屍食鬼 Ⅵ
捜索対象が行方不明になったと思われる森林へと足を踏み入れ、二日目。
傭兵と少女は、手掛かりを求めて森の奥へと歩を進めていた。
森に入る前にも傭兵自身が述べたことだが、何某かの異変があったとしてソレがどんなものか、エルシェルが何処でソレを見つけたのか、手掛かりが無い以上はそれらしい場所を丁寧に調査してゆくしかない。
とはいえ、基点となる場所を絞り込むことは可能だ。
森の中にある、エルシェルが作った野営地点。
狩りの相手や採集に併せて彼女が複数設置したそれらの位置を、イオは地図として渡されていたのである。
初めて森に入って狩りを成功させたとき、お祝いとしてエルシェルが贈ってくれたものだそうだ。更に、地図にはおおまかに周囲の地形や動植物の生息域も記されていた。
「まずはこれで先生がどこの野営地を使ったのか、調べるつもりだったの」
初日の野営を終えて翌朝、目先の目標をどうするか思案するカージスに、地図を見せたイオの言である。
そこに至るまでの予定に穴が多かったのも事実だが、彼女は彼女で一応は目算があって単独での捜索を考えていたらしい。
数年単位で根付きの冒険者がじっくり探索して得た情報だ。本格的なものはもっと別の形で保存・保管してあるのだろうが、地図に記された簡易的なものであっても実に有用であった。
森にある野営地点は、二人が使ったものを含めて計四カ所。
"当たり"が見つかれば、その周辺を重点的に調査することで更なる情報を得られる可能性が高い。
道中の調査は一旦棚上げし、イオが考えていたようにエルシェルが使用したと思われる野営地を見つけることを優先に、残りの三ヵ所を見て回るべきだろう。
そうした判断のもと野営地を出発した二人だが……意外なことに、その速度はカージスが想定していたよりは大分順調である。
理由は明白だった。出発時に比べ、イオの態度が軟化――ひいては協力的になったからだ。
元より、彼女は見習いとして学びの一環で、師の狩りに同行することは何度もあった。
当然、格上の同行者の邪魔にならぬように追従する経験はある訳だ。反抗心や疑心から思考・行動を頑なにしなければ、下手な下位の冒険者よりよほどマシな動きが出来るのである。
二つ目の野営地は、一つ目から数時間程度の位置にあったが……これは外れ。
大きな岩と倒木によって上手い具合に陰と屋根が作られた場所だったが、長いこと使っていないのか、焚火用の土台も崩れていた。
だが、そこからの移動途中にまたもや魔獣の群れが争った形跡を発見。
森の入口付近で見かけたものと同じく、群れが半壊、あるいは壊滅に至るまで争った痕が生々しく残るその場に足を止め、カージスは散らばる骸やその肉片、骨片の前に屈みこむ。
「あっちの鹿は……傷からして山精の獲物だな。仕留めていざ食おうとしたところを屍喰に襲撃されたってとこか」
「……屍喰って積極的に他の生き物を襲ったりしないんでしょ? 今のところ、全部襲った側みたいだけど、それって大分おかしいのよね?」
「異常ではあるな。ついでに言うのなら、骸の損壊は爪や牙による攻撃痕のみなのもおかしい」
慎重に現場を見廻す少女の問いに補足を入れながら頷く。
先日撃退した群れと同じく、散らばった骸には屍喰による捕食痕が無い。
牙を突き立てた痕跡はあれど、どれも浅いものだ。つまり相手が生きている――抵抗激しい間にとった攻撃行動ということになる。
再三となるが、死骸になれば同じ群れの仲間にも喰らい付く種族とは思えない行動であった。
「……こうも頻繁に遭遇するとなると、偶々異常な個体が湧いたって線は無いな。この地域の屍喰全体に何かあった、と考えるのが妥当だ」
「次はその異常と先生に関わりがあるか、ってことね」
「そういうことだ。いらん硬さや険が取れればそれなりに廻るようになるじゃないか、見習い」
「う、うるさいっ、余計な一言が多いのよアンタは!」
真剣な顔で魔獣達の骸を見つめ、次の行動への確認をとるイオに、傭兵も自身の頭を指先でトントンとたたきながらニヤリと笑う。
褒めてはいるが同時に皮肉も混ぜ込まれている言葉に、少女が眉をしかめて唇を尖らせるのはご愛敬といったところだろう。
カージスが魔獣達の骸の検分を行う間、イオは少々離れた場所に打ち捨てられた鹿の亡骸に歩みより、片膝をつく。
「あまり離れるなよ」
「分かってるってば……ちょっと勿体ないわね。これだけの大物なのに、狩った相手に糧にもされないで森に還るだけなんて」
魔獣化とまではいかないが、若干の魔力適合を起こした個体なのだろう。鹿の体躯は堂々たるものであった。
四肢は太く、毛並みは美しく、角も相当な発達具合だ。傷だらけで力無く横たわっていても、生前の勇壮さが伝わって来る。
角だけでも結構な枚数の銀貨に化けそうであった。こんな状況ではなく、普通の狩りで発見していればイオも嬉々として角を落として持ち帰っていただろう。
そんなことを考えながら、鋭い裂傷が幾つも付けられた鹿の胴に触れようとして。
「――あれ? この爪痕……山精のものじゃ、ない?」
腹下にある一際深く裂かれた傷だけが、違う生物につけられたものであることに気付く。
傭兵の調査を後ろから見学し続けることで、彼女も二種の魔獣の爪痕程度は判別可能となっている。この傷は屍喰によるものではないだろうか?
