33.豹変した婚約者
私はオルブライト公爵邸の応接間の長ソファーに座っている。
そして目の前のテーブルの上にはストロベリーパイがある。でもそれはただのストロベリーパイではない。すごく美味しいストロベリーパイだ。新鮮ないちごと丁寧に作られた甘さ控えめなジャムが使用され、カスタードクリームがたっぷりと入っている、見た目も飛びきり綺麗な贅沢な一品。しかもパイの横にバニラアイスとミントの葉が添えてある。
見た目通り期待を裏切らない美味しさを私は保証できる。なぜならすでに一皿食べている。そう、これはおかわりした分なのです! ニコニコとフォークを手にするも隣からの強い視線が気になる。
「ヴァンス様。今日はどうして隣に座っているのですか?」
ヴァンスとお茶の時間が取れることになったのは嬉しいが、彼はいつも正面に座るのになぜか今日に限って隣に座っている。しかもとても近い。
ヴァンスは首を傾けながら私をじっと見る。きょとんとした可愛い顔! 会ったばかりの頃のヴァンスは基本無表情で、徐々に笑うようになった。ところがスコットの事件のあとから色々な表情を見せるようになった気がする。それは本来自然なことで嬉しいと思う。
「こちらのほうがセシルに近いからかな」
私の疑問に答えるヴァンスの目には色気が滲む。
(そ、そ、そ、それは私の近くにいたいという意味ですか?)
「……でも、あの、いつもは正面にいるので落ち着かないです」
食べている間もずっと隣から視線を感じていたが、一皿目を食べている時はストロベリーパイに集中していたので気にしていなかった。でも二皿目を食べようとしたら途端に落ち着かなくなった。
「そうか。残念。では移動するか。横顔も可愛いと思って見ていたが、正面も可愛いからどちらでもいいな」
(違う。意味不明。まさかヴァンス様がご乱心に?)
私の混乱をよそにヴァンスは一人納得すると立ち上がり私の正面に移動した。そしてお腹の上で手を組むと私を見て満足げにふわりと笑った。
「…………」
「セシル。私のことは気にせず食べてくれ」
(無理です。美人に見つめられたら冷静じゃいられなくなるのです)
ヴァンスが微笑むだけで部屋の空気がいつもと違う。たぶん三十倍くらい雰囲気が甘い。
これはヴァンスから甘いオーラが出ているせいだ。今日はアイリーンの話題にはなっていないのにどうして? しかもアイリーンの話をする時よりも表情が柔らかく感じる。
わずか数か月で無表情の鉄壁の貴公子が別人レベルの変貌を遂げた。私といる時のヴァンスはずっと微笑んでいる。やっと無表情の美人さんに慣れてきたのに、微笑む美人さんには免疫が薄くて動揺してしまう。
困惑して助けを求めるように後ろに控える侍女を見ると彼女はにこりと頷いた。私の訴えは呆気なく流された。
(これは一体どうすればいいの)
恥ずかしさにどうにも居た堪れなくなったので、部屋の空気を換えようと行動した。私はパイに載っているいちごにフォークを刺すとヴァンスの口元に向けた。
「ヴァンス様。あーん!」
これはレックスがお母様に怒られて落ち込んでいる時にしてあげている。小さい時は喜んでいたが最近は「姉上、僕はもう子供ではありません!」と抗議をするようになった。きっとヴァンスも子ども扱いされたと嫌がるはず。怒らせるのは本意ではないが、この甘い空気から脱せられる。免疫のない女にこの状況は酸欠になりそうで手段を選んでいられない。活路を見出したと自画自賛気味に行動した。
ところがヴァンスは顔を背けると思ったのに、そのまま口を開けてぱくりと食べた。
「いちごはそれほど好きじゃなかったが、セシルに食べさせてもらうと美味いな」
咀嚼しながらとんでもない発言をする。
「っ!!」
狙っていたものと違う反応に自らの失敗を悟る。むしろ甘さが増した。顔がみるみる間に赤くなる。後ろの侍女が「いいですね!」とばかりに大きく頷いた。
