屍食鬼 Ⅶ
生態系暴走という、本来ならその地方の領軍、もしくは高ランクの傭兵や冒険者のパーティーで当たるべき災害。
残された時間が僅かなせいで、二級傭兵一人と見習い冒険者でその災害を止めるという、なんとも無茶な状況に陥った訳だが……当人達はそう悲観的な様子でもなかった。
特にイオ。今の彼女の実力では、本来この状況は死が確約されていると言ってもよい。
だが彼女からすれば、頭では事の大きさを理解出来ても、経験の浅さから具体的なイメージや実感が湧き辛いというのがある。
何より、同行者であるカージスの方は全く取り乱していない。急ぐ様子はあっても焦りが無い。
もちろん周囲への警戒は強くなった。生態系暴走発生まで時間が無い、ということもあって、移動と探索の早さはイオにとって厳しいペースであることに変わりはない。
だがこの男、本来の仕事であるエルシェルの捜索と、調査で判明した生態系暴走発生の阻止――この二つを、今でも達成する気満々なのである。
その上で焦燥や不安を見せない傭兵の背は、同行者の少女にとって不安や恐怖を軽減する良き精神安定剤として機能しているのだろう。
一方で、カージスの方も背後を歩く少女の学習能力の高さに、実は感心していたりする。
特に魔獣に対する動きは、道中で相対するごとに良くなっていた。
(……普通に才能マンの部類だな……なんで最初はあの体たらくだったんだ?)
感心と呆れが混ざった思いを抱いたカージスだが、それも当然といえる。とにかく経験から得る成長度合いが高いのだ、この娘は。
急速な進化の途上にあって活発化している屍喰達。
森の動物達と比べて高い魔力を保有している人間二人を嗅ぎ付けてくるのか、森の奥に進む程にその遭遇率が上がっている。
それに対し、イオは表情にまだ怖れが見えるものの、対応自体はほぼ正解に近い行動をとれるようになっていた。
今もそうだ、五匹の屍喰に強襲を受けたばかりだが……なんと最後の一匹はイオが仕留めてみせたのである。
四匹を秒殺したカージスであったが、横手を抜けてイオに肉薄しようとする最後の一匹を仕留めようとした瞬間、その喉に彼女が放った矢が突き立ち。
跳躍中に首を射貫かれて地べたに転がった屍喰は、痛みと混乱で苦鳴をあげる前に放たれた第二射により側頭部を打ち抜かれ、死んだ。
「……やった!」
小さく喝采をあげ、嬉しそうにガッツポーズする少女。
下級とはいえ、俊敏な魔獣の急所を射貫いた腕前はかなりのものだ。他の村なら弓の腕だけで狩人として余裕で食っていけるだろう。
おそらく今のイオは、下位の魔獣一体だけなら単独で狩れる。
その学習能力の高さと経験を実践に反映するセンスは、カージスの知る高位の冒険者連中と同種の才能を感じさせた。
そうなると益々気になるのは彼女の師――エルシェルの教育方針だ。
イオは間違いなく蓄積型の鋭才だ。安全の担保は必要だろうが、得られる経験の多い実戦形式でこそ、その学習能力を発揮する。
その才能に気付かなかった、というのはあり得ないだろう。通常の獣相手の狩りでも、これだけ呑み込みが早ければ"持ってる側"と判断するのは容易である。
そんな才能持ちをこれまで魔獣と一切相対させていなかった、というのは少々無理がある気がした。
あるいはその才能に溺れぬよう、とにかく最初は基礎を徹底的に仕込む、という方針だっただろうか?