個体差はあれど屍喰の爪は山精のソレよりかなり大振りなのだ。違いに気付くのは比較的容易だし、見立てに間違いはないだろう。
「なにか見つけたのか?」
「あ……うん。ここなんだけど、これだけ屍喰がやったんじゃない?」
近付いて来る足音に振り向くとイオは少々自信なさ気ではあるが、白い毛並みに走る裂傷を指さした。
カージスも指された先にある骸に刻まれた爪痕を眺め……確かに屍喰のものであると頷く。
(……鹿の臓腑だけ食ったのか? いや、連中にとっちゃ最上の御馳走ではあるが)
これだけ食い応えのありそうな食糧を前に、選り好みして一部だけ喰らって満足するような生き物でもない。
予想通りだとして、山精は食っておらず、何故この鹿だけ食うのか、という疑問が残る。
取り敢えず調べてみるべきだと判断した彼は、手にしたナイフを片手に鹿の前にしゃがみ込む。
傷痕自体には特に異常がないことを確認すると、刃を裂けた肉に捻じ込み、既に硬直が始まっている肉を掻き分けて指先を腹の中へと突っ込んだ。
(……内臓は残ってるか……それなら、なんで死骸にわざわざ爪を立てた……?)
鹿の体内に残っていた血が少なからず飛沫を上げ、後ろから覗き込んでいたイオが小さく声を上げて仰け反る。
「ううっ……やっぱり時間が経ってると臭いがキツいわ……」
「全くだ」
狩りの延長で解体なども行っているとはいえ、やはり腑分けの類は年頃の娘にとって苦手な作業らしい。
カージスとて好んでやりたいものではないので、鹿の腹内を眺めつつ軽く首肯しておく。
下腹から上部へと視線を巡らせ――そこで気が付いた。
「…………」
「なにか分かったの?」
眉を顰めて無言で立ち上がった傭兵へと、少女から当然の疑問が飛ぶ。
それには応えず、踵を返した彼は先程調べていた魔獣達の残骸の前に再び片膝を着く。
そうして、転がる骸――損壊激しい胴体部の一つに、鹿と同じようにナイフを捻り込んだ。
それだけで終らない。内部を一瞥すると別の骸に手を伸ばし、同じく切り拓いて手を突っ込む。
「ちょ、ちょっと、何で他のまで……」
一見猟奇的にも見える腑分け作業に、少し引いたというのもある。
が、それ以上に眼前の男が初めて見せる厳しい表情に不安を覚えたイオが、おそるおそる、といった様子で再度問い掛けた。
幾つかの死骸の中身を確認し終えると、ようやっと呟くようにして答えが返って来る。
「……心臓がねぇ」
「? かく?」
小首を傾げての三度目の問いに、今度も傭兵は応えず。
血濡れた手を革帯に挟んでおいたボロ布で拭いながら立ち上がった。
「行くぞ、道すがら説明してやる」
三つ目の野営地は森の中心からやや東に逸れた場所に拡がる、大きな湖の近くにある。
そこを目指しつつ、傭兵は先の少女の疑問についておおまかな説明を始めた。
「魔核ってのは、要は魔力を扱える生物の核部分を指す。別に魔力に適合した生物全てに共通する器官って訳じゃない」
傾斜のある坂をさっさと登りきると、細い木に掴まってなんとかよじ登って来る少女に手を貸してやりつつ、説明が続く。
多くの生物の場合は、体内の血流と魔力流が疑似的に重なるので魔核=心臓となる。
ちなみに人間もコレに含まれる。粘体生物や霊体、精霊種といったまともな肉身が無い・希薄ゆえの例外もあれど、殆どの場合は上記の認識で良いだろう。
「魔力による身体強化を魔法という技術で使用可能になった人類種と違って、魔獣にとって他種の魔核ってのは自分の力を増強できる強壮剤になるんだよ――効率、という点ではぶっちゃけ大したものじゃないんだけどな」
気が急いているのか、語りながらもその進みは今朝の出発時点よりも早い。
当初の予定と違っていっそ講義じみたレクチャーを行っている傭兵であるが、そのことに気付いているのかいないのか。
どのみち、それを突っ込む余裕は今のイオには無かった。
明らかにペースの上がった探索について行きつつ、涼しい顔で語られる説明にもしっかりと耳を傾け、理解するというマルチタスクは、見習いの身には中々に堪えるのである。
