予後
金曜日の朝は少し晴れていた。空には、昨日の夕方から夜中にかけて大雨を降らした雨雲の残骸が漂っている。小さくなった雲の合間から、陶器みたいな色をした薄い青空が覗いていた。
コンクリートは湿っていて、気を抜くと滑って転びそうになる。学校に近づくにつれて駅から歩いてくる生徒たちの流れに合流する。雨上がりの湿った空気の中でも、登校している生徒たちの談笑は明るく響く。
「あ、よう」
と珍しく先に学校へ来ていた青次がラフな挨拶をする。昨日の今日で青次はあまり変わらず眠そうである。
「そういえば、春原の件はどうなった?」
と遠慮もなく青次は訊いてくるのだが、その遠慮のなさが青次のいいところのなのだった。僕からは到底、その話題は出せなかっただろう。
「断った」
とだけ、僕は端的に答える。実際、僕に告白してきたのは春原そよぐではなく、春原そよぐを騙った別の人物だったのだが、それは別に教える必要はないだろう。
彼女は春原さんや青次と同じ中学校に通っていたので、青次に訊けば彼女のことが色々とわかるはずなのだが、僕はそれをしない。訊いたところで、知ったところで何かが大きく変わるわけではないのだし。
「そっちは?」
と短く訊く。
「ああ……気が付いていたんだな。まあ、俺もお断りしたよ。お前の話を聞くと、ちょっとうまくやっていけそうにないと思ってな」
まあ、そうなるよな。当然の帰結と言える。結局、偽者の春原そよぐが画策した通りの展開になったわけだ。
「なんか、申し訳ないな」
「申し訳ない?」
「だって、僕が余計なことを言わなければ、青次たちはうまくやっていけたかもしれないじゃないか」
やや間を空けて、ああ、と青次は言う。
「そういう考えもできるか。いや、気にしないでいいよ。そもそも俺は別に向こうのことは好きじゃなかったし。好きだったら保留なんかせずにさっさと返事していたわけだからな。お前の一言なんかなくても、断っていた可能性も十二分にある」
「……そういうものか」
となると、僕が演じた役割は結局何だったのだろう、という気になる。僕がいてもいなくても、青次は春原さんと付き合わなかったかもしれない。僕の一言は、青次が告白を断るほんの些細な一つの要素に過ぎなかった。
「そもそも、あいつ、俺のこと好きじゃなかったしな」
「え? そんなことある?」
「あるんだよ、それが。好きでもない人間に好きだと言って、そのままゆるゆると交際を続けていける人間は確かに存在する。別にそれは悪いことではないと思うが、俺にはちょっと合わなかったな」
なんて大人びたことを青次は言う。
「向こうが青次のことを好きではなかったっていうのは、どうしてわかるの? それは向こうが好きじゃないって言葉にしたわけ?」
「いや、別にそんなこと言いやしないよ。見ていりゃわかるだろ」
「へえ。じゃ、逆に自分のことを好きな人も見ていればわかるってこと?」
「そりゃ当然、そうなる」
「本当かな」
「話していれば、この人はなんとなく自分のことを好きだとか嫌いだとかわかるだろ。話す回数もそうだし、表情とかで」
「そりゃ、なんとなーくはわかるけどさ」
しかし僕は偽者の春原そよぐとの会話ではわからなかったわけだ。彼女は僕に好きだと何度か言ってきたが、僕はそれが嘘だと見抜けなかった。青次だったら、それが嘘だと見抜けただろうか?