危険な獣や魔獣を定期的に間引いている都市周辺でなら、そういったじっくりとした育成もアリだろう。
だが、ここは北方辺境の端も端。人里に下らない偏見や排他思考が蔓延する程度には平和なようだが、それでも辺境である以上、突発的な危険生物との遭遇が無いわけでは無いのだ。
討伐まではさせずとも、イオ自身の安全の為にもしっかりとした監督のもと、魔獣と相対させて"慣らし"を済ませる――それが妥当である筈なのだが……。
過保護、というにはどうにも腑に落ちない歪さを感じ、捜索対象に関してまたもや疑問が増えたことに、傭兵はひとり、眉根を寄せる。
(解せないのは確かだが……現状の問題を片付ける方が重要だな)
腹にしまわねばならない疑問と推論の多さに、そろそろ胃もたれを起こしそうだと辟易しつつ、握った手斧を腰の鞘に納めたのであった。
陽が傾き始めた頃、二人は三つ目の野営地へと到着した。
切り立った断崖にも似た、せり出た巨岩の上だ。登ってみれば、やや離れた場所まで見降ろせるほどに高く、先端が崖に近い形状の御蔭で警戒せねばならない方角も限られている。良い場所だった。
ほぼ森の中心地、少し東には大きな水場である湖も近いこともあって、エルシェルが主要としていた場所なのだろう。簡易テントが張られ、周囲にも獣避けの罠が幾つか設置されている。
テントの隣――雨よけの下には簡易な調合器具が置かれており、テント内には調合素材であろう毒性の強い植物や茸が保管されていた。
「この根とキノコ……調合していたのは神経毒か」
「……先生はここを使っていたってことよね?」
「あぁ、薬研に付着した汚れはまだ毒素が生きてるし、保管箱の素材も乾燥しきっていない……ここで毒を調合していたのは確かだろうな」
調合用の薬研には磨り潰した毒物が未洗浄でこびりついている。保存の甘い植物も保管箱のなかで萎びた状態で放置されたままだ。
一通り野営地に残された物資や痕跡の確認を終え、焚火台の前に転がる丸太に腰かけた二人は小休止がてら得た情報の整理を始める。
ここで調合されたものが森に現れた"何か"への対策なのだとすれば……相手は幾らかでも毒の通じる相手だということだ。
これは朗報ではあった。まだ確定ではないとはいえ、相手は悪霊や精霊種のような、物理的攻撃手段が極めて効き難い類いでは無いということだ。
「エルシェルがここを拠点に動いていたのは間違いない。調合用の素材や器具の片付けもせずに放置してるところを見るに……急いで飛び出したか、移動したか」
「その原因が、この野営地から分かる範囲にあったってこと……少なくとも、先生がココにいたときには」
「そうなるな。差し当たり、ここから分り易く眼に入るのはあそこか」
傭兵の視線の先――それは少女の視界にも入っていたのだろう。無言で頷いて崖の上から東の方角を見下ろす。
生い茂る樹々や茂みの隙間から見えるのは、緩やかな下り坂の先に拡がる湖であった。
「本来なら今日はこのまま野営して、日が昇ったらあの湖を調査、といきたい処だが……」
「分かってる。時間、無いんでしょ?」
「あぁ、湖周辺は樹の数も少ない。陽が落ちても月明かりで多少は視界も確保できるだろう」
夜になれば夜行性の獣、魔獣共に活発化する。山精などはその典型だ。
光源を用意したとてどうやっても知覚・索敵の範囲は狭まるし、危険度は上がるだろう。
だが、元よりこの森は生態系暴走直前の不安定極まる環境である。
進化の兆候が見られる屍喰以外の生物であっても、普段通りの行動をとるとは限らない。野営地であってもこれだけ深い位置では危険の度合いは高いままだ。
ならば、いっそこのまま調査を続行すべき。それが傭兵の判断である。
イオの言う通り、時間も無い。雨具などの使わない荷物をテントに置き、二人はこのまま湖へ向かう事となった。
野営地から湖までは幾らかの距離があったが、既に遠目に見えてはいる。