「ハァ……はぁ……それで、あの鹿や、森精の心臓もってこと……?」
「あぁ、殆どの死骸の損壊が酷いんで気付くのが遅れたが……」
息が上がり始めたイオを見て、自身が急ぎ足になっていることに気が付いたのか。
少しばかり決まりの悪い顔となったカージスは、手近な倒木へと顎をしゃくって少女に座るよう促した。
疲労も手伝い、素直に腰かけて息を整える彼女を横目に、改めて得た情報に自身の予測・経験則を織り交ぜて思考を走らせる。
魔核が残っているのは、争ってる最中に心機能を破壊されたであろう個体だけだった。
それはつまり、魔力が抜けてただの損傷した臓器となったものだということだ。心臓本来の栄養価はあれど、既に魔核としての価値は無い。
屍喰が他種の魔獣を襲う、わざわざ仕留めた獲物を捕食しない。
これらの異常行動が、単なる血肉ではなく魔核を求めてのものであったのなら、色々と辻褄が合うのだ。
繰り返すが、他者の魔核を喰らう・取り込むという行為は、一時的な魔力の増強を齎すといっても決して効率の良いものではない。
あくまで増大は一時のもの。喰らった核に宿る魔力は結局、身に定着した微量のモノ以外は体外に抜けてしまうからである。
だが、お世辞にも知能が高いとは言えない魔獣であっても選択できる手段の一つではある。手に入る魔核の数が多ければ猶更だ。
この推測が正解だとして……それでは、|屍喰が魔核を求め、喰らうのは何故か。
いや、そもそも集めたソレを――。
「――ッ、ぷはぁ……っ」
ほんの数瞬、思考に埋没していた意識。
それが、水筒を呷ったイオの声で我に返る。
口元を拭って一息ついた彼女を見て、傭兵は脳裏に並べた予測の幾つかを、敢えて一旦棚上げした。
「流石に急ぎ過ぎた、少し歩調を落とすが……それでも、お前にとっては強行軍になる。いけるか?」
「ふん、馬鹿にしないでよ――よく分からないけど、急いだ方が良いんでしょ? アタシとしても、先生への手掛かりが早く手に入るなら、文句なんてないわ」
まだまだいける、その主張に嘘は無いのだろう。
息を整え、勢いよく立ち上がるイオを前にカージスも頷きを返し、再び二人は歩き出した。
地図を頼りに次の野営地までの最短距離を選び、進む。
宣言の通り強行軍と呼べるペースに、イオはよくついて来た。
瞬発力とは別種のこうした移動に関わる足腰の強さというのは、その地に適した歩き方の知識と幾らかの経験、両方が必須となる。やはり、それだけ師が丁寧に基礎を仕込んでいた、ということだろう。
更に予想外だったのは、道中で再び遭遇した魔獣への対応である。
カチあったのは、やはり屍喰。
元いた群れが崩壊したのか、それともはぐれたのか。二匹のみという少数であった。
とはいえ初の遭遇戦であれだけ怯え、錯乱した相手と同種だ。
悲鳴をあげてへたり込む、或いは硬直して動けなくなる――そう思っていたのだが、なんとイオは竦むことなく行動した。
カージスが手斧を構えると同時に躊躇なく、素早く後退。あっという間に近くの樹を登り、樹上で弓を構えて見せたのである。
構えた弓は僅かに震えていたし、そもそも矢を番えた時点で二匹とも斧で頭を叩き割られてはいた。
が、今の自分に接近戦は無理だと割り切り、距離をとって射撃というほぼ正解の判断を見せたのも確かだ。
道中で語った『屍喰は俊敏だが、木登りなどは凶器のレベルまで発達した爪のせいで苦手』という話を覚えていて、しっかり活用したのも高ポイントである。総合すれば、初遭遇時とは一転、見習いとしては充分に過ぎるといえた。
「驚いたな。昨日の今日でこうも変わるか」
「……と、とうぜんよ、アタシは先生の教え子なんだから」
なお、褒められた当人は強がってはいるが、喜ぶより先にかなりキツそうである。
魔獣との遭遇戦による緊張と、そこからの解放。更に単純な疲労の蓄積。
そのダブルパンチによって樹から降りたら若干足にきていたイオを見て、休憩回数を一回増やしたのは、まぁ仕方のないことなのだろう。
