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屍食鬼 Ⅸ




 胴から斬り飛ばされた巨人の首が、ゴロゴロと回転しながら地を転げる。

 頭部を失った身体が力無く傾き、地響きを立てて倒れ込む。一拍遅れて切断面から勢いよく黒ずんだ血が噴き出した。

 水棲巨人(スヨトロール)の討伐――即ち、生態系暴走(スタンピード)を引き起こした原因の排除に成功したということなのだが、イオにとってそれは二の次、三の次だ。

 彼女にとって最も重要なこと、それは――。


「はぁ……正直、詰みの要素が多すぎると思ったけど……なんとかなるものねぇ」

先生(ねえさん)!」


 自身の家族が、師が、こうして無事であったということである。

 柄が折れて繊維の飛び出した木槍を放り捨て、くたびれた様子でその場に尻もちをついた女性に、少女は飛びついた。


「うわっぷ、ちょ……イオ? イオニーナ? 落ち着きなさい」


 殆どぶつかるように懐へと飛び込んで来たイオを、上体を傾けながらもエルシェルはしっかりと受け止める。


 半月近く会えなかった師、エルシェルはひどくボロボロだ。

 全身あちこちが泥や木屑で汚れ、異常な環境下の森で長期過ごしたせいか、美しい(ヘーゼル)の髪もくすんでしまっている。

 格好も中々に酷い。身に着けていた革鎧は巨人の食糧である肉玉に練り込まれていたので、当然まともな防具は無し――どころか装備の下に着ている衣服もあちこちが裂け、背や腹部、大腿部などは生地ごと無くなっていて、服というより殆どボロ布と大差無い。

 関節や剥き出しになった肌の保護の為か、四肢の大きく露出しまっている部分にはあちこち布や包帯が巻かれていた。左の二の腕に至っては、巻いた包帯に痛々しい赤が滲んでいる。


 だが、生きている。

 大きな怪我もなく、今もこうしてイオを抱き留めてくれている。


「う"う"う"ぅ~っ、ね、先生(ねえさん)、よ、良がったよ"ぉ……!」

「あぁ、もう……」


 感極まったのか、鼻の頭を赤くして涙声になりつつある弟子を見て、師は眉根を寄せて困ったように微笑んだ。

 腕の中にある少女の頭に掌を乗せ、その赤毛を優しく手で梳く。


「言いつけを破って森のこんな奥まで来たこと、叱ってやろうと思ってたのにね……お説教の前からベソをかくんじゃないの」

「う"~~っ"……」


 鼻を啜りながらぎゅぅっと抱き着くイオを、目を細めて抱き締め返してやるエルシェル。


 暖かな師弟の抱擁を横目に、水棲巨人(スヨトロール)を断首した張本人――カージスは斧槍(ハルバード)の連結部分を捻り、再び斧と棍に分離させて其々の鞘に納め直す。

 そのまま地に転がった首のもとまで歩み寄ると、しゃがみ込んで尖った耳にナイフを当てて切り落とした。


 特別な討伐対象である魔獣は、小型や一部の中型の場合、首を討伐証明とするものが多い。

 だが、水棲巨人(スヨトロール)ほどの大型だと首を持ち帰るだけで大仕事だ。ただでさえ荷車必須のサイズ、生息地が人里離れた山中や森奥だということも加味すれば不可能に近い。

 故に大型の特別討伐対象は、こうした種族特性が強く出た部位を切り取って討伐証明とするのである。


 確実に殺し切った、という証明が楽な部位ほど討伐報酬の支払いが早い。

 耳や指だけでは組合(ギルド)の調査員が現地で死体を確認してから、というパターンが殆どなので、エルシェルの野営地に大振りな瓶があるなら譲ってもらい、有効部位の一つでも詰めて持って帰りたいところであった。


