12.恋についての考察
屋敷に戻りヴァンスへ贈る万年筆の入った箱をしまうと、私はソファーに座りぼんやりと昔を思い出していた。
幼い頃、エイダは利発で思いついたらすぐに行動する子供だった。あれはどこのお屋敷だったかしら? そうだ。亡くなったお祖母様のお屋敷だった。大人たちのお茶会のところにいても子供には退屈だった。私はエイダとお庭を探検することにした。
小さな私たちに大人も使用人もおおらかに接してくれていたので、屋敷内を自由に行動していた。庭を散歩していたら頭上からみゃーみゃーと小さな声が聞こえてきた。見上げると木の上から降りられなくなった子猫が枝にしがみついていた。
私は大人を呼びに行こうとしたけれど、エイダはすぐさま靴を脱いで木をよじ登り始めた。
『エイダ、危ないよ!』
『平気!』
エイダが落ちたらと思うと心配でその場を離れられず、ハラハラとエイダを見守っていた。ところが私の気持ちなどお構いなしにエイダは飄々としていた。
いとも簡単に登りきると仔猫をポケットに入れ華麗に木から降りてきた。
二人とも使用人にドレスを汚さないようにと可愛らしいポケット付きのエプロンを着せてもらっていたのでちょうどよかったのだ。エイダは仔猫を庭にそっと放すと、仔猫はにゃーとひと鳴きして寝ころんだ。
『エイダが落ちて怪我をしたら大変なのに、大人を呼んで来るまでどうして待ってくれないの!』
『だって早く助けてあげたかったの』
『もう!』
私がぷりぷり怒っているとエイダがしゅんとして俯いた。
『ごめんね』
それが可哀想に思えて許したんだった。
『今度は危ないことしないでね』
私は許す意味も込めて人差し指を立てて、お説教口調でそう言うとエイダは笑顔になって私に抱き着いた。
『心配してくれてありがとう。セシル、大好き!』
『私もエイダが大好き!』
そのあと二人で仔猫と遊んだ。
今回の婚約解消でエイダに腹が立っていたけれど、エイダとの想い出が蘇るとどうしても憎めない。疎遠になる前は間違いなく私たちは友人だった。だからさっきは何も考えずに助けたくて行動した。しゅんとしたエイダの姿が幼い頃の姿に重なる。
(私、エイダに対して腹は立っても憎めない。でもスコットは絶対に許さないけどね)
スコットには毎日足の小指をぶつけて(しかも両足)苦しんでほしいと思っている。
そういえばスコットに対して気持ちが冷めてからわかったけど、私はそもそもスコットに恋をしていなかったと思う。
スコットに告白されたことで舞い上がり、自分もスコットを好きだと思い込んでいた。それにクラスメイトの男子たちのように、私を貶めたりしなかったことで信頼してしまった。
そもそも恋って何? どんな症状がでれば自覚するの? 小説ではドキドキするとか、きゅんとするとか書いてあるけれどピンとこない。
思い返せばスコットにドキドキとかきゅんとしたことはない。スコットのサポートをしてお礼を言われることで満足というか幸せを感じていた。それを恋だと思っていたのかもしれない。
それならヴァンスに対して私は今、どんな気持ちを抱いているのだろう?
好きか嫌いかと問われればもちろん好き。優しくて誠実で嘘がない。シスコンを隠さないところも好感を抱いている。だけど恋をしているかと問われれば、否だと思う。
確かにヴァンスといてドキドキしたりきゅんとしたりすることはある。だけどこのドキドキやきゅんは恋からくるものではないと断言できる。
だってヴァンスはこの世のものとは思えないほどの美貌を持っているから。
ヴァンスの不意打ちの笑顔を見れば老若男女、すべての人がドキドキしてきゅんとなるはず。その定義ならみんながヴァンスに恋をしていることになっちゃう。
結局、恋がどんなものなのかわからない。
(まあ、いいか。恋をしていなくてもお互いを大切にできれば、結婚生活は上手くいく。それこそが私が目指す幸せ……よね?)