転倒にだけ注意して長い傾斜を下っていけば、問題無く辿り着いた。
離れた野営地からでも目視できるだけあって中々に広い。楕円に拡がる水場は透明度も高く、水の確保は勿論、釣りによる食糧確保も行えそうであった。
静けさに包まれた湖面に優しい夕日の光が降り注ぎ、緩やかに反射して輝いている。
森の現状とは正反対と言えるほどに、斜陽に照らされた湖は静謐で美しかった。
「わぁ……間近で見ると凄く綺麗ね」
「ただの散歩なら、景色を堪能しても良かったんだがな。いくぞ」
思わず、といった感じで感嘆の声を上げたイオに首の振りで動く様に指示し、カージスは周囲を見廻しながら歩き出す。
まずはこの湖の外周を廻る。エルシェルの残した痕跡であれ、生態系暴走に繋がる何かであれ、森の主要な水場であるこの湖であれば見つかる可能性は高い。
日が落ちきる前になるべく多くの情報を得るべく、傭兵と少女はやや足早に、だが目を凝らして湖の周辺を開始した。
「この十日で雨は一回だったな?」
「うん。先生が居なくなって、三日目に。けど一日中だったし、足跡は……」
「上が拓けているここだと、それ以前のものは流石に消えてるか。だが、使った矢や薬の瓶なら見つかるかもしれん」
不安――怖れではなく、師の手掛かりが見つかるかどうかを心配するイオに、周囲を注意深く観察しつつカージスが敢えて軽い口調で応じる。
夕日によって紅く染め抜かれた湖を右手側に、時計回りで歩を進めていくが……湖に近づいてからというもの、あれだけ頻繁に遭遇していた屍喰の気配はピタリと途絶えた。その御蔭もあって順調に調査は進む。
そうして、外縁部の端……楕円を描く湖の東端部へと差し掛かったとき、湖面に半ば浸った形の奇妙な石を見つけた。
「……あれは」
傭兵は小走りに駆け寄り、湖の端に沈むソレのもとにしゃがみ込む。
石は一抱えほどはある大きさで、何より湖周辺の岩石類とは材質からして違う。
黒く、鈍く輝き、丸みを帯びて角の取れたその感触は、決して月日によるものだけではない。相当な年月が経過しているが、明らかに人工的に研磨されたものであった。
表面に刻まれた紋様を指先でなぞり、ちいさく唸り声を上げるカージス。その様子を背後から見ていたイオが、不安が大きくなったのか眉根を寄せて彼の肩越しに黒石を覗き込む。
「結界の一種だ。かなり古い物だが……確か、指定した特定の生物の力を抑え込む効果がある」
少女の唇から疑問の言葉が出て来る前に、独白の形で答えは吐き出された。
「それって……」
「発動には最低でも封印に選んだ場所を、同種の石で挟み込む必要があった筈だ。反対側を見に行くぞ」
有無を言わせぬ口調で質問を断ち切ると、傭兵は立ち上がる。
先程より更に急ぎ足でズンズンと歩き出した彼を見て、イオも慌てて小走りに駆けだした。
湖は広くはあるが、流石に大湖畔という程の大きさでは無い。外縁部を最短距離で周った二人は、直ぐに反対方向――西端へと到着する。
カージスの言葉通り、そこには同じ材質、同じ大きさの黒石があった。
――ただし、湖面から離れた大地の上に転がり、バラバラになった状態で。
「――ッ……!」
イオが、言葉も無く息を呑む。
それも当然であった。打ち捨てられ、砕けた黒石は巨大な足跡の中に転がっていたのだ。
一度では無い。巨大な質量によって何度も踏みつけ、圧し固められた地面は水が溜まって小さな池と化している。
そこから浮かぶ想像は至極単純――足跡の主は、憤懣や苛立ちをぶつける為に黒石を踏み潰し、砕いたのだ。
この場のみに残る乱雑に広がった足跡を併せて見れば、そうとしか思えない光景であった。
「……確定だな。理由までは不明だが、最近になってこの結界の要石が効果を失い、湖の底にいる存在が動き出した。エルシェルはそれを止めようとしたんだ」
淡々と、出会った当初のような口調で語る傭兵が、足跡の水溜まりから何かを掬い上げる。
男の双眸に微かに浮かんだのは――感嘆と哀れみ、だろうか?