 一先ずの作業を終え、立ち上がる。

 振り向いて、傭兵は自身が探す予定であった冒険者としっかり視線を合わせた。


「さて、その様子だと今更確認するまでも無いんだろうが……三級冒険者のエルシェルだな?」

「えぇ、始めまして……貴方は村長かポリー辺りが雇った御同業、でいいの?」

同業他社(傭兵)の方だ。組合(ギルド)で塩漬けにされかけていた面倒な依頼を請ける羽目になった間抜けさ」


 肩を竦めて自身を皮肉るその言に、師の腕の中で鼻を啜っていたイオはようやっと同行者である男の存在を思い出したようだ。

 慌てて目元や頬を濡らす涙と鼻水を服の袖で拭うと、さも「別にアタシ泣いてませんけど?」と言わんばかりの態度で立ち上がる。当然ながら無理があり過ぎるので師は微笑みを苦笑に変え、当の傭兵は生温い視線で少女を眺めていた。


「……どうよ、傭兵! 先生(ねえさん)は無事だったわ、アンタの大層なご意見は大外れだったわね!」

「まぁ、それに関しちゃその通りだな」


 いっそ可哀想な位に話題変換が露骨であるが、幼子のように泣きじゃくった少女の照れ隠しを指摘しない程度には、大人二人には情けがあった。

 ふふん、と鼻を鳴らして自身の師を自慢げに指さす少女。

 さぁ、この結果を見てみろと、そのドヤ顔はこれ以上無く告げている。

『捜索対象が生きてたら、予想を外したってことで笑うでも詰るでも好きにしろ』と言ったのは事実なので、素直にその微妙に腹の立つ表情と台詞を受け入れたカージスだが……目線は上方、陽の落ちかけた空へと向けられた。


「……? なによ、その表情(カオ)は。先生(ねえさん)は無事だったじゃない、ちゃーんと自分の判断が間違ってたって事実を目に焼き付けなさいよ」

「否定はしないと言ってるだろうが……単純に、本当に見ても良いのか? って話なんだが」

「……うん?」


 その言葉に、イオはキョトンとした顔となった。

 小首を傾げ、内容を反芻して。


「――――ッ!」


 きっかり二秒後に何かに気付いた顔となり、ババッと音が鳴りそうな凄まじい勢いで背後の師へと振り返る。

 そう、先程も安否の確認も兼ね、全身の状態を見て取ったエルシェルであるが……現在の彼女は襤褸同然の布切れを無理に服として着ているようなものだ。

 ぶっちゃけ、かなり際どい格好なのである。胸部などこれ以上破れたらこぼれ落ちそうであり、腰回りに至っては残る布面積のせいで半分出ているようなものだった。

 革長靴(ブーツ)だけは無事なようでそのまま履いているが、露出を隠すという面ではあまり意味が無い。単純な見た目では、寧ろ倒錯的にすら見える。


「イヤあああああぁぁっ!?」


 特に身体を隠すこともなく座り込んでいる師に代わり、イオは悲鳴を上げた。

 再びエルシェルに飛びつき、今度は手を広げて彼女をカージスから遮るようにその身を盾とする。


「変態! 覗き魔! 眼を閉じろ馬鹿傭兵ぃぃっ!!」

「アホか、だからこうして上を向いてるだろうに」

先生(ねえさん)もどうして気にしないのよぉっ!? 普段は男相手に絶対見せたりしないでしょ!?」

「いや、流石に非常時だったしねぇ……今は、なんかもう単純に気が抜けて隠す気力も無いわ、あはは」

「もぉぉぉぉっ! とにかく立って、その体勢だと色々見えちゃうから!」


 日が暮れて徐々に夕闇が迫りつつある森の中、あっけらかんとした師の答えに対して少女が再び甲高い叫び声を上げる。

 水棲巨人(スヨトロール)の棲み処である湖には他の動物が一切寄り付かないとはいえ、極めて不安定な環境にある森での三者三様喜劇じみたやり取りは、中々に間抜けな光景であった。