少なくともスコットと結婚するより、百万倍は幸せになれる。
そういえばヒース伯爵夫人が私とエイダとの間に噂があるようなことを言っていた。仲がいいとか円満な婚約解消とはどういうことなのか。事実無根だから意図的に流されたものだ。発信元を調べるべきか悩んだけれど、情報に聡いお父様やお母様が何も言わないのなら、知らなくても大丈夫なのだろう。
私は考えるのをやめて引き出しから計算問題集を取り出した。そして気分転換に趣味の計算に没頭したのだった。
♢♢♢
今日は一日ヴァンスがお休みの日ということで、勉強はなしでオルブライト公爵家にお邪魔している。せっかくなのでヴァンスから贈られた淡いレモン色のドレスを着てきた。洗練された素敵なデザインで密かに着るのが楽しみだった。
客間では私の向かいのソファーにローマンとフローレンスが、そして私の隣にヴァンスが座っている。実のところ私はヴァンスと二人きりよりも公爵ご夫妻が一緒のほうが落ちつく。本来なら美人三人に囲まれるほうが緊張が増しそうだが、公爵夫妻とは完全に打ち解けたので大丈夫。慣れってすごい。むしろヴァンスの存在にまだ慣れていない。
ローマンが柔らかい表情で悪戯っぽく言った。
「セシルさん。ヴァンスは女性に対して気が利かないところがある。もし不満があったら我慢しないで言いなさい。ヴァンスに言えなければ私たちに言ってくれてもいいぞ」
ヴァンスはそれに同意するように深く頷いた。
「そうよ。どちらか一方だけが我慢するようでは、夫婦生活は続けていけないの。だからセシルさんはヴァンスと何でも言える関係になってほしいわ」
ヴァンスは再び深く頷いている。基本無口なのよね。
「ヴァンスは頷いていないで何かいいなさい!」
ヴァンスはフローレンスに叱られると、無表情のまま背筋を伸ばし私をじっと見た。
「セシル。私に遠慮は無用だ」
「えっと、はい。ありがとうございます」
美形に見つめられるとどうしても心臓がドキドキする。このままだと寿命が縮みそう。早く慣れないと長生きができない!
「アイリーンもセシルさんに会いたがっていたのよ。時間が取れずにきちんと挨拶もできなくて申し訳ないと謝っていたの。ごめんなさいね」
「いえ、私は大丈夫です。アイリーン様はすでに王家の公務に参加されているのですもの。お忙しいのは仕方がないことです。気長にお会いできる日をお待ちしていますね」
「そう言ってもらえると助かるわ。さて、私たちはそろそろ外しましょう。ヴァンス、しっかりとセシルさんをもてなしなさい!」
「わかっている……」
フローレンスの一喝にヴァンスがムッとしながら返事をした。その姿が子供っぽくて思わず笑ってしまった。
部屋に取り残されて二人だけになると何を話せばいいのかわからない。すると侍女が気を利かせてお茶を取り替えてケーキを出してくれた。私は思わず目を輝かせた。目の前にはイチゴのケーキ。新雪のような純白のホイップクリープがたっぷりとスポンジを覆い、その上には珍しい白イチゴがたくさん載っている。
「美味しそう!」
豪華なケーキを見て声が弾んでしまう。
「料理長がセシルを喜ばせようとはりきって用意したものだ」
「私のために? 嬉しいです。では遠慮なく、いただきます!」
美味しいものを前にすると不思議と緊張が解ける。私はフォークを取り一口分を切ると口に運ぶ。イチゴが甘くて柔らかい。
「んん! 美味しいです」
ヴァンスはお茶を飲みながら私が食べるのを見ている。無表情なのに、どことなく顔が綻んで見えるのは気のせいかしら? そういえばヴァンスがケーキを食べているところを見たことがなかった。ヴァンスの前にはお茶しか置かれていない。
「ヴァンス様は甘いものが苦手ですか?」
「あまり食べないな。甘いものよりワインの方が好きだ」
「そうなのですね。でも私だけ食べていては申し訳ないです」
「そんなことは気にするな。私はセシルが美味しそうに食べているのを見られて楽しいぞ」
ひえっ! もしかして大口を開けてかぶりついているところを観察されていた?
