屍食鬼 Ⅷ
夕暮れに降り注ぐ斜陽が湖を緋色に照らす。
そんな美しい景色の中、森を喰らい尽くそうとする怪物と、それを止めんとする人間の戦いは始まった。
咆哮と共に水棲巨人の右腕が振り上げられ、地に叩きつけられる。
肉が削げて皮と骨ばかりの筋張った状態でなお、巨岩を砕いて大地を揺らす一撃だ。質量差も考えれば、掠めただけで致命傷となりかねない。
「その不細工な肉団子は抱えたままなのかよ」
破城槌じみた一撃を前に、呆れを含んだ一言と共に臆することなく前進するカージス。
直撃の寸前で斜め前へと跳躍し、脇に構えた手斧の側面に擦らせる程の紙一重で回避する。
硬質化した巨人の表皮と鍛えた鋼の間に火花が散り、大質量が通過した風圧で髪が引っ張られるような感覚を覚えつつ、彼は斧を振るった。
鈍い銀光が閃き、巨人の蒼白い腕へと吸い込まれる。
硬く、巨大な拳の一撃が大地を陥没させ、轟音と共に湿った大地が捲れ上がって土が飛び散るのと、それを為した巨腕から赤黒い血が飛び散るのは同時であった。
「▰■▰▰▰▰▰■!?」
強烈な空腹感はいっそ馴染んだ感覚なのだろうが、己の身体を走る強い痛みは未経験だったか。
水棲巨人が野太過ぎる悲鳴を上げ、裂かれた腕を胸元へと引き寄せる。
一方のカージスは巨人の一撃によって発生した衝撃に逆らわず、半ば吹き飛ばされる形で跳躍して距離をとった。
高く宙を舞い、錐揉み状態で空中に投げ出されるも空中でとんぼを切って一回転。危なげなく着地する。
幾度か戦ったことのある魔獣の、だがこれまで無かった刃を通した感触に僅かに顔を顰めた。
運が良ければ腱まで届くと思っていた自身の一撃は、予想を超える表皮の硬度と厚さに阻まれて肉を浅く抉るに留まっている。
(……硬いな。肉は厚みが無いが、外皮の手応えが既に皮じゃねぇ)
封じられている間、常時枯渇状態になるほどに魔力を酷使して肉体を維持していたせいだろうか?
魔力への適応によって硬く変質した水棲巨人の外皮――この個体のソレは、通常の同種より厚みと強度を増していた。
とはいえ見た目からも分かる通り、肉体の衰弱は回復していないようだ。外皮の更なる変質で単純な防御性能は上がったが、動き自体はカージスの知る水棲巨人のものより鈍い。
己に手傷を負わせた眼前の人間に怒りを覚えたのか、巨人はこの場にいるもう一人の人間である少女は無視し、引き続き傭兵へと怒りの唸り声を上げながら掴みかかる。
「助かるな、頭の方は同族と同じく単細胞のままらしい」
迫りくる圧倒的な巨体に向け、常と変わぬ調子で皮肉が飛んだ。
ガワが硬くなったので、低下した筋力と釣り合う形で打撃の威力はそれほど変わらない。
だが通常の個体と比較するとやはり全体的な動作が遅く、衰えているので回避は容易だった。
カージスは突進から振り回された四指の掌を横っ飛びに身を捌いて躱すと、今度は腕ではなくより細い末端――指を狙う。
斧の刃が人の腕ほどもある小指へと潜り込み、太い針金が幾本も通った分厚いゴムを斬ったような感触を超え、骨を断って反対側へと抜けた。
「▰▰▰▰▰▰▰▰▰▰■!!!」
幾度目かの雄叫びは、これまでのもの違って明確なる『悲鳴』であった。
小指を斬り飛ばされた水棲巨人は、三本指となった右腕をがむしゃらに振り回して大地を抉り、手近な岩や樹を殴り砕いてとにかく己の周囲を薙ぎ払う。
それらを潜り抜けてもう一撃加えることも不可能では無かったが、現状では無理をする必要もない。
後退して巨腕の範囲より逃れ、飛んで来る石や木片は斧で叩き落とす。
(さて、出だしは順調だな。この調子で終わってくれるなら楽なんだが……)
手斧を一振りし、カージスは再び構えをとった。
お世辞にも知能が高いとは言えない巨人からすれば、今起こっていることは意味が分からない。
己より遥かに小さい生物が、殴りつけても死なず、それどころか痛みを与えて来る。
腕を振り回して捕まえようとしても、するりと逃げ出して指まで斬り落とされた。