おそらくは手に余るであろう相手に遭遇し、それでも退かなかった冒険者に対する幾ばくかの情が透けて見えた。
だが、それらの感情を呑み込んだことで平坦となった声を、少女は聞いてはいない。
他の全てを意識の脇に捨て、彼女が見ていたものはただ一つ。
「ぅ、あ、あぁ……」
舌がもつれ、言葉が出ない。
伸ばそうとした手は震え、上がらず。
ただ、見開かれた瞳の瞳孔だけが、荒ぶる感情のままに収縮する。
傭兵の手に握られたソレは、黒い要石と同じく無惨に踏み砕かれた剣だ。
半ばから刀身を失い、鍔も歪んで欠けている。握りは圧力に耐えきれなかったのか、くの字にへし曲がっていた。
本来の姿から無惨に変わってしまったその剣を、少女は覚えている。
手入れを終え、慣れた動作で鞘に仕舞われるソレを、憧れを以て見ていた記憶を、覚えている。
三級に上がる前、大枚をはたいて買った大事な愛剣なのだと、ちょっとだけ自慢気だった笑顔を、覚えていた。
「ねえ、さん……!!」
掠れた悲鳴が喉から漏れ、硬直していた腕が、身体が、弾かれたように動き出す。
傭兵の手の中から引ったくる様にして壊れた剣が奪い取られ、それは直ぐに少女の腕の中へと抱え込まれた。
師の愛剣。その変わり果てた姿は、嫌でも師本人と重なる。
彼女の無事を信じていた――あるいは、信じていると思い込もうとしていた精神は、それでも頭の片隅から離れなかった"現実的な答え"に容易く侵食された。
きっと、生きてる。
自分の師は、姉の様に慕う人は、凄い人なんだから。
こんな状況でも、きっと。
でも――大怪我をしていたら?
今も動けず、一刻を争う状態なのだとしたら?
そんなときに、魔獣や肉食の獣に襲われたりしたら?
目を逸らし、否定し続けた可能性が次から次へと脳裏に浮かび、埋め尽くす。
先生は無事。大きな怪我なんて無くて、今も生態系暴走をどうにかしようと森の中で一人、戦っている。
そのような甘い考えは、なんの根拠も無い子供の夢想なのだと。
無事を願う心から乖離した、冷たい理性が容赦無く少女を打ち据える。
砕けた剣を抱え、今にも泣き出しそうな顔で蹲まるイオ。
そんな彼女に声をかけたのは……当然、この場に居るもう一人の人間であった。
「破損した所持品の一つを見つけたくらいで結論を出すな。ここで剣と一緒に踏み潰されたのなら、遺体や遺品の一部くらいは今でも残ってる筈だろうが」
エルシェルがこの場で足跡の主と戦ったのは確かだろう。
そして、剣を失ったが離脱には成功している――少なくとも、この場においては。
そんな傭兵の言葉に、イオは弾かれたように顔を上げた。
「……生きてるの? まだ、ねえさん、は……?」
「知らん。前にも言ったが、俺はこの仕事を救助依頼だとは思ってない」
配慮? うるせぇここでは品切れだ、と言わんばかりの身も蓋も無い返答。
色々といっぱいいっぱいな少女相手に、慰めや希望的観測を一切含まない言葉をかける畜生傭兵であるが――それだけに、告げた内容は俯瞰的な事実のみだ。
「ここでの戦いが遭遇戦だとすれば、撤退後、剣を失った代わりに毒で仕留めようとした可能性もある。というか、野営地の調合器具に付着していた残滓の経過日数から見るに、ほぼ確実にそうだろうよ」
またオツムが回らなくなってるぞ、と。
余計な一言を追加しつつ、傭兵は少女を見下ろして腕を組んで見せた。
ちなみにこの男がエルシェルがこの場では死んでいない事に思い至ったのは、実はイオから剣をひったくられた直後だったりする。
ついさっき己も微かに同情らしきモノを見せた癖に、気付かれてないならノーカンとばかりに言いたい放題であった。