 放っておけばそのまま大の字にひっくり返りそうな師匠(エルシェル)の手を引っ張り、必死に立たせようとするイオ。その間にもこの場に居る唯一の男へと文句が飛ぶ。

 そんな彼女の相手が面倒くさくなったのか、雑に返答しながら背を向けて腰の角灯(ランタン)へと火を灯し始めるカージス。

 必死な弟子に引っ張り起こされ、ゆっくりと立ち上がったエルシェルは、二人のやり取りを暫し眺め……面白いものを見た、といった顔で片眉を跳ね上げ、笑って見せる。


「とりあえず、一番近くの野営地に戻りましょ? 今日はゆっくり休んで……後の事はそれからにしたいわ」







 捜索対象であったエルシェルを加え、三人となった一行は湖にほど近い野営地へと戻った。

 時刻は既に夜。すっかり暗闇の帳が下りた森は、静かな静寂に包まれている。

 森全体から漂っていた張り詰めた空気が緩和されたのは、おそらく気のせいではないだろう。その原因であった暴食の主たる水棲巨人(スヨトロール)が死んだことで、幾らかでもこの地に住まう動物達にも平穏が戻ったということだ。

 それでも巨人の問題から派生した屍喰(グール)の一件が残っているので、完全解決とは言い難い。

 主な原因を討伐したことで宙ぶらりんの形となった生態系暴走(スタンピード)がどうなるのか、引き続き調査を続ける必要があった。


 夜も更けた森の中、明々と燃える焚火の前に座り込んだカージスは無言で薪を炎の中へと放り込む。


 ちなみに女性陣二人は既にテントの中で眠りの中だ。

 生態系暴走(スタンピード)直前の不安定な森で生き延びていたエルシェルにも疲労が蓄積しているようだが、それ以上に疲労困憊なのはイオだった。

 今回の仕事は見習いが体験するには酷に過ぎる状況なので、それも当然だろう。

 巨大な魔獣と遭遇して生き延びた興奮、師が見つかった喜びとそこからの喧しいやり取り。

 それらによって一時的に疲れを忘れていた様子だったが、それも野営地に辿り着いた辺りで限界を迎えていたと思われる。

 カージスが熾した焚火の前に(エルシェル)と並んで座り、今回依頼に同行した経緯などを存分に語っていた少女だが、スープを腹に入れたあたりで睡魔に負け、瞼を半分閉じながら船を漕ぎだしたのだ。

