春原さえる②
「君から見たお姉さんって、どういう人なの?」
「どういう人、ですか。そうですね……」
思考の間を少し開けてから、彼女は口を開く。
「単純に、素晴らしい人ですよ。生き方に芯が通っていて、美しい。私は常々、ああいう人間になりたいと思っています」
と姉の魅力を語る彼女の口調は、生き生きしていた。
「中学に、ちょっと嫌な先生がいたんです。というか、今もいるんですけど」
「へえ。ものすごく厳しい、とか?」
「逆です。変に優しいんです。女の子だけに。授業中、女の子だけ当てないし、加えて女の子だけ下の名前で呼ぶし」
「ああ、それはちょっと嫌かも……」
「そうでしょう? そういう扱いに喜んでいる女の子もいるんですけれど、喜んじゃ駄目なんです。あいつのやり方は、完全に女の子を下に見ているんですから。呼称で他人と扱いを分けるっていう考えが浅はかです」
その考えはわからなくないし、さえるの怒りももっともに感じられた。もっとも性別も違うし、実際にその教師を見ていない以上、僕の共感は表面的なものに過ぎないのかもしれないが。
「姉も同じような扱いを受けていました。軽々しく、そよぐ、と呼ばれて、そよぐは真面目だから、とか、頭がいいから、とか、そういった内面を深く理解している風な、断定的な言葉をかけられていたそうです。お前はこういう人間だ、って決めつけるのは、どう考えても失礼ですよね。それすら想像ができない人間が教師をやっているってことが、本当にもう、どうしようもないですが」
そこでさえるは咳ばらいをする。
「話が少し逸れました。姉は、その教師が許せなかったそうです。自分の在り方を決めつけてくる教師が。そこで、姉はその教師をやり込める一計を案じました。正義の鉄槌です」
と言いながら、彼女は右の拳を左の手のひらに叩きつけた。
「まさか、暴力?」
「いや、そんなわけないでしょう。そんな野蛮な手に訴えなければいけないほど、姉は愚かではありません。まず、姉はその教師が担当している科目……数学だったんですけど、数学以外の全ての科目で満点を取りました」
「数学以外の全ての科目で満点って……そんなことできるの?」
「できます。世の中には、常人的な尺度では測れない、天才的な人間がいるのです。それが春原そよぐという人間です。姉はその天才性を生かして、数学以外全ての点数で百点を取りました。それから、どうしたと思います?」
「……話の流れに沿うと、あんまりいい結果を出さなかった感じがするけど」
「さすが、勘がいいですね」
そこでさえるはにやりと笑う。
「数学のテストだけ、零点を取ったのです」
「……マジ?」
「マジですよ。大マジです。ほかの全ての教科で満点を取る実力があったのです。数学も当然、満点を取るポテンシャルを持っていると周囲の人から認識されていた。それをわかっていて、姉はあえて低い点を取ったのです。すると、ほかの教師も当然驚きます。春原そよぐのような品行方正で聡明叡知で羞花閉月な人間がこんな低い点を取ったからには、何か事情があるに違いないと、皆が思ったわけです」
最後の四字熟語は、内面の形容ではないと思ったが、黙って先を促す。
「ほかの教師は、姉に問題があるのではなく、教える方、すなわち数学の教師に問題があると考えたわけです。姉は知っていたんですね。成績のいい生徒は、それだけで贔屓されることを。詳しいことは知りませんが、姉の点数の一件で、数学の教師は授業の進め方、教え方についてPTAや職員会議でたくさん絞られたみたいです。一目見ただけで体重が落ちたのがわかるくらい、精神的にキていました」
「それは気の毒な……まあ、自業自得ってヤツなのかな。それで、どうなったの? 先生の性格は治った?」
と尋ねると、さえるは首を横に振る。
「いえ、矯正されませんでした。その先生はいまだに女の子だけを下の名前で呼んで、他人の性質を決めつけるような言動をしています。その性向を指摘したわけではないんですから、治りゃしませんよね。でもそもそも、姉の目的は教師の悪癖を正すことではなく、教師を攻撃することだったんです。その先生の性格が良くなるかどうかなんて、姉にとってはどうでもよかったんです。ただ、気に入らない人間を攻撃することが、あの人の目的だったんです。そしてその目的は、テストで低い点数を取ることで容易に達せられました」
「……なんというか」