なにはともあれ、折れるのも悲嘆に暮れるのもまだ早い、ということだ。
「…………」
早合点が過ぎた。
じわじわと理解が及び、男の皮肉を受けてイオの思考がようやっと廻りだす。
考えてみればこの傭兵の言う通りではあるのだ。遺体やハッキリとした致死的要因と呼べるものを見た訳でもないのだから。
無意識に募らせていた不安が、壊れたエルシェルの剣を見た事で爆発してしまった形だ。少女の頬に少しばかり羞恥の熱が集まる。
ある程度は気を緩めて会話出来るようになったが……やっぱり気に入らない点も多い男であった――その面倒くさい、婉曲なフォローの入れ方も含めて。
この傭兵が、師が既に死んだと考えているのは、事実なのだろう。
けれど、その上で『お前の望みは違うだろう、結果が分かるその瞬間まで、思考を止めるな』と、そう言っているのだ。
分かりづらく、捻くれていて、一言余計な――だが、今のイオにとって間違いなく必要な言葉。
そんな、気に入らない男からの発破を受けて、彼女は口をへの字にして立ち上がる。
上衣の袖口でぐいっと顔を拭い、腰のポーチからボロ布を取り出すと、握ったままの壊れた剣へと巻き付け。
刀身を保護した師の剣を腰の革帯に捻じ込んで、自分の頬を軽く叩けば――目元が少々赤いが、これまで通りの少女の姿があった。
「……ちょっと休憩してただけよ」
「流石に無理があるだろ、それは」
「うるさい、ヘタクソなのよ。ちょっとは空気読め馬鹿傭兵」
ジロリと音が聞こえてきそうな目付きで睨め上げられて、カージスは肩を竦めつつ……珍しく眼を逸らす。
紳士的振る舞いなどSOLD OUTの札を出して久しい自覚はあるが、『女子供が泣いているとき優しい言葉をかけてやらない男に、世間様の目は厳しい』程度の認識は未だに持ち合わせている。
この赤毛の少女とは、会った当初は互いに隔意マシマシの険悪な状態だったので、邪魔にならなければ泣こうが喚こうが小便チビろうが知ったこっちゃねぇ、というのが本音だったのだが……。まぁ、今は顔見知りのガキンチョ、程度の認識にはなった。
なので、これでも彼なりの基準を以て多少は柔かい対応をしたつもりなのだ。返って来た反応は半眼でのガン飛ばしであったが。
慣れない事はするものではない。そんなことを思いつつ、傭兵は口を開く。
「まぁ、何はともあれだ。少なくとも生態系暴走の方は下手人が分かった」
露骨な話題逸らしである。
だが、しょうもない会話で時間を潰していられないのも確かだ。
イオ自身、自分がちょっと涙ぐんでいたという事実を話題に挙げ続けたい訳でも無い。素直に会話に乗っておくことにした。
「結界、って言ってたし、この湖に居るんでしょ? どんな奴なの?」
「この封印方法が効果的な大物で、この足跡――間違いなく水棲巨人だ。ここいらに生息してる生物じゃないんだが……はぐれ個体の類だろうな」
水棲巨人。読んで字の如く、水底に棲み、その巨体に違わぬ剛力を持つ二足歩行の魔獣だ。
硬質化した皮膚は生半可な剣や矢など通さず、更に年を重ねた個体ともなると、簡単な魔法すら扱う。
反して知能はそれほど高くないので、対話は不可能。基本、人間やそれ以下のサイズの動物は等しく食糧と認識している上に、一度に行う食事の量は凄まじい。
人里近くに現れた事例もあるが、その際には棲み付いた漁場を荒らしに荒らし、近隣の人間にも相当数の被害が出たという。
「……最低でも数十年。長ければ百年以上か。経年劣化で封が外れて出て来たんだろうが……水棲巨人ほどの大喰らいが、水底で細々と魚や水草を齧って生き延びて来たんだ。長年の粗食の反動で手当たり次第に暴食を繰り返してる、と考えれば森の状況も当然だな」
