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春の嵐と名無しの愛  作者: 青桐鳳梨


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出会い

 春の風が吹いた。校舎裏の窓ガラスがガタガタと音を立てる。灰色の雲の下、薄い白色の桜が音もなく舞って雪みたいだった。

 魂が、震えた。

 春風に、ではなかった。目の前にいる彼女の柔らかくてまっすぐな声が、僕の心を揺さぶったのだ。


「……え」


 と小さく零した僕の言葉を聞いて、彼女は困ったような表情を浮かべた。


「もう一度、言って欲しいの?」


 そうだ、とも、違う、とも言えず、向こうは先ほどの言葉を繰り返した。


「好きだから付き合ってほしい」


 と言ったの、と小さな声で結句を述べる彼女の顔は少し緊張しているように見えて、その表情がさらに僕の鼓動を加速させる。



「いや、え、だって」


 と間抜けな繋ぎ言葉が口から零れ落ちる。春風がまた強く吹き付けて、僕らの身体に柔らかな桜の花びらを降らせる。


 四月。高校に入学して約一週間。

 高校生活最初にして、人生において最大の出来事に僕は直面していた。

 これまで十五年間、僕の人生は滑らかに進行していた。多少の困難と喜怒哀楽があった一方で、さほど大きな事件を経験せずに僕は十五歳のここまでやってきた。大した起伏はなかったけれど、人生なんてそんなものだという結論を僕は出していて、つまらないかもしれないけれど確かな手触りのある結論に、僕はまあまあ満足していた。


 放課後、帰ろうとした僕の下駄箱に手紙が入っていた。清潔な白い洋封筒だった。それが僕の白いランニングシューズの上に載っていた。

 手紙を目にしたときの僕の鼓動の高鳴りは筆舌に尽くしがたい。ラブレターかもしれない、と思った瞬間に耳まで熱くなり、心臓を貫かれたように胸が期待で傷んだ。

 封筒と同じく、便箋も飾り気がないものだった。灰色の罫線が引かれただけの便箋に、丸い字が整然と並んでいた。


『突然、手紙を出してごめんなさい。校舎裏に来てくれたら嬉しいです』


 手紙にはそう書かれていたのみで、折りたたまれたA4の便箋の大半は余白が続いていた。しかし二行

にも満たないその簡単なメッセージで、僕の人生は今までと全く違ったものになった気がした。


 そして、ラブレターかもしれないという僕の想定は当たっていた。目の前には、緊迫した雰囲気を漂わせて、一人の女の子が立っている。


 それなのにどうしてか、僕はこれ以上ないくらいに動揺していた。


 危機と言えた。一五年間生きてきた僕の根幹を揺るがすような危機だ。


「だって、名前すら知らないし」


 と言い訳めいたことを言う。

 僕は彼女の名前を知らない。それどころか存在すら認識していなかった。彼女がこの世界に生きていて何かを考えていること、呼吸をしていること、笑っていること泣いていることを知らなかった。彼女の存在が僕の認識に立ち現れたのは今さっき、ここで向かい合ってからのことだった。


「名前」


 彼女はつまらなそうに言った。名前を知っているかどうかなんて、好意に関係がないとでも言いたげな表情だった。


「私はあなたの名前を知っているよ。渡波(わたなみ)(しょう)くん」


 いい名前ね、と彼女はささやかながら確かな声で付け加えた。名前を褒められたのは生まれて初めてのことだった。さりげない一言であるはずなのに、僕の単純な心はそんな短い一言で満たされた心地になる。


「そう。僕の名前は渡波祥(わたなみしょう)。でも僕は、君の名前を知らない。……本当に、申し訳ないんだけど」

「別に謝ることはないよ」


 と彼女は言った。不満そうには見えなかった。


「渡波くんが私のことを知らないことは大した問題じゃない。これから知っていってくれればいいから。もちろん、君がそれを望むなら、だけど」


 望むなら。つまり、僕らがこれから先交流を深めるなら、ということだ。


「そういえば、自己紹介がまだだった」


 一呼吸おいて、彼女はこちらをまっすぐ見据える。


「私の名前は春原そよぐ。春の原と書いて『すのはら』。そよぐはひらがなね」

「春原……」


 聞いたことがない名前だった。クラスにはもちろんいないし、今まで関わってきた人間の中にも、春原という苗字はいなかったと記憶している。僕が忘れているだけだろうか、とも思ったがすぐにその考えを否定する。好意を抱かれるぐらい交流があったのなら、決して忘れはしないはずだ。


「よろしくね、渡波くん」


 と言いながら差し出された小さな手に、僕はどうすればいいのかわからない。その手を掴むべきか逡巡している間に、相手は気まずさを覚えたのか、やがて手は下ろされた。


「……ごめんなさい。いきなりだから驚いているよね」

「いや、驚いているっていうか……」


 さりげなく後方を確認する。僕らの周りには誰もいない。緑色のフェンスが続いていて、その外側の道路も人はいなかった。道路を挟んだ向こう側には市民体育館があるのだが、出入りする人はまばらで、こちらの様子を伺っているような人はいない。