高い魔力持ちではあるが、これまで好きに食って来た森の生き物と大して変わらぬ大きさの人間が、遥かに大きくて強い自分を翻弄しているのだ。
この森において最も強く、大きな己が、好きに飯を喰らうことを邪魔されるなど、あってはならないことだった。
水棲巨人は自身の欲求と本能、指の傷口から這い上がる痛みが齎す感情に従い、人間に手を伸ばして怒りの咆哮をあげる。
圧倒的な重量と巨躯を生かしての、再びの突進。距離を取ったカージスを今度こそ叩き潰さんと、右腕を力いっぱい振り回す。
「▰▰▰▰▰▰▰▰▰▰■!!」
だが、これも股の間を抜ける形で躱され、今度は足首に斧がめり込んだ。
まただ、おかしい。人間のくせによけるな。
新たに追加された痛みと、ずっと昔から身を苛む空腹で益々苛立ちが募る。
そうして、ふと思い出した。
昔、そう、ずっと前だ。
棲み処である湖の上に妙な、見えない蓋をされて閉じ込められる前。
痛みを感じたとき、己はどうしていたか。
考え、記憶を辿り――答えは直ぐに出た。
喰えば良いのだ。喰えば腹が満たされ、痛みも消える。
眼前の人間はやたらとヒラヒラ動いて食い辛いが、幸い手元には既に自分が集めた食い物がある。
左の小脇に抱えたままである肉塊を地に落とすと、巨人はそれにかぶりつくべく、大きく口を開いた。
この短い時間で、何度目になるのか。
イオは喉の奥よりせり上がる恐怖を口内を噛みしめて押し殺す。
そうでなければ、みっともない金切り声を上げて逃げ出してしまいそうだった。
最初は構えようとした弓など、とうに背に戻してしまっている。空いた手は、喉を割って飛び出そうとする悲鳴を抑えつけることのみに注力していた。
あんなものの注意を引ける筈が無い。
傭兵の言う通りだった。あの巨人に敵意を向けられれば、その瞬間、その時点でイオの死は確定する。
巨人の咆哮が響き渡るたび、繰り出される拳や蹴りが、重い轟音を立てて地を揺らすたび。
この場から離れろ、逃げ出せ、脇目も振らずに背を向けて走り出せと、生存本能が喧しく喚き散らす。
一人で逃げ出したところで、生きて森を抜ける事など出来はしない。
そう頭で理解していても、どうしようもなく手足が、身体が震える。この場所に留まることを拒否し続ける。
それほどまでに水棲巨人――眼前の存在は、少女にとって埒外の怪物に過ぎた。
アレと比べれば屍喰や山精など可愛いものだ。アレにこれ以上近づく位ならば、素手で大量の屍喰の群れに飛び込む方が遥かにマシであった。
全力で逃走せよと訴えかけて来る身体を、意思で無理矢理に抑えつける。
息は荒く、絶え絶えで、全身は冷や汗と脂汗でぐっしょりと湿っていた。
汗で服が貼り付く感触が嫌な寒気を与えて来る。ひょっとしたら、また漏らしてしまっているのかもしれない。
(ねえさん……!)
未だ見つからぬ師を心中で呼び、噛みしめた口の中から血の味が滲む。
彼女を見つけるまでは、死ねない。
その一念は、多大な精神的圧迫で遠のこうとする少女の意識を繋ぎ止める命綱ともなっていた。
そして、恐怖で狂乱しようとする精神にかろうじて均衡を与えている、もう一人。
イオにとって絶対的な死にも近い巨人を相手に、一歩も引く事無く渡り合う者。
気に入らない――けれど、こんな状況になっても師を見つけ出すと断言してくれた、凄腕の傭兵。
口にこそ絶対に出さないが、イオにとって絶対にも近い師よりも強いと、そう思った初めての人間。
出会ってから二日足らずであったが、少女にとって"強さ"の象徴となりつつある男が、今も水棲巨人を打ち倒さんと戦っていた。
限界寸前の精神状態である少女にも、その戦いぶりは優勢に見える。
勝算はあると言っていた、あの言葉は嘘では無かった。
(それなら、きっとアイツは勝つ……! アタシに求められるのは、あの怪物からしっかり距離は取って、尚且つアイツの目の届く範囲に留まり続けること……!)