森に棲み付いたばかりの頃は、それこそイオの村も存在していなかったのだろう。
当時の人間が発見したが人里からは遠く、放置こそ出来ないが領軍を派遣させるにしても金が掛かる。
中央ならば水棲巨人を単独で狩れる高ランク冒険者に依頼も出せたのだろうが、辺境の端ではそれも望むべくもない。
対応に当たった軍属か冒険者の魔導士が、苦肉の策で棲み処に閉じ込める為の封印処置を行った、といったところか。
元凶のざっくりとした生態と、現状に至る経緯を推測するカージスの言葉に、イオが眉根を寄せて肝心な事を問う。
「話を聞いてると、もの凄く強い魔獣みたいだけど……どうにか出来るの?」
「単独で殺ろうとするなら一級相当が適正だな。二級だと徒党で当たるのが無難だ」
「駄目じゃない!?」
実にあっさりとした答えに、悲鳴染みた声が上がるのも当然だ。
多少は対魔獣の経験を積んだとはいえ、一級が対応しなければならない程の怪物相手に自分が戦力になるとはイオも考えていない。
実質、目の前の男が単独で相手をすることになるだろうが……その当人が『無理』と言ったも同然なのである。
――が、発言した当の本人は特に悲壮感や危機感は抱いていないようだ。
勝算はある。カージスは破壊された黒石の欠片を掌に転がし、夕日を浴びて輝く湖を眺めながらその根拠を語った。
「封印中、どうやっても足りない食糧の代わりに体内の魔力を延々消費して生き延びたはずだ。封が解けてからひたすら森の動物を食っていたとしても、半月以下の日数じゃ身体の衰弱も魔力の枯渇も大して回復しないだろうよ」
仕留めるべき相手は相当に弱体化している、その理由も十分に納得できるものだった。
師を探す事を優先したいが、生態系暴走の原因を討てば屍喰の活発化も収まる……まではゆかずとも、緩やかになるだろう。
そうなれば森での行動が楽になる――延いては師の捜索も捗る。
あるいは、こちらで水棲巨人を討ったことでその現場を確認しにくるかもしれない。
そこまで考え、ならば、とイオは気合を入れて気持ちを切り替えた。
「……何か、アタシに出来ることはある?」
「基本、無い。近接は論外だし、弓の方はお前の腕が足りたとしても弓自体の威力が足りん」
静かな気炎を燃え上がらせ、やる気を見せる少女。
だが、こればかりは厳しい口調で「足手まといだ」とカージスは言い切った。
弱体化しているとはいえ、本来なら一級に相当する魔獣と見習いを対峙させるなど、あり得ない。
生態系暴走で森の環境が不安定でなければ、問答無用で野営地に留守番させているところだ。
水棲巨人と対峙する際にイオに求めるのは、限界まで距離を取りつつ、且つ他の下位魔獣などに不意を討たれないよう、カージスが知覚・目視出来る範囲に留まって大人しくしていること、これに尽きる。
「口内や耳孔、眼を狙えば多少は効果があるだろうが……最低でも樹上で一射して即座に別の樹に飛び移る、程度のことが出来ないと突進で潰されて死ぬぞ」
「うっ……た、確かにやったことはないけど……でも、飛び移るくらいなら多分出来る、はず」
「絶対にやめろ。遥か格上相手に、ぶっつけ本番でやることじゃないだろうが」
まともな戦力にはならずとも、気を逸らす程度のことは出来ないか。
そう考えて食い下がるイオであるが、傭兵からすれば彼女が水棲巨人からのヘイトを買う=死という認識だ。
とにかく大人しくしていろ、と語気を強めて言い含めようとして。
南――森の最奥へ続く方角から、重く、連続した破砕音が微かに耳へと届き、二人は同時に口を閉じて音の発生方向へと首を向けた。