「いたずらとか、ドッキリじゃないよ。ま、そう思われても無理はないとは思うけどさ」

「……そっか。ちょっと、安心してもいいのかな」


 彼女はドッキリではないと言うが、その言葉をそのまま信頼できるほど、僕は彼女のことを知ってはいない。どこかで僕が困惑している様子を見て笑っている人がいるんじゃないか、目の前の彼女本人も、心の底では僕を軽んじていて、好きでもない人間に告白するスリルを楽しんでいるのではないか。そんな不安にまみれた考えが顔を覗かせる。


「私はしっかりと、渡波くんのことが好きだよ」


 好意を伝えることに慣れてきたのか、彼女は視線を震わせることなく、明瞭な声で言った。


「今まで出会ってきたどんな人よりも君が好き。これからのことはわからないけど、今後の私の人生で、あなた以上の人は私の前には現れないと思う。私がこの高校であなたに会うことができたのは、たぶん運命。君が今ここでこうして私の前に現れてくれたのと同じように、あなたの前に私が現れるのも、運命だったんだって思う」


「……大げさ、だよ」


 口ではそう言ったものの、嬉しい。


 ここまで直接的な表現で誰かから好意を伝えられたことは今までにない。というか、婉曲的でも他人に好きだと伝えられた経験は僕にはなかった。彼女の声は僕の内面を効果的に揺さぶった。彼女の口から発せられる言葉一つ一つが、表現一つ一つが尊いものに感じられる。


 当の彼女は言いたいことを言い切ったからか少し満足そうな顔をしているように見えて、そんな何でもないことも……愛おしく思えた。視線がぶつかり合うたびに、何かを確かめるような空気が僕たちの間に流れて、居心地の悪さも確かにあるのだけど、そういった不器用な感じも僕には新鮮だった。


 これは、マズい。


「何か、不満?」


 黙りこくっている僕に、彼女が問う。


「不満というか……」


 どちらかというと、不安だった。


 好意を伝えられることはこれ以上ないくらいに幸福な気持ちになれる。彼女の言葉は今までの自分を全て、無条件で受け入れられたような心地にしてくれる。今までの人生で僕はこのような感覚を味わったことはなかったし、そもそもこういった身を包むような幸福感がこの世界に存在していることを、僕はたった今、彼女の言葉で知ったのだ。


 だけどどういうわけか、納得できない自分がいた。

 

 そうだ、納得ができないのだ。


「理解できない」

「え?」


 彼女が訊き返す。


「春原さんは僕のことが好きだって言ってくれる。その気持ちは、正直、嬉しい。凄く嬉しい。でもやっぱりなんか、納得がいかない」

「納得がいかない……どうして?」

「……君がどうして、僕を好きになってくれたのかがわからない。春原さんは、僕のどこが好きなの?」


 風がまた吹いた。春の気候は不安定で、先ほどまで晴れていたはずの空は、分厚い雲に覆われている。彼女の黒く髪は風に吹かれて墨絵のような曲線を形どった。


「人を好きになるのに、理由はいらない。なんてよく言うでしょう? うまく理由を伝えることはできないけど……私は君が好き。それ以外に何かある?」


『人を好きになるのに理由はいらない。』よく聞くフレーズだった。確かにその言葉には共感できる。僕だって、自分が好きなもの全てに対して、それがどうして好きなのかを理由付けられるわけではない。なんとなく好き、というものもあるし、理由がないからといって好きという気持ちが損なわれるわけではないのは確かだ。


 でも、人間関係において理由なしに好意を押し付けるのは、なんというか、少し失礼ではないだろうか。

 失礼というか、不気味だ。不条理、と言ってもいい。


 僕の好きなところ、いいところを口に出してもらいたい。彼女が僕を好きになった理由を明確にして安心したい。そんな心理が僕の中にあるのだろうか? その欲望は、彼女を疲弊させることに繋がりはしないだろうか。

 いや、でもこれは、一つの信頼の問題なのだ。理由もなく僕を好きになったのだとしたら、理由もなくほかの誰かを好きになるということもありうる気がする。彼女の好きという気持ちを僕が制限する権利はないにしても、僕のことを好きだと言ってくれたこの瞬間だけは、彼女の気持ちを確かめてもいいような気がする。


「春原さんが僕を好きになったのには、何かしら理由があると思うんだよ。というか、あってほしいと僕が願っている、というだけに過ぎないのかもしれないけれど、とにかく、好意を抱くにはそれだけの理由が、僕には必要に思えるんだ」


 言っていて、なんか恥ずかしいことを言っているな、という自覚が芽生える。しかし、理由というのは僕にとっては切実な問題なのだった。


「春原さんは、僕のどこを好きになったの? どうして僕のことを好きになってくれたの?」


 僕の問いに、彼女は少し視線を落として、考え込む仕草を見せる。


 それから一分ぐらい考え続けて、結局彼女は何一つ、僕に好意を抱くに至った理由を挙げることができなかった。

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