傭兵の足を引っ張らず、彼がフォロー可能な範囲に居ること。
最初に言われた通りだ。自分に出来ることなど、その程度。
せめてそれだけでもと、イオは恐怖を圧し殺して傭兵と巨人の戦いを見守り続ける。
そうして、幾度目かの攻防。
振り回される長大な腕を潜り抜け、脚の間をすり抜ける形で斧による一撃が打ち込まれ――遮二無二攻撃するだけであった水棲巨人が、動きを変えた。
冷静さを保ったまま相手の行動を見極めようとする傭兵に対し、水棲巨人は痛みと怒りで顔を歪めて何度目かの雄叫びを上げる。
血走った目でカージスを睨み付け、苛立ちをぶつけるように何度も地を拳で殴りつけると――唐突に、小脇に抱えた肉玉を地に放り捨てた。
片手を塞いでいる荷物を捨て、両の腕を振るって来る。
相対するカージスも、距離を取ってこれまでの攻防を固唾を呑んで見守るイオもそう思ったのだが……。
予想に反し、巨人はそのまま大口を開けて落とした肉玉へと喰らい付く。
骨を肉を噛み砕く音が一体に響き渡り、肉塊より噴き出る血液、体液によって周囲に異臭が満ちた。
「――いや食ってる場合かよ」
呆気に取られた時間は、半瞬にも満たない。
屍喰ばりの悪食を見せる水棲巨人に対し、再びの皮肉――というよりツッコミを向けつつ、この隙を突こうと間合いを詰めるカージス。
が、次の瞬間、先程自分が斬りつけた右腕と右足首より吹きあがった白煙に足を止めた。
「コイツは……」
警戒する彼を無視し、巨人は口の中に詰まった肉と骨を存分に咀嚼し、嚥下する。
更に空いた手で近くに落ちていた小指を乱暴に掴み上げ、切断面同士を押し付けた。
肉で出来た風船が破裂するような水音の後、右手小指を抑える逆の掌の隙間からやはり白煙が吹き上がる。
抑えていた左手が離されると、そこには少々歪な形ではあるが、元の位置にくっついた小指があった。
当然というか、手足の傷も微かな傷痕を残して消え去っている。
「……その図体で原種返りしてるのかよ、クソだりぃ」
補給といわんばかりに再び肉玉を毟って口に放り込み始めた巨人を見て、心底面倒そうな表情となった傭兵の口から荒れた口調で愚痴がこぼれ落ちた。
元は邪精系統の魔獣から派生・進化したとされる水棲巨人だが、巨大化してゆく過程で原種の持つ再生能力は殆ど失っている――筈だった。
だが、この水棲巨人はどうだ。流石に原種と比べれば大人し目ではあるものの、喪われた筈の能力を保有している。
封じられていた間により原種へと回帰・変質したのか、それとも封印前から持ち得ていた能力なのか……どちらにせよ、厄介なのには変わりない。
より硬質化した外皮といい、この再生能力といい、実に面倒な個体だった。
肝心の動き自体が鈍いので回避は比較的容易だが、これで衰弱した肉体が回復したらどうなるかなど、考えたくもない。
肉玉は地に転がしたまま、そこから千切ったものを口いっぱいに頬張り、巨人は今度こそ目の前の人間を捉えるべく、両の拳を握る。
変わらず振り回すだけの、だが単純に手数が二倍となった巨腕による打撃が繰り出された。
「チッ……」
傭兵は舌打ち一つ漏らし、後退して丸太の如き腕の範囲から逃れる。
退がるばかりでは追い詰められるだけだ。首筋に寒気が走るような巨大な質量による殴打を掻い潜り、巨人の右手へと回り込む。
再び間合いに入った彼を蹴り飛ばそうと右脚が振り上げられた。
片手をぬかるんだ地に着け、這うような姿勢で回避。蹴り足が戻される前に足元に飛び込む。
駆け抜け様に軸足となった左脚に向け、斧を叩きつけた。
が、やはり手応えが硬い。人間ならば踝や踵は皮膚の厚みが無いのだが水棲巨人は四肢の末端が太い。外皮が厚いこの個体相手だと、腰を入れて打ち込まねば骨まで届かない部位が多すぎる。
傭兵は全ての攻撃を避けきり、脚に一撃を受けた巨人は身の硬さと再生力ゆえに、大して痛痒を示さず。
両者共にほぼ無傷のまま、間合いを取って仕切り直しとなる。
変わらぬ食欲と憤激を両目に湛え、唸り声を上げる水棲巨人の眼光を受け止めたカージスは、無言で握る斧へと視線を落とした。
刃は通る。しかし相手と間合いや体格の差があり過ぎるのでそうそう本気では踏み込めず、与える傷は浅い。その上でこの巨体で再生能力持ちとなると、削り切るのに馬鹿みたいな時間が掛かるだろう。
