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第3話 破産法という救済

朝。パン生地よりも早く、わたくしの頭が発酵しておりました。

昨夜、セドリックから借りた帳簿を読み耽ったせいです。


「資産」「負債」「純資産」――この三語を並べただけで胃酸が騒ぎますわ。

それでも不思議と気分は悪くありません。

数字というものは、人間より誠実ですもの。損も嘘も、きちんと帳簿に残りますの。


「クラリッサ様、寝ぐせが経営破綻してます。」

「再生手続き中よ。あと五分で更生計画を提出するわ。」

「提出先は鏡ですけど。」

「自己審査は厳格に行う主義ですの。」


マリベルが苦笑してオーブンを開けました。

香ばしい香りが立ちのぼる。

破産者の朝はパンとともに始まります。

たとえ通帳が凍結されていても、トースターは律儀に温かいのですわ。



開店間もなく、見知らぬ青年が現れました。

灰色のスーツに書類の束。顔は曇天、声は湿度を帯びています。


「こちらが“破産者再生パン店”ですか?」

「正式名称は“パン工房・再生”ですの。頭に“破産者”を付けると顧客心理が崩壊しますわ。」

「なるほど……私は商会倒産者協会の職員です。」

「まあ、そんな協会が?!」

「ええ。倒産者の再就職や生活再建を支援しています。」

「すばらしい。あなた方は社会の縫い目を繕う裁縫師ね。」

「……そんな立派なものでは。」


青年はパンを一口かじり、少し驚いた表情になりました。

「……温かい。」

「当然ですわ。人の心と同じで、冷やしたままでは立ち直れませんもの。」

「あなた、まるで“再生法”そのもののようだ。」

「まあ。褒めてくださるなら、条文より柔らかく焼き上げておきますわ。」


青年は領収書を受け取りながら言いました。

「この味、協会のカフェで売れますよ。出店をご検討ください。」

「官庁の建物にパン屋を? 堅苦しい空気に少しは酵母が必要ですわね。」

「……比喩が上手い。」

「ありがとうございます。比喩はこの店の無料オプションですの。」

「真面目に言ってるんですが。」

「ええ、わたくしも真面目に冗談を言っております。」



昼下がり、セドリックが戻ってきました。

「外回りから戻りました。契約三件、回収率八割。」

「あなたの仕事の成果は、いつも数字で語られるのね。」

「それが職業です。」

「でも、パンの香りの中で“回収率八割”なんて聞くと、どうにも幸福な統計に聞こえますわ。」

「香りのせいで損得感情が鈍るんだ。」

「なら経済会議もパン屋で開くべきね。」


わたくしは帳簿を広げました。

「ねえ、セドリック。ようやく少し分かってまいりましたの。破産って、罪ではありませんわね。」

「ふむ?」

「債務整理とは、“現実と向き合う勇気”。破産法は罰則ではなく再生のルールブックですわ。」

「正解だ。……珍しく真面目だな。」

「真面目は高級品ですの。大切に使いますわ。」


セドリックは笑いました。

「法律に救われる人は多いが、法律を笑いながら理解するのは君が初めてだ。」

「笑わなければ支払いが重すぎますもの。軽口は心の分割払いですわ。」



「今日、王都で噂になってる。“破産した令嬢が経済を語る”と。」

「また見出し? 記者という生き物はパンより膨張が早いのね。」

「庶民には評判がいい。“借金しても立ち上がる女”だと。」

「“借金ヒロイン”……語感が悪いですわね。」

「だが強い。」

「強い女は嫌われる時代、もう終わりかしら。」

「たぶんな。」

「では、新時代の広告文句にしましょう。“負債ゼロより信頼プラス”。」



夕方。

マリベルが店先で子どもたちにパンを手渡しておりました。

「余った分、配っちゃいました!」

「まぁ。商売の基本をわきまえたうえでの慈善活動ですわね。」

「え、無料で配ってるのに商売になるんですか?」

「ええ。笑顔は宣伝、善意は広告、そして“おいしかった”は最強の口コミですの。

 未来の利益を先に蒔いておく――それを投資と呼びますわ。」

「なるほど……回収が見えませんけど。」

「信頼という利息は、必ずあとで香り立ちますの。」


セドリックが遠くでその会話を聞き、ぼそりと呟きました。

「信頼、か……それなら、君にはもう黒字が出てるな。」



夜。

帳簿を開けば、数字はいまだ赤い。

けれど胸のどこかで、小さな黒いインクが灯っておりました。

“再生”――その二文字が、静かに増資されていくように感じますの。


「ねえ、セドリック。人も破産して、やり直せるのね。」

「もちろん。制度は人のためにある。」

「ええ。なら、わたくしも人生の再建計画を立てなくては。」

「どんな計画だ。」

「浪費の抑制、信用の再構築、そして――過去への利息返済。」

「恋愛債務の整理は入らないのか。」

「それは無担保債権ですわ。放棄処分で結構。」


セドリックが苦笑し、肩をすくめました。

笑いの中に、静かな温かさがありました。


外では夜風が吹き抜け、看板が小さく揺れます。

“パン工房・再生”――

その下に書かれた一文が、今日だけは誇らしく輝いて見えました。


“破産は終わりではありませんの。法がある限り、人は立ち上がれますのよ。”

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