 苦笑したエルシェルに抱き上げられ、そのまま二人でテントに向かって早めの就寝といった形である。

 成り行きで見張り番を請け負う形になったカージスだが、元よりそのつもりだったので問題は無い。

 単純に、彼にはまだ余力がある。彼にとってあの水棲巨人(スヨトロール)は面倒ではあったが、それでも心身を削る強敵という程でもない。


 多少の弱体化があったとはいえ、一級相当の魔獣を相手に二級傭兵がこの認識なのは異様だ。

 だが、同行者である少女は見習い故の知識不足。おまけに傭兵と巨人、両者共に隔絶した力の差があるため、その異様を正しく理解出来ない。

 当然、カージスが振るった変形機構を有した魔装の武器についてもだ。故に、あの場で躊躇なく使う事を選択した――筈だった。


 パチン、と。焚べられた木が大きく音を立てる。

 明日からの予定と、現状残ったままの問題や疑問・疑念を脳内で巡らせて整理し、自然と呟きが漏れた。


「さて、どうするか」

「何が、と聞いてもいい?」


 薪代わりの小枝をへし折りながらの独白は、背後からの声によって拾い上げられ、投げ返される。

 気配は既に察していた。特に驚くこともなく、ゆっくりと振り返る。


「どうも。隣、座っても?」


 問いながら小首を傾げるエルシェルに、傭兵は軽く肩を竦めて無言の了承を示した。







 穏やかに燃えて夜を照らす焚火を前に、エルシェルは椅子替わりの切り出された丸太へと腰掛ける。

 そのまま軽く伸びをした彼女は、自身が羽織った外套の裾を摘まみ上げ、持ち上げた。


「今更だけどこの円套(マント)、ありがとう」

「気にするな。というか渡さないとあんたの弟子が煩い」

「あはは……あの娘が色々と迷惑をかけたみたいで……ごめんね?」


 気まずさと申し訳無さが均等に混ぜ込まれた謝罪に、再び気にするな、と告げる傭兵。


「そもそも俺も瓶を譲ってもらったからな……コイツが追加報酬に化けると思えば、交換価値(レート)としては悪くない」

「そっか……その瓶、ちょっと古いんだけど、きちんと保存できてる?」

「あぁ、罅や蓋ずれも無い」


 足元にある、布で丁寧に保護された大型の瓶を軽く叩いてみせた彼を見て、エルシェルも安心したように頬を緩める。

 野営地に戻った後、テント内にあった瓶を譲り受けて再び湖へと戻ったカージスは、しっかりと水棲巨人(スヨトロール)の討伐証明部位を瓶詰にしてきた。

 これならば依頼完了後、速やかに組合(ギルド)から討伐報酬も支払われるだろう。彼の残った休暇は、実に懐が潤った日々となる訳だ。


 一旦会話が途切れ、なんとなく無言となった二人は黙して薪が燃え上がる様を見つめ続ける。


 沈黙が苦になったという訳でもないが、カージスは視線を右へとずらし、隣に座る女の横顔を観察した。

 年齢的には彼と同年代か、少し下……二十代前半から半ば程度だろうか?

 イオもそうだったが、エルシェルの方も中々に見目が良い。

 血の繋がりは無いという話だったが、二人はどこか似通った顔立ちだ。

 髪色こそ違うが、瞳の色は共に青。並んで姉妹だとでも言えば、信じる者は多いだろう。

 羽織った外套からのびる手足は、よく鍛えられてスラリと長い。

 総じて弟子と同じく、最辺境の村の住人とは思えない程の美人であった。


 だが、この際外見は重要ではない。特筆すべきは冒険者――斥候職としての能力だろう。

 水棲巨人(スヨトロール)――彼女にとって格上の魔獣と遭遇、戦闘するも、生存。

 戦闘で装備をほぼ全て失い、それでも森に留まり続け、その上で大した怪我もしていない。

 同じ状況で生き残れる三級冒険者が、どれだけいることか。


「……顔に何かついてる? 野営地に来る前に、あの湖で水浴びでもすべきだったかも」

「いや、単によく生きてたもんだ、と思ってな」


 状況が落ち着いた現在では、今の自分の身形には流石に思う処があるのか。

 少々恥ずかし気に笑うエルシェルに対し、カージスは特に表情を変える事無く思う事を伝えた。

 その言葉に対し、彼女は少しだけ目を見開き、少しだけ笑って。


「まぁ、必死だったから」


 隣の傭兵に倣って薪代わりの小枝を折り、焚火に放り込みながら言葉を続ける。


「村に帰ったところであのデカブツに有効な武器なんてないし、生態系暴走(スタンピード)っていう時間制限まである。留まってなんとかするしかない、そう思ったの」


 日数的には過去に森に泊まり込んだ期間と然して変わらないのだろうが……今回の一件、彼女からすれば悪い意味で濃密な時間だったのだろう。

 最近の記憶を振り返り、しみじみと語る口調には穏やかながらも苦々しさが滲んでいる。


「最初にカチあったときに装備は殆ど失くしたから、木で弓や槍、罠なんかを作って……あぁ、毒には苦労したわ。普段なら扱いが難しくて危険度も高いから手を付けない素材も集めて、専用の器具も無い野営地で調合して……」