背の鋼棍ならばリーチの問題は解決するが、そもそも打撃は硬さに加えて弾力性も有する巨人の外皮とは相性が悪かった。骨肉へのダメージを積み重ねようにも、やはり再生能力に阻まれる。
再生が追い付かないだけの痛打を効率良く与えるには、リーチと威力ある重い斬撃を両立させる必要があった。
「……まぁ、仕方ない、か」
幾ばくかの妥協と諦念を以て、傭兵は決断する。
生態系暴走が絡むと気付いた時点で、場合によっては使うことになるとは思っていた。
無闇に使用するのは悪手だが、隠す事に拘り過ぎて身の危険を許容するなど本末転倒だ。
幸いにもここはド田舎極まる辺境の森の奥、どうせこの場を見ているのは眼前の巨人と、冒険者見習いの、色々と知識不足な少女のみである。
イオが誰かに喋るとしても、それがあの村ならば話の拡散は絶無に近い。将来は街に出ているかもしれないが、それは随分と先の話だろう。
ならば、問題は無い。
傭兵は背負う鋼棍を左手で握り、振り下ろす動作で固定具より抜き取る。
そうして、右手にぶら下げた斧と左の棍――その柄頭同士を近付け、叩きつけた。
斧と鋼棍、二種の武器をそれぞれ両の手に構えた傭兵が見せたものは、少女――そして水棲巨人にとっても驚愕の一言であった。
二つの武器の柄頭が打ち合わされ、金属が噛み合う音と共に火花が散る。
そして次の瞬間、巨人の左腕が飛んだ。
「…………えっ?」
呆けた声は、イオのものである。
突如として起こった突拍子もない光景は、しかし決して幻では無い。
「▰▰▰▰▰▰▰▰▰▰▰▰▰▰■!!?」
一拍遅れて切断面から大量の血が噴き出し、水棲巨人が絶叫に近い苦鳴を上げる。
斬り飛ばされた腕が秒遅れで大地に落ち、地響きと共に僅かに跳ねた。
飛び散る大量の黒ずんだ血飛沫と、同じく血を吹いて転がった巨腕。
文字通り血生臭い光景の向こう、手にした得物を振り切った姿勢で、傭兵カージスは不敵に笑う。
「さて、御自慢の再生能力には栄養補給が必須みたいだが……足りるか? その汚ない肉団子で」
元より、これ以上喰わせる気も無い。
言外にそんな意思を示しつつ、彼は得物を――柄同士が連結したことで長尺の斧槍へと変わったソレを、力強く一振りした。
握りしめた柄から魔力が流れ込み、刀身へと奔り。
棍と斧、それぞれに彫りこまれた紋様を伝い、使い手から注ぎ込まれた魔力は、鍛えられた鋼の武器を更に一段上の領域へと押し上げる。
少女にも、当然巨人にも知らぬ事ではあったが、それは『魔装』と呼ばれる武具であった。
その効果は単純。使い手の魔力を徹すことで、武器に使い手自身の身体強化に近い効果を付与するのである。
切れ味、強度の増大。なにより、使い手の魔力を流す事で疑似的に五体と一体化することによる、感覚の延長。
魔力量、魔力操作の精度によって強化の幅や限界強化率に差は出るが、一流と呼べるだけの戦士が扱ったとき――それは、竜すら殺し得る妖刃となる。
肩に斧槍を担いだカージスが一歩前に出ると、左腕の切断面を逆の掌で押さえている水棲巨人が、後退る。
繰り返すが、傭兵が握る武器の詳細をこの巨人が理解している筈も無い。
それでも、ソレを振るう小さな存在が、人間などではなく己を殺せる怪物であると、認識を改めるには充分であった。
「▰▰■▰▰▰▰▰▰■!!」
巨人の残った腕ががむしゃらに足元の泥土を掴み、近づくなといわんばかりに傭兵へと投げつけられる。
全てが避けられ、あるいは叩き落とされるのを確認する前に、踵を返して逃げ出した。
落ちた左腕も置き去りに、己の棲み処である湖へと駆ける。これまで集めた食糧の結晶である転がしたままの肉玉まで掴んで放り、人間への牽制とした。
「いらねぇよ――返すぜ」
背後から追い縋る傭兵が、迫りくる肉塊に斧槍を叩きつける。
両断したその半分を武器の先端にめり込ませ、振り回し、長柄の生み出す遠心力を以て逃げる巨人の背へと投げ返した。
一心不乱に地響きを立てて駆ける水棲巨人の膝裏に、唸りを上げて半分になった肉塊が直撃。隻腕となったことで既に体幹が不安定な巨体が更に傾き、土砂と泥を跳ね上げて膝を着く。