「ね、ねぇ。これって」
「……一旦、野営地に戻るぞ。急げ」
明らかに近づいて来る破砕音――木々を薙ぎ倒して迫る巨大な"何か"に、イオの声は自然と震え、カージスはハッキリと舌打ちして身を翻す。
会話を打ち切って駆け出す二人だが、樹がへし折れる音と巨大な重量が地を踏みしめて走る音は、どんどん大きくなってゆく。
「ちょっとぉ! これアタシ達に向かって来てない!?」
懸命に走りながらも上げたイオの悲鳴は、正解であった。
湖を迂回する形で移動する傭兵と少女だが、地鳴りの如き足音は明らかに向かう方向を変化させている。二人へと軌道が一直線に重なったまま、ズレていないのだ。
「……こっちの魔力を捕捉したか。魔力の探知や知覚能力は低い種族の筈なんだがな」
魔力枯渇が過ぎて、鼻でも利くようになったか、とボヤきながら、カージスは腰の斧を鞘から抜き払った。
逃げ切れない、そう判断して足を止める。
後ろに続くイオも、既に足音が湖の近くまで迫っているのが嫌と言うほど分かった。倣って立ち止まると、息を整える事に集中する。
「遮蔽物の多い森の中が良かったが……仕方ない、腹を括れ見習い」
「……分かって、る。邪魔には、ならない」
常の通りの声に、緊張と恐怖で上擦った声が応え。
数秒後、立ち並ぶ森の樹々を蹴倒しながら、ソレは姿を現した。
「――▰▰▰▰▰▰▰▰▰▰■!!」
およそ知性とは無縁の、野生と本能を剥き出した咆哮が森を震わせる。
自身が薙ぎ倒した樹木に蹴躓き、苛立ち混じりの動作で真っ二つに踏み潰してみせたのは、10メートル近い体躯を誇る巨人だ。
蒼白く、岩肌を思わせる硬質化した肌と、首もとにある幾筋もの切れ目にも似た鰓。見紛うことの無い、水棲巨人の特徴であった。
カージスの予想通り、相当に衰弱しているのだろう。
本来ならば分厚い胴に劣らぬ程に太い手足は、筋が浮いて瘦せ細っている。
胴体はあばらが浮き上がり、水っ腹で突き出た腹ばかりが重そうに垂れていた。
だが、そんな餓鬼の如き有様であっても、巨人の迫力と威圧は凄まじいものがある。
伸び放題の蓬髪の隙間から見えるのはこけて頬骨の浮いた輪郭と、己が身から失われた滋養を渇望する、ギラギラと光る瞳。
健常の頃と比べれば著しく衰えたであろう四肢はそれでもなお巨体を不足無く支え、高く太く成長した樹々を小枝の如くへし折り、吹き飛ばす力を有している。
そんな四肢の一つ――左腕によって小脇に抱えられているのは、歪で奇妙な肉玉だ。
森に棲む様々な獣、特に屍喰を多く材料としたソレは、巨大な掌で潰され、捏ねられ、無理矢理に一つにまとめ上げられた肉の塊であった。
「随分と趣味の悪い肉団子だ。皮くらい剥いだらどうだ?」
呆れた声で皮肉る傭兵の言葉が、通じる筈も無い。
黄色く濁った眼で豊潤な魔力を有する人間達を睥睨した水棲巨人は、涎を垂らしながら待ちきれぬとばかりに肉玉の一部を毟り取り、音を立てて咀嚼する。
ゴギボギと骨を噛み砕く音と共に血飛沫が飛び散り、その口周りと足元が黒ずんだ赤に染まった。
「……ッ、ぅ……!」
「もっと退がれ。後ろで大人しくしてろ――なるべく早く終わらせる」
悲鳴を噛み殺し、青褪めた顔のままでなんとか弓を構えようとする赤毛の少女を制し、白灰髪の傭兵が前に出る。
片手に握った手斧が一振りされ、身体の横で水平に構えられてピタリと止まり。
「――▰■▰▰▰▰▰▰▰▰■■!!」
「うるせぇよ、こっちは捜索依頼が控えてるんだ――さっさと死ね」
大気を震わせる、獣とヒトの叫びを混ぜ合わせたが如き咆哮にも怯まず、一言吐き捨てて前方へと飛び出したのだった。