大切なのさ。テストだってそうだろう? 勘で正解したとして、正解であることを喜んで見直しをしなかったら成長は期待できない」
「間違ってもいい、ということですか?」
「間違いを肯定するというわけではない」
と先生は厳しいことを言う。厳しい、と思うこと自体僕の甘さかもしれないが。
「悩むことが大切なんだ。正解だろうが不正解だろうが、それはそのタイミングで正解、不正解であるにすぎない。その時点で失敗だと思っていたことが、後々振り返った時に正しかったと思えることだってある」
「……よく、わかりません」
先生が大人だから、だろうか。先生は僕よりはるかに生きている時間が長い。その分、過去にある失敗の量も桁違いに多いはずで、今現在の先生は、それを肯定できているのだろうか。
もしそうだとしたら、それ以上に羨ましいことはない。
「……渡波くん、この前に別れ際に、私が言ったことを覚えているかい」
「別れ際……どれのことです?」
「教師っていうのは、悩む生徒と一緒に悩むことが仕事なんだ。悩みを解決することではない。悩みっていうのは大抵、解決してもその人の人生に色濃く影響を残すものだ。綺麗にさっぱり悩みを消すことはできないが……その時々、悩みと向き合ってなんとかやっていくことは決して不可能ではない」
「カウンセラーみたいなことを言いますね」
「私の親友がカウンセラーだったんだ。もしかしたらその影響を受けているのかもしれない」
ま、いずれにせよ、と先生は言葉を続ける。
「失敗でも何でもするがいいさ。いざとなったら私を頼れ」
「……いえ、大丈夫です。僕が自分で何とかします」
僕の言葉に、先生は小さく、そうかい、とだけ答える。
「せいぜいうまくやりたまえ……それじゃ、また」
と言って、先生は廊下を歩いていった。
風はまだ、強く吹いている。