そうして最低限の休息を挟みつつ、二人は森の中心へと進み続けた。
エルシェルが打ち込んだと思われる登攀用のロープを使い、崖を降り。
湖へと繋がる川を越え、足場の悪い苔むした岩場を抜ける。
歩く速度は相変わらず、見習い冒険者に追従させるには無理のあるペースだ。
そんな中、精神的な疲労も蓄積してくる後半になっても、悪態は偶に吐けど弱音は溢さずについて来るイオは、やはり根性や負けん気という面では中々のものを持っているのだろう。
そんな姿を偶に振り返って確認しつつ、傭兵は親指の背で軽くこめかみを掻きならが思案を巡らせる。
今回の依頼の不可思議な点。
それに対し幾つかの予測を立てたが……今、同行者である彼女に話すべきものは二つだ。
「……生態系暴走?」
「そこまで大袈裟なものじゃないが、放置すれば似たような被害が起こるのは確かだ」
まだ教わった事のない――あるいは正確な意味を把握していない単語なのか、不思議そうな表情でオウム返しに問う少女。
「現在、ここの屍喰に起こっている現象は、魔法的な断続平衝の進化に近い」
「だんぞくへいこう」
「……結果、数は減るが強く、厄介になるってことだ」
文字の読み書きにもまだ不安がある見習い冒険者。
そんな身には敷居の高すぎる単語が次々と出てきたせいで、イオは呆けた顔で反芻マシーンと化している。
カージスも流石に無理があると悟ったのか、学術的な部分は聞き流せ、と最後に付け足した。
だが、語ること自体はやめない。滅多に遭遇することのない事例だ。過去に学び、やや錆びつきかけた知識を記憶からほじくり返して整理・咀嚼し直すため、口頭での説明は必要な行為なのである。
断続平衡説。進化とは徐々に連続的に進むのではなく、長期間ほとんど変化がない状態が続いた後、短期間で急激な変化が起こるという論説だ。
本来、急激といっても十年単位の月日を必要とする生物の進化。
だが、そこに魔力という特殊な要因が加わることで、極端に過程が短縮される。ゆえに魔法的、と称した。
そして今回の事例……その"進化の過程"自体は、比較的単純なものである。
他種の魔核を狙い、その過程で数を減らし。
生き延びた――即ち優れた個体が魔核を喰らうことで個々の"質"が高まってゆく。
その繰り返しの果て、対象の魔獣は生命としての格を一段上の領域にあげる。
これは下位の群れ為す魔獣ならば、共通して起こり得る現象と言えた。
――しかしながら、その発生条件は当然シビアだ。極めて低確率と言ってよい。
現行の生態のままだと滅ぶ。
もしくは、滅ぶに等しい危険を払ってでも棲み処を大移動しなければならない。
そういった、その地における種の存続が関わる事態になって初めて、魔獣の進化が発生する"可能性"が生まれるのだ。
しかも、あくまで可能性だ。
そのまま結実することなど稀であり、ましてや人里近い場所でソレを目の当たりにする確立など、言わずもがな。
銅貨一枚握りしめてスタートした賭け事で、一生遊んで暮らせるだけの大勝ちにまで辿り着く方がまだあり得る。そんなレベルである。
実際、山精には進化の兆候が起きていない。森の現状を見るに、彼らは『成り損ねた』ということだろう。
そんな希少極まる現象なのだが……現在、この森の屍喰にはその進化が起こっている可能性が高い。
永らくこの地域にあった生態的均衡を崩す"何か"が現れ、それが原因で屍喰に急速な進化を促す変化期が訪れた。
そう考えるしかない状況・異常が揃い過ぎている。
「進化した魔獣が何を求めるか? おそらく、最初に望むのは自分達が滅びかけた原因の排除だ」
「…………」
苦々しい顔で語られる傭兵の言葉に、イオは無言で――だが小さく息を呑む。
眼前の男が語った話は、田舎の村娘に過ぎない彼女にとって理解の難しい内容が多すぎた。
それでもだ。分かる範囲の話だけでも、かなりの大事が起きていると、そう理解出来てしまう。
口の中に湧き上がった嫌な味の唾を飲み下し、少女は躊躇いがちに問うた。