 無意識の動作なのか、エルシェルの脚部が丸太の上で組み替えられる。

 焚火の灯りに照らされた脚が奇妙な程に白く、艶めかしく夜闇に浮かぶが、話す方も聞く方もそれには一切頓着せず、独白は続けられた。


 根付きの冒険者としての知識、経験。それらを全て駆使し、準備を整え、計画を練り。

 それでも、水棲巨人(スヨトロール)を倒せる可能性など一割にも満たなかった。

 酷な話だが、それも当然だろう。再三言うようだが、あの巨人の本来の討伐難度は一級相当である。三級冒険者が木製の間に合わせの武器で挑むなど、自殺と大差無い。


 けれど、エルシェルに諦めて逃げ出す、という選択肢は無かった。


 無理でもなんでも、やらなければならない。

 今から逃げても生態系暴走(スタンピード)が起きれば自分は勿論のこと、イオや村長が暮らす村も滅ぶ。その先にある街にまで被害が及ぶ。

 悲壮な決意で、勝ち目など無い筈の戦いに挑もうとしていたのだが――。


「誘い込む予定だった場所で罠作りに励んでたら……アレの悲鳴みたいな声が聞こえるんだもの。何事かと思った」


 彼女は一転して軽い口調になると、笑いの波を堪える様な表情となる。

 森の動物達や魔獣が一斉に声の発生源――咆哮が頻発する巨人の棲み処から離れようと移動を始めるなか。

 ただ一人逆走して湖へと駆けたエルシェルが見たのが、両腕を斬り飛ばされた巨人と、それに弓を向けるイオだったという。


「アレには驚いたわよ……ねぇ、その武器、魔装処理されてるんでしょ? 実物を見たのは初めて」


 そう言うエルシェルの視線は、傭兵の傍に立て掛けられた手斧と鋼棍に向けられている。

 興味深そうに身を乗り出して得物を見つめて来る青い瞳に、彼は露骨に渋面を作って返した。


「企業秘密だ」

「あら、何かワケありだった? 確かに、分離して別の武器になる魔装の武具なんて聞いた事ないものね」


 やはり見られていたか、という嫌そうな態度を隠そうともしない男に対し、申し訳なさそうにしながらもエルシェルは手斧から視線を外そうとしない。

 やはり冒険者、という事だろう。希少(レア)な武具となると興味が尽きないらしい。

 ますます瞳を輝かせ、ぐいぐいと身を寄せて斧と棍を間近で見ようとする。


「恩人のことを言いふらしたりしないってば。だからちょーっとだけ見せてくれないかなー?」

「秘密だと言ってるだろうが。というか近いわ」


 傭兵の身体を挟んで反対側の位置にある彼の武器へと、更に顔を近付けようとするエルシェル。

 必然、二人は密着するような距離となるため、色々と柔らかな感触が当たる。

 男ならば鼻の下が伸びそうな状況ではあるが、カージスは渋面を崩さずに頑として女冒険者を押し退けた。

 が、悪ノリでも始めたのか、エルシェルは楽しそうに更に身を寄せて来る。


「ふははー、良いではないか良いではないかー」

「しつけぇ……というか、辺境暮らしなのにそのネタ何処から拾って来た?」

「街にっ、いた頃にっ、知り合いにっ、ねっ――――あっ」


 肩を掴んで突き放そうとする掌に抵抗し、腰を半ば浮かせて脚に力を入れてにじり寄っていたせいか。

 エルシェルの革長靴(ブーツ)の底がジャリッと音をたてて滑り、勢いよくカージスに向けて倒れ込む。

 咄嗟に受け止める――なんて真似はせずに、普通に身を翻して避けようとした傭兵だが、お返しとばかりに肩を掴まれたことで動けず、そのまま二人は縺れあって地面へと倒れ込んだ。


「あははっ。私の勝ち、なんちゃって」

「何の勝負だよ、まったく……」


 馬乗りの体勢となった側から、下敷きになった者への謎の勝利宣言である。

 多少は打ち解けたが、基本『馬鹿傭兵』に対して塩対応な弟子(イオ)と違い、師匠の方は随分と人懐っこい態度であった。

 子供のような笑顔と台詞に溜息で応じたカージスは、そのまま身を起こそうとする。


 ――そこで再び肩を押され、地べたに押し付けられた。


「おい、何のつもりだ」


 樹々で出来た緑の天井を背に、自身を見下ろしてくる女に向け、再び渋面を作って抗議する。


「なんのつもりだと思う?」

謎かけ(リドル)を楽しむ気分じゃないんだがな」

「恩人だって、そう言ったでしょ」


 いつの間にか、エルシェルの顔から笑みは消えていた。


「私は、私にやれることは全部やった。けど、巨人(アレ)に勝てるとは思ってなかった」


 真剣な声色と共に真っ直ぐに見つめて来る青い瞳は、吸い込まれそうな光を放っている。


「あの娘……イオニーナにも、もう会えない。昔の私と同じ、あの村で弾かれた存在だったあの娘の手を引いてあげる事は、もう出来ない、そう思ってた」


 肩を抑えつけていた手はいつの間にか離され、その両掌はそっと傭兵の頬に触れ。


「挑んでも、逃げても。私も、私の大切な人も、どの道死ぬしかない。それでも、奇跡みたいな結末を期待して、必死に準備して――突然やってきた貴方が、全部引っ繰り返した」


