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第2話 パンと赤字と信用の香り

看板に「本日のおすすめ:再生バターロール」と紙を貼ったその帰り道――

わたくしは、冷めたバターロールを抱えて歩いておりました。

王都の財務庁では、王国の財政が“ほぼ破産”状態であると聞かされたばかり。

けれど手の中のパンは、きちんと焼けば増えるし、香りで売れる。

世の中の赤字のうち、最も健全なのはパン屋のそれですわね。


店の扉を開けると、カウンターの向こうでセドリックが帳簿を見つめておりました。

眉間にしわ。空気が粉より重たい。ため息がまるで、焼き損ねたパンの蒸気みたいに漂っております。


「おかえりなさい。売上、出ました。」

「ええ、どうぞ。痛みの少ない順で発表なさって。」

「売上六枚、経費七枚。――一枚、足りません。」

「つまり赤字。数字上は悲劇、見た目は整頓。整いすぎて残酷ですわ。」

「次は黒字で整えてください。」

「あなた、本当に数字が冷たいのね。」

「冷たいのではなく、正確なんです。」

「正確すぎるのも罪ですわ。少しくらい“希望”という誤差を混ぜなさいな。」


そこへマリベルが顔を出す。

「クラリッサ様、その“誤差”で家が傾いたんですよ。」

「まあ、現実的ね。侍女のくせに会計士の目をしてるわ。」

「経理担当ですから。」

「ええい、経理担当がいちばん手ごわい。」



午後。

香りは絶好調、売上は絶不調。

通りがかりの人々は「いい匂い」と褒めてくださるけれど、財布は閉じたまま。

香りは無税、すなわち無料。市場とは実に皮肉な構造ですわね。


「クラリッサ様、どうして売れないのでしょう。」

「“元公爵家のパン屋”という看板が重すぎるのよ。

 庶民は“貴族のパン=高い・固い・説教くさい”と思っているの。」

「説教くさい?」

「ええ、一口ごとに“社会的責任”を噛まされる気分になるそうですわ。」


セドリックが袋詰めを手伝いながら言いました。

「それに“再生パン”という名前は誤解されます。“再利用”だと思う人もいる。」

「うっ……庶民語訳ではそうなるのね。パンの社会的信用に傷がつきますわ。」

「一般消費者は“希望”より“焼きたて”を買います。」

「理念より香ばしさ……人間、実に現金ですわね。」



夜。反省会。

マリベルは真面目にメモを取り、セドリックは淡々と数字を並べる。

「本日、来客数五名。購入者三名。購買率六〇%。小規模店としては健闘です。」

「“健闘”というのは、統計上“誤差の範囲”の婉曲表現ですわ。」

「では、改善策を。再来店率――」

「測定不能ですわね。まだ常連の母数が存在しませんもの。」

「……では私が街で聞き込みします。」

「まるで情報収集に強い債権回収人。嫌いではありませんわ。」


マリベルがペンを置く。

「それにしても、セドリック様。まるで商会の経営者みたいですね。」

「皮肉ですか。」

「褒めてます。顔が冷たくて中身が帳簿ですから。」

「帳簿は裏切らない。」

「まったく、その通りですわ。」



わたくしは帳簿の隅を指でなぞりながら問いました。

「セドリック、なぜ“借金取り”という職を?」

「……倒産した商会の出です。破産者の再建に関わるのが、せめてもの贖罪で。」

「つまり“回収人”ではなく“再建人”なのですわね。」

「呼び名を変えても、仕事の本質は変わりません。」

「いいえ、言葉を変えれば意味が変わりますわ。

 “破産”も、“再生”と呼べば、人は立ち上がれるのですもの。」



翌朝。

「新聞に載ってる!」と子どもが店に駆け込んできました。

見出しにはこうあります。


『元悪役令嬢、破産からの復活経営!――“パンと法で立ち上がる女”』


「……派手に書かれましたわね。」

「宣伝効果は抜群です。」

「“立ち上がる女”って、筋トレ指南みたいですけど。」

「流行れば売れます。」

「炎上したらどうしますの?」

「その火でパンを焼きます。」

「経済論理と危機管理を両立させるとは、やりますわね。」


昼までにパンは完売。

レジに落ちる硬貨の音が、心地よい決算書のように響きます。

「黒字ですわ! ようやく数字が味方いたしましたの!」

「まだ減価償却してません。」

「……せめて夢の中では現金主義でいたいの。」



閉店後。

マリベルが照明を落とし、店は静かになりました。

セドリックがランプの下で帳簿を見ながら言います。

「このペースなら、初期負債の返済見通しも立ちます。」

「つまり、わたくしの再建計画が進行中、ということですわね。」

「破産者としては異例の速さです。」

「破産者は敏腕経営者より動きが早いものですわ。命綱が短いぶん、走るしかありませんもの。」


彼が頷く。

「あなたが笑っている限り、この店は潰れません。」

「笑いは資本。皮肉は利息。女性の経済はいつだって複式簿記ですわ。」



夜気に漂うパンの香り。

破産した女と、元商会人と、ひとりの侍女。

小さな店はもはや“パン工房”ではなく――

小麦と信念で焼かれた信用再建所でしたわ。


明日もまた、赤字と希望をこねて焼くのです。

財務も人生も、焦げなければ再生できますもの。

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