38.騒ぎ(ヴァンス)
私はワイアットの執務室にいた。二人で黙々と山のような書類を裁いていた。
すると突然、切羽詰まった女性の大声とその女性を一喝する騎士のやり取りが聞こえてきた。
「騎士様! オルブライト公爵子息はこちらにいるのですか?」
「おい、お前は誰だ? 不敬だぞ。ここは許可なく立ち入れるところではない!」
「それならここにいるのですね? 不敬でも何でも大事な用があるのです。取り次いでください!」
「約束もなく取り次げぬ。怪しい女だな。取り調べる」
「調べるのはあとにして。それどころじゃないのよ!」
一体何だとワイアットと目を合わせる。
「何の騒ぎだ?」
私は席を立ち扉へ向かう。開けようと手を伸ばせば入り口で警備している近衛騎士が警戒した様子で首を横に振る。まあ、これは正しい対応だ。女性とはいえ不審者を王太子の部屋に入れるわけにはいかない。だが……。
(ワイアットに悪意を持つ者だったら開けるわけにはいかないが、私はこの女性の声に聞き覚えがある。誰だっただろうか?)
「ヴァンス様、いませんかー? セシルが危ないのです! 助けて下さい!」
「ヴァンスさまー! 出てきてください!」
「ヴァンスさまー! 一刻を争うのです!」
「おい! 黙れ!!」
女性を止めようとする騎士の恫喝が聞こえるが、それを上回る女性の叫び声が通路に響いている。
あの声……思い出した。あれはベイリー侯爵子息と結婚した元バートン伯爵令嬢エイダの声だ。エイダは私の中で警戒対象者として認識している。エイダの行動は非常識なものだった。自分が不幸だからといって、人を苦しめることは許されない。でもセシルはエイダを許し仲良くなることを望んだので、ヴァンスもそれを一応は受け入れた。
(それよりもセシルが危ない? どういうことだ?)
ここは王宮で警備の騎士が多くいる。不審者が侵入できるはずもなく、危険があるとは思えない。それでも確かめる必要はある。
私はワイアットに目で扉を開ける許可を求めた。ワイアットが頷いたので騎士に扉を開けるように命じる。
扉を開けるとそこにいたのは、外扉にいる騎士に腕を掴まれたエイダだった。その姿は淑女とは言い難く髪を振り乱し、目がカッと開いてまるで狂人のように見えた。きちんとしていれば可愛らしい容貌なのだろうが見る影もない。
呆気にとられるも、近衛騎士にエイダの腕を解くように伝える。エイダは私を見ると息継ぎすることなく捲し立てた。
「ヴァンス様さっき箱を台車で運んでいる男たちが犬を放ってセシルを襲わせる計画の話をしているのを聞いたのですセシルを助けてください!」
説明は支離滅裂だが必死な様子にセシルが危険に晒されそうだということだけは理解できた。
「とにかく一緒に来てください!」
「分かった」
私は一度振り返ってワイアットに目で合図をし、エイダとともにセシルのもとへ向かう。エイダは走りながらもう一度、掻い摘んで説明をしてくれた。
それによると馬車の故障でアイリーンのお茶会の開始時間に間に合わず別室で待機していた。そうしたら扉の外を男二人がしゃべりながら通った。声が大きかったので聞き耳を立てたら「この犬を通路に放てばセシルという女に襲いかかるらしい」と聞こえた。慌てて部屋を出てあとをつけようとしたが見失い、それなら騎士に頼もうとしたがアイリーンには近衛騎士がいるから心配ないと言われた。騎士はアイリーンを最優先にする。それだとセシルを守ってもらえない。
エイダはその騎士に私に取り次ぎを依頼したが、約束がないのなら駄目だと言われ絶望した。それでなり振り構わず叫びながら私を探していたらしい。
(セシルが言っていた通り、根性があるというか肝が据わっているというか……大胆だな)
「はあ、はあ、ぜえ、ぜえ……私はもう走れそうもないので、ヴァンス様は先に行ってセシルを守ってください!」
「そうさせてもらう。あなたはゆっくり来てくれ」
私はエイダを置いて全力でセシルのもとへ走った。盗み聞きした内容によると庭園から繋がる大通路で犬を放つと言っていたらしい。角を曲がり大通路に出るとセシルの後ろ姿が見えた。と同時に反対側から大きな犬がセシルに向かってまっすぐ走ってくるのが見えた。
(くそっ、間に合わない!)
「止まれ!」
殺気を込めて腹の奥から叫んだ。止められる確信はないが夢中だった。すると犬はその場で止まった。すぐにセシルを抱きしめる。セシルの体は恐怖で震えていた。そういえば子供の頃に犬に追われてそれから怖くなったと言っていた。幼い頃の恐怖体験は大人になってもなかなか解消されない。心の傷になっているのだろう。犬はまだ隙を窺っている。
私は再び「動くな!」と命令した。犬が完全に動きを止めると近くにいた騎士が犬を捕獲した。セシルの様子を見れば怪我はなさそうだ。アイリーンは青ざめた顔をしているが、近衛に守られている。二人の無事を確かめてホッと胸を撫で下ろす。
セシルを見ると潤んだ瞳から涙が零れた。その姿に胸が締め付けられて、涙で濡れたその頬に口付けた。するとアイリーンにいちゃつくなと叱られた。私はいちゃついた覚えはないし、ワイアットもアイリーンにしているから普通なのだろう? そう言うとアイリーンはバツが悪そうに目を逸らした。
疚しいことではないはずだと考えていると、護衛の騎士が私に耳打ちをした。騎士の指し示す方を見るとエディット王女が忌々しそうな顔をしてこちらを睨んでいる。そうか、エディットの仕業か。私は騎士にあの女を捕らえるように命じた。
セシルが私の腕の中でもぞもぞと動くので顔を覗き込む。セシルはきょとんとした顔で首を傾げたのだが、その顔がたまらなく可愛くて思わずおでこに口付けた。セシルは私の腕の中で意識を飛ばし脱力したので慌てて抱きかかえた。
「お兄様、やりすぎです!」
アイリーンが目を吊り上げて怒っている。何がやりすぎなのかわからない。
だが問題があるとしたら、セシルが可愛いのがいけないのだと思う。たぶん……。