 恩人――目の前の男をただそう呼ぶには、女の声も、言葉も、甘やかな粘りすら伴う何かを宿していた。


「さて問題です。足掻いて藻掻いて、それでも自分も身内も皆、死ぬ。そう思っていた女がいて、その元凶を颯爽と蹴散らしてみせた男が現れました。女はどう思うでしょう?」

「それが仕事だ」


 次第に熱が籠る言葉と同調するように、密着したエルシェルの身体からはひどく熱い感触が伝わって来る。

 その熱には敢えて意識を向けず、あくまでカージスは端的に、事務的に応えるが……到底熱を冷ますには至らない。

 彼の瞳を覗き込むように顔が近付けられ、同時に胸板に押し付けられた柔らかな双丘がぐにりと形を変えた。


「すぐそこのテントで、あんたの弟子が寝てるんだがな」

「あの娘は私が抱きしめてあげながら寝かせると、基本朝まで起きないの」

「こんな森の中でもか。矯正しとけ」

「えぇ、そのつもり。けど、今はむしろありがたいわ」


 焚火の中の薪が崩れ、木の弾ける音と共に炎が燃え上がる。

 互いの吐息がかかりそうな距離で、エルシェルは艶然と笑った。

 その笑みは先程の笑顔とは別人と思う程に蠱惑的であり、否が応でも男の性を刺激するものだ。

 己の腰を挟み込むようにして跨る女の脚の付け根から、密やかな、だが隠しようもない熱気が伝わって来るのを感じつつ。

 それでも傭兵は、冷静に制止の言葉を投げかける。


「世には"吊り橋効果"って言葉があるが、知ってるか?」

「知ってる。碌に整備もされてないボロ橋でも、出会いの切欠(他の使い道)があるってことよね」


 逃がすつもりはない、とばかりに密着した身体を更に擦りつけるエルシェル。

 己の熱を眼前の男へと移すかのように身をくねらせ、興奮に掠れた声で囁いた。


「今晩だけ。あとは忘れてくれても構わない。だから――」


 続く言葉は途切れ。

 あとはその身で望むことを望むままにと、赤い唇が男の口元へと近付く。

 燃え上がる焚火の生み出す二人の影が、完全に重なり合おうとして――。









「俺を篭絡しても、水棲巨人(スヨトロール)魔核(かく)は喰えんぞ」









 絡みつくような、甘い空気が凍る。

 驚愕か、動揺か。

 眼を見開いたまま動作を停止した女を冷静に見据え、カージスは淡々と指摘した。


「動揺したな。随分と熱が入ってるんで、流されたらどうしようかと思ったが」


 至近距離で硬直した女の瞳に、自分の顔だけが映し出されているのを確認しつつ、ほんのわずかに、指先を動かす。


「瓶に入ってるのは眼球だ。魔核(しんぞう)には劣るが、両目が揃っていれば最低でも致命に近い傷を与えたと判断されやすいんでね」


 ようやっと、女の口が開く。

 先の艶を乗せた囁きと比べ、あまりにもぎこちない――動揺で剥がれ落ちた仮面を拾って元の位置にはめ直すような、抑揚に欠けた声であった。


「……どうして、そんな回りくどいことを……魔核は……?」

「壊した」


 傭兵の余地を一切挟まぬ、端的な答え。

 それを聞いて、つい先程まで艶やかに色付いていた女の瞳に別の感情が掠める。

 刹那に浮かんで消えた感情(ソレ)は……失望と、苛立ちであった。


 だが、カージスの方も実は心中穏やか、という訳でもない。


 幾つか予想していたこの一件の結末。

 その中で最悪に近い部類がおそらく正解であることに、内心では苦虫を噛み潰した気分である。

 それでも表面上はあくまで余裕を崩す事なく。

 半裸に近い女を腹の上に乗せた――傍から見れば情事の途中としか思えない体勢のまま、不敵に笑って見せた。


「色々と答え合わせをしてやろうか?」

「…………」


 返事は無く、動きも無い。

 互いに微動だにせぬまま、至近距離で視線を交わしての一方的な会話が続く。


「惚れた腫れたなんて理由付けは置くとして、エルシェルが男を誘って押し倒す、なんてのは無理筋なんだよ。男嫌い、もしくは男性恐怖症(アンドロフォビア)だからな」


 そうだろ? と確認の為に水を向ける言葉に、やはり返答は無かった。

 