違うんです! そんなつもりじゃなかったんです! と叫びたいが、恥ずかしくて声も出せない。私は諦めて現実逃避をするようにストロベリーパイだけを見つめて食べ続けた。正面から注がれる視線はないものとした。
ヴァンスはもともと優しかった。誠実さに惹かれ好きだと自覚したが、この想いはまだ伝えていない。きっかけがないと告白できない。
ヴァンスはスコットと相対した時に『私の愛する婚約者に触れるな!』と言った。
(毎晩頭の中で再生して堪能している)
その場しのぎを言う人ではないから本心だと思う。それなら私を好きになってくれたと受け止めていいのだろうか? 面と向かって告白されてはいないので、本心ではない可能性も残っている。だから現在モヤモヤ中。それなら自分から告白すればいいのに、勇気が出ない。それに告白しなくても結婚して夫婦になることが確定しているのならわざわざ聞かなくてもいい。そうです、私は臆病者で逃げています。
私は無事にストロベリーパイを食べ終わるとナプキンで口元を拭った。勇気を出して顔を上げるとヴァンスと目が合った。ドキリとしたが動揺を誤魔化すように口早に話を振った。
「ヴァンス様。私最近エイダと文通をしているのですが、ベイリー侯爵子息と上手くいっているようなのです。厳しくするのをやめて、誉めて誉めてその後は『頼れる人』と甘えているみたいなのです。そうすると張り切ってやる気を出すそうですよ」
扱いやすいと言うか単純というか……。ベイリー侯爵は今度こそスコットを鍛えなおすと相当厳しくしている。侯爵夫人は涙を呑んで庇うのを我慢しているそうだ。
そこでエイダの出番! スコットが落ち込んだら『スコットがいてくれると心強いわ。私スコットがいないと生きていけないの!』と過剰な演技をするとたいそう機嫌が良くなるらしい。さらには飽きそうなタイミングで休憩を入れ気分転換を忘れない。
手紙を読んで『なるほど、ちょろいな』と思うがスコットは自尊心をくすぐると効果があるらしい。エイダはすごいなと思う。これ子守りに近いわよね? 私にはできないし、しなかった。私がしたのはスコットをフォローすることだけ。文面でエイダが楽しそうに過ごしていることがわかりホッとした。
「それはそうだ。好きな女性に頼られたり甘えられたりすれば、男は単純だから張り切る。アイリーンはいつもワイアットをそうやって操っているぞ?」
「えっ? 殿下も、ですか?」
男性はいつまで経っても童心を忘れないというが、私から見てワイアット殿下やヴァンスはしっかりしている大人のイメージなので意外だった。
「ワイアットは立場上心を許せる人間が限られる。だからアイリーンに甘えているのだろう。もちろん普段は王太子らしく威厳を持って行動している。ただ心の脆い部分はアイリーンに預けているのだろう」
「信頼し合っているのですね」
頷きながらティーカップに手を伸ばす。
二人は幼い頃からの付き合いで歴史がある。だからこその関係性なのだ。ちょっと羨ましい。私とヴァンスがその域まで到達するのにどのくらいの年数がかかるのか……なれたらいいな。
「私もセシルに甘えてもらえれば、いくらでも張り切るぞ?」
「っ!! ケホッ」
ヴァンスは黒髪をさらりと揺らし甘く微笑む。危うく口に含んだお茶をヴァンスの顔目がけて放つところだった。無理やり飲み込んだら鼻の奥が痛くなった。
「大丈夫か?」
「は……はい」
何とか婚約者の目の前で鼻からお茶を出す失態を回避できた。淑女として終わるところだった――。
「あの、ヴァンス様も私に頼られたいのですか?」
ヴァンスは大きく頷いて肯定する。
「もちろん好きな女性に頼られたいと思うのは男なら当然だ」
「……す、好き、ですか? 私を?」
ずっと聞きたくて、でも聞けなかったことを、ヴァンスはあっさりと口にした。