間髪入れず、魔装の刃が巨人を襲った。
首を狙った一撃だったが、出鱈目に振り回された右腕が斬撃の軌道上に差し込まれ、骨を断って深々と埋まる。
咄嗟にカージスは腕を完全に斬り落とそうとするも、その前に抉れた右腕が強引に振り抜かれた。
それがとどめとなって右腕は完全に千切れ、だがその原因である人間を弾き飛ばすことに成功する。
「チッ、本当にしぶといなオイ……!」
その身を後方へと弾かれた傭兵だが、革長靴の底で地を削りながら急停止。舌打ち一つして、離されてしまった距離を再び詰めるため、即座に駆けだす。
偶然とはいえ、皮一枚で命を繋いだ形だが、この時点で巨人の末路は決まったようなものであった。
再生能力といっても欠損した部位を復元できる程では無い。切断された身体の一部の回収は必須であり――どうやっても、それは不可能だ。
更に、衰弱して体内に蓄えられた栄養源が極めて少ない身では傷の修復は更なる消耗を招く。集めていた肉玉も、腕が無くては持ち運びすら出来ない。
万が一この場を逃げおおせたとしても、今後の食事事情は一気に悪化する。つまりは後が続かないのだ。
そんな有様となっても、今この瞬間、背後より迫り来る"死"は恐ろしいのか。
憐れですらある悲鳴混じりの唸り声をあげ、水棲巨人は最後の力を振り絞って駆け出した。
半ば転げるようにして、湖に足を踏み入れる。
水底に逃げ切れば、陸棲みらしき小さな人間は追っては来れないはずだと、必死になって水面を蹴飛ばし、掻きわけて進もうとして。
――次の瞬間、その左目に矢が突き立った。
「▰、▰▰▰▰▰▰▰▰▰▰■!?」
「おま、えっ……! お前ぇぇっ!! 先生に何をしたぁっ!!」
身を仰け反らせて絶叫する巨人に対し、震え、裏返った声で叫んだのはイオだ。
弓を構え、先の矢を放ったまま体勢のまま。その表情は拭いきれない恐怖と、それを押し退けるだけの怒りに染まっている。
激昂する直前、彼女が見ていたのはカージスが水棲巨人へと投げ返した肉塊の断面だった。
真っ二つに両断された、様々な森の生き物達を圧し潰して固めた物体の中心より僅かにはみ出していたのは、血に染まった革鎧の一部。
それは腰に挿した壊れた剣と同じく、半月ほど前までは毎日見ていた物で。
それを認識した瞬間、思考の全てが真っ白になったイオは、気が付けば身に沁みついた動作で以て矢を番え、肉塊を作った張本人を射貫いていた。
「よせ阿保!」
巨人の背後から駆け寄って来るカージスが何かを叫んでいるが、今の彼女にはそれも聞こえない。
残った眼を向け、凄まじい形相で怒りをぶつけて来る水棲巨人。
その威圧に紛れもなく怯え、竦みながらも、腹の底からせり上がって来る感情に突き動かされ、少女は再び矢を番える。
「う、あっ……あああああああぁっ!!」
「▰■▰▰▰▰▰▰▰▰▰▰▰▰▰▰▰■ッ!!」
少女と巨人、怒りによって一時、死の恐怖すら忘れた両者の喉から、胸を掻き乱す激情を吐き出すような咆哮が上がり。
追いついた傭兵が、大口を開けて少女を噛み砕かんとする巨人の背に向け、跳躍する。
恐れと怒り、喪失への予感に瞳に浮かぶ涙。
苛立ちに憤怒、その中にあって尚へばり付く飢餓感。
後者を断ち切ろうと斧槍を振りかぶった男の眼が、少女の背後の光景を見て、見開かれ――。
「――馬鹿! 退がりなさい、イオニーナ!」
樹を削って先端に折れた剣先を括りつけた粗末な槍が、迫る巨人の口内へと突き込まれる。
立ち並ぶ樹々の中より飛び出し、少女の背後から槍を突き出したその人物は、圧倒的な質量差で撓み、へし折れようとする槍の柄を押さえ込んで、息がかかる程に近づいた蒼白い巨大な顔面を睨み据えた。
「こ、のっ……! 私の、弟子にっ、手を出すなデカブツ!」
「先生!?」
って、手ないわコイツ! と追加で叫ぶ、あちこち裂けて露出した服を纏う女を見て、少女が喜色混じりの驚愕の叫び声を上げる。
女がそれに応える前に、限界を超えた槍が軋んで真ん中からバキベキと異音を立て始め――。
「師匠に感謝しとけ、ポンコツ見習い」
同時に斧槍が撃ち下ろされ、処刑台の断頭斧が如く、水棲巨人の首を叩き落としたのであった。