 村の住人に確認をとった訳でもないが、この予想は十中八九、間違いない。

 そう確信出来るだけの材料は、エルシェルの弟子であるイオだ。

 何時ぞやにも触れたが、あの少女は得た経験を余さず取り込む才人である。

 その分、未知や未体験の物事に対してお粗末な面が浮き彫りになってしまうが、その学習能力の高さは本物。

 十の学びに対し、常人は半分かそれ以下。イオは九か十の経験値を得る。

 だがそれは同時に、学んだ事柄の影響を受けやすい、という事でもあった。


 おそらく、普段の言動――特に男に対してのイオのソレは、エルシェルに師事してその影響を受けた結果である。


 これまで少女と交わした会話、村の変化や異質を極端に嫌う空気と、この師弟に対する態度。

 そして、少女と出会った当初の、過剰なまでの敵愾心。

 全てを繋ぎ合わせると、エルシェルという女が村の人間……特に"男"に対して、少なからず隔意や拒絶といった感情を抱いている、と予想するのは難しくなかった。

 そんな師を普段から見ていたイオが、男への言動が辛辣なもので固定されるのは当然の流れと言える。一度、村の男に暴行されかけたらしいので猶更だ。


「更に言うなら、いくら”根付き”だと言っても生態系暴走(スタンピード)直前の森の中、装備ほぼ全損の状態で無傷ってのはあり得ないだろ」


 カージスが僅かに、そろりと動かした手が、指先が、切り株に立て掛けられた鋼棍へと伸びる。


 女の左腕の包帯に血痕はあるが、既に血臭はなく、乾いたものだ。水棲巨人(スヨトロール)との遭遇戦の前後で負った傷だろう。

 そして、それ以外は無傷。

 全身あちこちが汚れ、かろうじて纏っている服は確かに襤褸同然であったが……よく観察すれば擦り傷すらないのである。

 この森に住まう動物、魔獣の警戒心や興奮度合いは、限界まで高まっている。危険度は普段の比ではない。

 その上、魔核を狙って魔力持ちの生物を手当たり次第に襲う屍喰(グール)までいるのだ。

 粗末な木製武器だけで何日も過ごして僅かな負傷も無し。これはカージスであっても難しかった。


 あとは簡単な話だ。


 目についた疑問と不審を基点に、傭兵は己の持つ知識と経験から、筋の通る推論を幾つか立て。

 その中で最も可能性が低く、最も後味が悪いものを否定する為に、一芝居打った。

 水棲巨人(スヨトロール)魔核(しんぞう)を潰し、敢えて魔法的な価値の無い眼球を瓶に詰め、男嫌いである筈の女の誘いを、困惑しつつも受け入れるフリまでして。


 そうして得た結論が、最悪のものであったというだけの話である。


 エルシェルは、既に巨人に挑み――敗れている。

 そして、水棲巨人(スヨトロール)に散々に喰い散らかされ、個体数を激減させていた屍喰(グール)達。

 追い詰められ、種の保存本能の爆発によって魔法的な進化を発生させた彼らだが――その進化は、とうに《《終わっていた》》。

 魔核を持つ生物を襲っていたのは、単純に()()であったから。

 産まれ落ちたソレに、誕生したばかりの自分達の上位たる存在へ、滋養と魔力を捧げる為に。

 屍喰(グール)達は我が身を顧みず、ひたすらに"贄"を求め、集めていたのだ。


「……屍喰(グール)って生き物は、元は山精(バーゲスト)と同じく()()()()()()()()()()()()()()()生まれたらしいな」


 唐突な話題の変化にも、やはり返事が返って来ることは無い。

 ただ、空気だけが張り詰めてゆく。


 ほんの僅かずつ、蝸牛の歩みより緩やかに伸ばしていた指先に、鋼の感触が触れる。

 中指と薬指の先端を鋼棍へと引っかけながら、カージスは眼前の(ソレ)――エルシェルの形をした何かへと、肩を竦めて見せた。

 未だ腹の上に跨るソレは、先に見せた媚態が幻であるかのように表情が抜け落ち、ただジッと彼を凝視している。


「長い時間をかけて、通常の生物に近い生態を得たみたいだが……数を増やすために他種との交配が可能になった代わりに、雄しか生まれなくなったってのは妙な話だ。他の魔獣にも同じような事例があるし、進化の袋小路ってやつかね?」