彼女の口から語られる「春原そよぐ」のエピソードに、僕はちょっと引いていた。僕は実際、その場所にいたわけではないから、「春原そよぐ」がどのような熱意を持って、その教師に相対していたのかはわからない。ただ、今のエピソードは全て真実だとしたら。
「少し、子どもっぽいね」
「ま、そういう一言で片づけることもできなくはないですけど、天才っていうのは往々にして子どもっぽいものですよ。知ってますか? アインシュタインは住んでいたアパートの壁の歪みが気になって、その壁を見続けたそうです。その経験が後々、相対性理論の着想の元になったと言われています。姉も同じなんです。これと決めたことに夢中になって、周りを置き去りにしてしまうタイプです。何もない壁を、ひたすらに見続けられる人間です」
少し間を空けて、嘆息交じりの声で彼女は続ける。
「美しいでしょう?」
美しい、のだろうか。その天才性に美を感じているのかもしれないが、付き合いの浅い僕にはいまいち実感しかねた。
「なんか、僕から見た春原さんと、君から見たお姉さんは少し違う気がする」
「それはそうでしょう。私は妹、あなたは単なる知り合い程度の男なのですから」
知り合い程度の男、か。告白されたと言えばそうなのだが、実際、僕らはまだ知り合ってから一週間も経っていない。知り合いに過ぎない、と言われればそうなのだろう。
「逆に、あなたは姉のことをどのような人間として捉えているのです?」
「……そうだな」
これまでの彼女とのやり取りを振り返る。初めて告白された時のこと、そして、今日自動販売機の前で会った時のこと。
「はっきりと物を言える人間だよね。好きなものには好きと言えて、嫌いなものは嫌いと言える。そんな人間だ」
「当たり障りのない評価ですね」
と、なぜかさえるは不満げだ。
「もっとなんか、ほかにないんですか? あれほどの人間を前にしたら、普通、もっと何か思うことがあるでしょう」
そう言われても、僕は彼女のことを全くといっていいほど知らない。何が好きで何が嫌いで、中学の時にはどんな部活に入っていてどんな人と仲良くしていたのか、僕は一切知らないのだ。そんな僕に彼女の評価ができるかと言われると、やはり少し難しいと答えざるを得ない。
この妹は、姉が僕に好意を告げてきたことを知っているのだろうか。勝手なイメージでしかないが、姉妹で恋愛の話をすることはそこまで珍しいことではないはずだ。
「……でも、一度会ったら忘れられないというか、そういう存在感はあるよね」
結局、僕は告白の衝撃をマイルドにして表現することにした。その評価に満足したのか、さえるは大きく頷く。
「そう、そうなんですよ。あの人は圧倒的な存在感を持っている。あなたは、というか姉に出会えた人は、その奇跡に感謝するべきなんです」
「大げさ」
と僕は少し笑う。いいえ、と彼女はすぐに否定をした。
「大げさなものですか。思い出を振り返れば春原そよぐがいる。それはある種の祝福ですよ」
祝福。やはりその言葉も大げさかもしれない。
僕らの関係がこれからどうなるかはわからない。より心を通わせられるかもしれないし、逆に関係が途絶する可能性だってある。でも、今この瞬間において、僕はあの女の子に好意を寄せられていて、その経験は本当に素晴らしいものだ。そういった意味で、僕にとっては確かに、彼女の存在は祝福かもしれない、と少しだけ思わなくもなかった。
「……だから、あなたの言ったことは正しいのです」
「正しい? 何が?」
「私と姉が似ていないと言ったこと、です」
少し思い出すための間が開いてから、ああ、と僕は返す。
「私たちの容姿は多少似通っていますが、中身はまるで違います。彼女は物凄い人格を備えているのに対し、私は平々凡々の、ただの可愛い女の子です」
見上げるべき自己肯定感をほのめかせて彼女は言った。見た目もそこまで似ていない、とは思うけど、周りの人でそう感じる人は少ないらしい。
「あなたはもしかしたら、内面を見通す能力があるのかもしれませんね」
「……どうかな」
否定するのもどうかと思って、そんな言葉でその場をやり過ごす。
「私、そろそろ行きますね。さっさと家に帰ってやらなきゃいけないこともあるので。では、これにて失敬」
頭を下げて、彼女は校舎へと小走りで向かっていく。その背中はやはり、彼女とは似ても似つかない気がした。