本物の春原そよぐは、青次のことが好きではなかったという。そんなこと、ありえるだろうか? 青次の見立てが間違っている可能性も、十二分に考えられる。告白をする以上、相手への好意は少なからずあるはずで、青次がそれをうまく感じ取れなかっただけかもしれない。
会話が途切れた瞬間、青次は姿勢を正すようにして廊下に目を向け、あ、と声を漏らす。
「おーい!」
と青次が手を振る先には、登校してきた神野さんがいた。登校してきた生徒の隙間に、彼女の顔が見えた。
神野さんが僕らに、というか青次に気が付く。すると彼女は控えめに笑い、青次に向かって小さく手を振った。やがて開いている教室のドアから彼女の姿が見えなくなる。
「今日はちゃんと挨拶してもらえたね」
「ああ、よかった」
と吐息交じりの声で言う青次の顔は穏やかだ。
「そういや、努力は必ず報われると思うかって質問にまだ答えていなかったな」
「え……ああ、そういえば、そんな会話もしたっけ」
三日前ぐらいだっけ。火曜日の部活動見学で文芸部に行った際に神野さんと出会い、その連想から青次にそんなことを訊いた。
「俺は、努力をした分報われてほしいと思うよ」
「なんか、含みがある言い方」
「なんつーか、努力が結局報われるのかってさ、他人より努力をしたかどうかだと思うんだよ。周りの人だって努力をしている。自分が努力をした気になっても、周りの人より努力ができていなかったら報われないわけだろ? 周りの人が百時間練習していて、自分だけ九十時間しかやっていなかったとする。九十時間っていう数字は大したものだけど、それでも周りの人の努力の量には追い付いていないわけだ」
「まあ、相対的な評価だとそうなっちゃうよね。結局、他人よりやっている時間が少ないんだから、報われなくてもしょうがない」
「だろ? 今の話はごくごく単純化したものだが、頑張ったけど結果が出なかった人ってそこら中にいると思うんだよ。それで、うまくいかなかった人に対して、『努力は必ず報われる』って伝えても、あまり意味がないんじゃないかって思うんだ。なんか……『努力は必ず報われる』って言葉は、人間の頑張りとかを物凄く単純化した言葉で、その言葉だけだと人間の成功とか失敗を表現することは不可能だと思うのさ」
「……なるほどね」
青次の言っていることは理解できる。確かに、「努力は必ず報われる」という言葉で成功、失敗を語ることは難しい。努力をしたって失敗することはあるし、逆に労せずして成功を収めることだってあるだろう。
「俺も努力する側の人間だけどね。失敗することもあるけど、それは努力をしない理由にはならないよな」
「その言葉には同意するよ。でももし、努力をして失敗したらどうする? めちゃくちゃ努力をして、何百時間も費やして、それでも結局徒労に終わったら青次はどうする?」
「どうするって……どうしようもないだろ? 精一杯やっても失敗することもあるって割り切るしかないだろう。というか、ほとんどの人間がそうやってある程度覚悟を決めて生きているはずさ。努力が実らないっていう覚悟をな」
そういうものか。そういうものだよな。
「なんか……青次も色々考えているんだね」
「考えてる? まあそうかもな。お前に触発されたのかも。俺から見れば、祥は少し考えすぎなような気もするがな」
知らんけど、と青次は言葉を結ぶ。その無責任な言葉の切り方こそ青次らしい、と思うけど、その言葉とは裏腹に青次はこちらが思っているよりも考えている。直情的に見える青次だって、やはり一人の人間で色々と考えているのだ。
やがてホームルームが始まり、今日から本入部期間だということを担任が言う。今日から来週末までに、部活動に参加する場合は本入部届を担任に提出しないといけないらしい。配られた本入部届は文庫本の帯みたいに細長く、クラスと出席番号、名前、所属したい部活を書く欄しかなかった。隣の青次はさっそく記入し始めている。
僕はそれを制服のポケットに入れたまま授業を受ける。紙を捨てるのも面倒くさかった。
部活のことはすっかり忘れた三時間目の後の休み時間に、体操着姿で校庭へと向かう神野さんと廊下で会う。僕が軽く会釈をすると、向こうもひらひらと手を振ってくれる。
「なんか、元気ない?」
と向こうが不意に言ってきて、僕は少なからず驚いてしまう。
「え? そう見える?」
「見えるかも。わかんない、光の加減かな。ちょっと笑ってみて」
と言われても急には笑えない。
「何かおもしろいことをやってくれない?」
そう言うと、彼女は躊躇いなく変顔をする。残念ながらおもしろくはなかったけど、僕の笑顔のために恥を忍ばず変顔を披露してくれた優しさは素直に嬉しかった。
「あ、笑った」
「ちょっとおもしろかったよ」
と僕は思ってもないことを言う。ちょっとかあ、と神野さんは少し悔しさそうに言った。
「そういえばさ」
あたりを見渡してから、僕は少し声を押さえて言った。
「青次、告白断ったって言ってたよ?」
「え? ああ……そうなんだ」
と言った神野さんの表情は、どこか拍子抜けしているように見えた。
一昨日、自動販売機がある場所で神野さんの口から『告白』という言葉が出た時、僕は神野さんが青次に告白したのだと解釈したわけだが、それは勘違いに過ぎなかった。青次に告白したのは春原さんで、神野さんはその告白の詳しい経過を探りたくて、そのような話題を僕にぶつけたのだ。
「そっか。そうだよね。……よかった」
神野さんのその言葉を深く追求することはしない。
「ところで少し話は変わるんだけどさ、青次が告白されていることを、神野さんはどうやって知ったの?」
ちょっと気になっていたことだった。誰かから告白されたことを、青次は自分から言いふらしたりするようなヤツではない。
「あ、ええと、それは……春原さん本人から聞いたの。青次に告白したって」
「なるほど、ね」
青次は告白されたことを言わない。だとすれば、神野さんに告白のことを教えたのは、告白をした側である春原さんだということになる。
「春原さんとは仲良いの?」
「うーん……私はそう思いたいん、だけどね」
そう曖昧な反応を見せた後、
「あ、そろそろ行かなくちゃ、またね」
と言って彼女は去っていく。
「……ああ」
廊下の騒がしさの中、僕は一人で呟いた。自然と出た声だった。
また、僕は間違えたのだ。