 パチン、と。焚べられていた薪が再び爆ぜ。

 燃料となる木枝を燃やし尽くした焚火が、その火を揺らめかせて急速に小さくなる。

 重なる二人の影も揺らめき――気のせいか、上に跨る影が奇妙に掠れ、伸びて見えた。


「だが、例外はある。あの水棲巨人(スヨトロール)もそうだった。生まれか、環境か、はたまた別の要素まで絡むのか知らんが……魔獣としてもっと原始的な、魔法生命体に近い形へと"原種返り"を起こす個体もいるらしい」


 もうずっと何年も前。

 初めて魔法に触れ、若さに相応しい興奮と興味を以て魔法を学んだ時期に得た知識。

 カージスは、己にとって懐かしいが苦い思い出も多い記憶を反芻しつつ――破裂寸前の緊張感に満ちた空気へと、一針を突き刺した。


「憑依した骸の生前の姿、力と知識を奮い、屍喰(グール)達を束ね、君臨する唯一の雌性体(女王)


 微かに残っていた、小さな熾火が消える。

 一筋の煙だけを夜空に上らせ、代わりに野営地に夜の暗闇が下りて来た。

 月明かりだけが地を照らす中、カージスを見つめる双眸だけが爛々と輝き――。


「確か屍食鬼(グーラ)、だったか? 見るのは初めてだよ」


 その言葉を皮切りに。

 女は、嘗てエルシェルであった怪物は、耳まで裂けるような笑みで嗤った。


「――あぁ、本当に良い(オトコ)


 喜悦と嗜虐が入り混じった、蕩ける様な囁きが赤い唇から零れ落ちる。

 口元に這わせた指先が伸びる舌に舐め取られ。


「ここで殺して食べるだけなのが、勿体ないくらい」


 一瞬で鋭く伸び、刃の如く変じた爪が突き込まれた。

 見下ろしている男の眉間を穿たんとする、風を裂く爪撃。

 タイミングも互いの態勢も、圧倒的に怪物が優勢な状態で放たれた絶死の一撃である。


 ――が、既にカージスは握った鋼棍を振り抜いていた。


 相手はこちらに馬乗り、自身は半ば仰向けに倒れ込んでいるという状況を、魔力を用いた全開の身体強化で強引に捻じ伏せる。

 大気を抉りながら叩きつけられる鋼の棍は、爪と共に白い指先をへし折り、細く、くびれた胴へとめり込んだ。


「――――あら?」


 漏れた声は感嘆か、呆れか。

 横腹を存分に殴打された女の身体は、馬車に撥ねられた小石の如く吹き飛ぶ。

 木々を粉砕しながら野営地を飛び出し、湖へと続く坂を滑り落ちる屍食鬼(グーラ)を追って、カージスは地を蹴った。

 巨人と相対したときよりも更に出力を上げた身体強化による跳躍は、矢の如き速度と飛距離を彼に与え、敵へと容易く追い縋る。

 

 既に体勢を立て直した屍食鬼(グーラ)だが、緩やかな勾配が延々続く場所で戦うつもりはないらしい。

 軽やかに地を蹴り、湖へと向かって跳ぶ女形の怪物の背を追い、カージスも二度、三度と樹を蹴りつけて方向転換を図る。

 徒歩であれば抜けるのに小一時間は掛かる長い傾斜道を、一分とかけずに走破し。

 両者は土煙を巻きあげ、湖が拡がる森の水場へと着地した。


「さて、あの喧しい娘が起きて来る前にケリを付けようか。何、野営地で盛るよりかは手早く終わるだろうよ」

「えぇ、同意見ね。それじゃ、始めましょう」


 鋼棍が一振りされ、肥大化した指から伸びた爪が、構えられる。




 そうして、数時間前に出会った場所で。

 傭兵と、かつて冒険者であった魔獣は対峙したのだった。







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