「それは……あまり見られていると落ち着きません」
「そうか。それもそうだな。すまない」
恥ずかしくて言ったのだが、ヴァンスは真剣に謝る。でも落ち着かないのは本当だ。
私はケーキを食べ終わるとヴァンスに大切なことを伝えていなかったことを思い出した。
「ヴァンス様。先日はドレスとアクセサリーをありがとうございました。どれも素敵なものばかりで嬉しかったです」
もちろん手紙でお礼は伝えてあるが、直接言いたかったのだ。
「気に入ってもらえただろうか?」
「はい。身に着けるのがもったいないくらいです」
「いや、せっかくだから着けてくれ。今日のドレスもよく似合っている。セシルは何を着てもよく似合う。それはセシルに魅力があるからだろうな」
ヴァンスから誉め殺し攻撃が繰り出された! 私は心の中で盾を取り出し防御した!
(危うく致命傷を負うところだったわ。ふう~)
これは社交辞令なので真に受けてはいけないと、調子に乗りそうな自分の心を諫めた。
「あ、ありがとうございます」
ヴァンスはふっと口元を綻ばせた。それはとても優しい顔。アイリーンの話をする時よりももっと優しく見えて、胸がきゅっとなった。
「実はあのドレスのデザインをしたのはアイリーンのお気に入りのデザイナーなのだ。若いがセンスが良い。工房のデザイン見習いを抜擢して専属にした。アイリーンは才能のある人間を見出す能力があるのだ。結婚後、アイリーンは王家専属のデザイナーに世話になるから、セシルが嫌でなければこれからも頼みたいと思っている。どうだろうか?」
後ろに控える侍女が残念そうに眉を下げた。たぶん婚約者の前で妹を絶賛したからだろう。でも私はヴァンスがアイリーンの話をするほうが安心する。それでこそシスコンである。
「ぜひお願いします。アイリーン様が見出した方なら信頼できますし、今度はお会いしてデザインを見せてもらえると嬉しいです」
「ああ、そうしよう」
ヴァンスが嬉しそうに微笑んだ。笑顔が眩しい。でも私はその眩しさに目を細めなくても大丈夫なくらいの耐性をつけた。ヴァンスに慣れてきた証拠だと思うとちょっと嬉しい。
それにしてもヴァンスはアイリーンのことになると饒舌になる。しかも表情が柔らかくなり『鉄壁の貴公子』には見えない。ヴァンスにとってアイリーンはそれだけ自慢の妹なのだ。私は少しだけ対抗心が湧いた。だって我が家にも自慢の弟がいるのですもの!
「ヴァンス様。実は私の弟のレックスもすごくセンスがいいのです。私がドレスに合わせるアクセサリーや靴を選ぶのに悩んでいると、的確にアドバイスをしてくれるのです。レックスはいつも『僕が姉上のことを一番知っています。お任せください』って張り切ってくれるのです!」
「ほう。それなら今度教授してもらわないと。よい弟だな」
「はい! 大切な自慢の弟です」
私は胸を張って力強く自慢した。ヴァンスがアイリーンの話をする時はきっと今の私と同じ気持ちだと思う。
ふと目に入った後ろに控える侍女の口元が、「どっちもどっち」と呟いたように見えた。どういう意味だろう? 私は心の中で首を捻った。
ヴァンスは少し考えると言った。
「セシルはこのあと、予定はあるか?」
「いえ。ヴァンス様のお仕事が一日お休みだと聞いていたので、予定を空けておきました」
「それならこれからレックスに会いに行こう。本当はもっと早く会いに行くべきだったのに、仕事を理由に遅くなってしまっていた。実はずっと気になっていたのだ」
きっとレックスは喜ぶ。私宛にヴァンスからの贈り物が届くたびに、ヴァンスの趣味がいいと絶賛していた。レックスの中でヴァンスの好感度は高い。
「私はかまいませんが、ヴァンス様はお疲れではないのですか?」
「大丈夫だ」
「ではお願いします」
せっかくの休みだから屋敷でゆっくりしてほしいけれど、レックスにも会ってほしい。申し訳ないと思いながら甘えさせてもらうことにした。




