第3話 破産法という救済
朝。パン生地よりも早く、わたくしの頭が発酵しておりました。
昨夜、セドリックから借りた帳簿を読み耽ったせいです。
「資産」「負債」「純資産」――この三語を並べただけで胃酸が騒ぎますわ。
それでも不思議と気分は悪くありません。
数字というものは、人間より誠実ですもの。損も嘘も、きちんと帳簿に残りますの。
「クラリッサ様、寝ぐせが経営破綻してます。」
「再生手続き中よ。あと五分で更生計画を提出するわ。」
「提出先は鏡ですけど。」
「自己審査は厳格に行う主義ですの。」
マリベルが苦笑してオーブンを開けました。
香ばしい香りが立ちのぼる。
破産者の朝はパンとともに始まります。
たとえ通帳が凍結されていても、トースターは律儀に温かいのですわ。
◇
開店間もなく、見知らぬ青年が現れました。
灰色のスーツに書類の束。顔は曇天、声は湿度を帯びています。
「こちらが“破産者再生パン店”ですか?」
「正式名称は“パン工房・再生”ですの。頭に“破産者”を付けると顧客心理が崩壊しますわ。」
「なるほど……私は商会倒産者協会の職員です。」
「まあ、そんな協会が?!」
「ええ。倒産者の再就職や生活再建を支援しています。」
「すばらしい。あなた方は社会の縫い目を繕う裁縫師ね。」
「……そんな立派なものでは。」
青年はパンを一口かじり、少し驚いた表情になりました。
「……温かい。」
「当然ですわ。人の心と同じで、冷やしたままでは立ち直れませんもの。」
「あなた、まるで“再生法”そのもののようだ。」
「まあ。褒めてくださるなら、条文より柔らかく焼き上げておきますわ。」
青年は領収書を受け取りながら言いました。
「この味、協会のカフェで売れますよ。出店をご検討ください。」
「官庁の建物にパン屋を? 堅苦しい空気に少しは酵母が必要ですわね。」
「……比喩が上手い。」
「ありがとうございます。比喩はこの店の無料オプションですの。」
「真面目に言ってるんですが。」
「ええ、わたくしも真面目に冗談を言っております。」
◇
昼下がり、セドリックが戻ってきました。
「外回りから戻りました。契約三件、回収率八割。」
「あなたの仕事の成果は、いつも数字で語られるのね。」
「それが職業です。」
「でも、パンの香りの中で“回収率八割”なんて聞くと、どうにも幸福な統計に聞こえますわ。」
「香りのせいで損得感情が鈍るんだ。」
「なら経済会議もパン屋で開くべきね。」
わたくしは帳簿を広げました。
「ねえ、セドリック。ようやく少し分かってまいりましたの。破産って、罪ではありませんわね。」
「ふむ?」
「債務整理とは、“現実と向き合う勇気”。破産法は罰則ではなく再生のルールブックですわ。」
「正解だ。……珍しく真面目だな。」
「真面目は高級品ですの。大切に使いますわ。」
セドリックは笑いました。
「法律に救われる人は多いが、法律を笑いながら理解するのは君が初めてだ。」
「笑わなければ支払いが重すぎますもの。軽口は心の分割払いですわ。」
◇
「今日、王都で噂になってる。“破産した令嬢が経済を語る”と。」
「また見出し? 記者という生き物はパンより膨張が早いのね。」
「庶民には評判がいい。“借金しても立ち上がる女”だと。」
「“借金ヒロイン”……語感が悪いですわね。」
「だが強い。」
「強い女は嫌われる時代、もう終わりかしら。」
「たぶんな。」
「では、新時代の広告文句にしましょう。“負債ゼロより信頼プラス”。」
◇
夕方。
マリベルが店先で子どもたちにパンを手渡しておりました。
「余った分、配っちゃいました!」
「まぁ。商売の基本をわきまえたうえでの慈善活動ですわね。」
「え、無料で配ってるのに商売になるんですか?」
「ええ。笑顔は宣伝、善意は広告、そして“おいしかった”は最強の口コミですの。
未来の利益を先に蒔いておく――それを投資と呼びますわ。」
「なるほど……回収が見えませんけど。」
「信頼という利息は、必ずあとで香り立ちますの。」
セドリックが遠くでその会話を聞き、ぼそりと呟きました。
「信頼、か……それなら、君にはもう黒字が出てるな。」
◇
夜。
帳簿を開けば、数字はいまだ赤い。
けれど胸のどこかで、小さな黒いインクが灯っておりました。
“再生”――その二文字が、静かに増資されていくように感じますの。
「ねえ、セドリック。人も破産して、やり直せるのね。」
「もちろん。制度は人のためにある。」
「ええ。なら、わたくしも人生の再建計画を立てなくては。」
「どんな計画だ。」
「浪費の抑制、信用の再構築、そして――過去への利息返済。」
「恋愛債務の整理は入らないのか。」
「それは無担保債権ですわ。放棄処分で結構。」
セドリックが苦笑し、肩をすくめました。
笑いの中に、静かな温かさがありました。
外では夜風が吹き抜け、看板が小さく揺れます。
“パン工房・再生”――
その下に書かれた一文が、今日だけは誇らしく輝いて見えました。
“破産は終わりではありませんの。法がある限り、人は立ち上がれますのよ。”