「そ、それって、その"何か"と進化した屍喰で、戦いが起こるってことよね……? どっちが勝つとマズいの?」
「どっちもだ。強いて言えば屍喰が勝った方が、幾らかは時間的猶予が生まれそうなんだが……どのみち生態系暴走が発生するだろうよ」
即行で返って来た無情な答えに、少女は小さく呻いて天を仰いだ。
ちなみに答えた傭兵の方も同じように天を仰いでいる。二人で振り仰いだところで、見えるのは空ではなく湿地帯特有の蔓と枝葉の屋根、重たい緑の天井なのだが。
結論からいうと、人類種にとって問題となるのはこの生態系暴走の方である。
穏やかな自然が広がる地域で、これまで築かれてきた生態系をブチ壊す様な異物や災害が発生。
実際にそのバランスが致命的に破綻したとき、座して待てば絶滅必至である動物達が、死に物狂いでその地域からの移動を試みる。
その脱出の過程で、進路上にある村や街が爆走する大規模な動物の群れに呑み込まれてしまうのだ。ようは特殊な自然災害である。
通常の生物でも同様の現象は起こるが、高位の魔獣が原因である場合はその被害規模が数段上だ。大抵は逃げ出す群れに多数の下位魔獣が混じるようになるので当然であった。
「……人里とは別の方角に発生すれば当面の人的被害は免れるんだが……移動した先々の動植物が食い荒らされるから、デカい二次被害が発生する」
「……北方面だと、アタシの村が真っ先に飲み込まれる。別方向でも結局二次被害で冬が越えられなくなる、って訳ね……」
うんざりするほど出て来る悲観的な未来予想図に、傭兵は深々と嘆息し、少女は乾いた笑いすら浮かべた。
――いっそ、あの村に関しては真っ平らになっても良い気がする。
捨て鉢気味な考えが脳裏を過ったのは、奇しくも両者同時である。
実際に事が起これば、被害はイオの村どころか街にまで拡がるので選べる筈も無い選択肢なのだが。
エルシェルが行方不明となったのも、今となっては納得できた。どう考えても三級が単騎で当たる内容では無い。荷が勝ち過ぎである。
「生態系暴走が絡むとなると、二級冒険者でギリギリ適正ラインだ。本当なら、お前にはなんとか村に戻ってもらって避難勧告を出して欲しいんだが……」
「これからどんどん屍喰の行動も活発になるんでしょ? 正直、森を抜ける前に死ぬ自信しかないんだけど」
ですよねー、と言わんばかりに、言う方も言われた方も肩を竦め合う。
皮肉なことに、請けた依頼が当初の予定より遥かに厄介な大仕事であった、という事実が、傭兵と少女の壁を完全に取り払っていた。
厄介事に巻き込まれた者同士の奇妙なシンパシーというやつである。特にイオにとっては身の丈をぶっちぎった死亡フラグの壁がダース単位で迫って来るに等しい。唯一の命綱同然の相手に、変な隔意を向けている場合では無い。
「……ついでに言うなら、村の連中はアタシの言う事なんて聞かないと思う」
「だろうな。仮に運よく森を出て、村はスルーして街まで走るとしても……辿り着いて組合に話を通す頃には、とっくに生態系暴走が発生してるだろうよ」
エルシェルが行方不明となったのは十日前。
その時点で屍喰に進化の兆候があったのならば……報告の為に引き返す時間は無い。
ぶっちゃけカージスとしてもイオに本気で『帰れ』と言う気は無かった。
というか、それが可能な段階は森に入った時点でとうに過ぎていたのだ。ここまで連れて来る前にこの話をしなかったのも、このまま同行させる方がまだ生存率が高い、と判断したからである。
――なにより、だ。
「たとえ独りで森を出れる手段があっても、アタシは帰らないわよ。こんな状況の中に先生が取り残されてる――そんなの、絶対に認められない」
当人がこのまま森から逃げ出すことを拒んでいる。
今の状況が危険なことも、自分では力不足であることも、ここまでの道程で嫌というほぼ理解しているだろう。
その上でこの発言だ。屍喰との初遭遇でこそ醜態を晒したが、本来は窮地に在って肝が据わるタイプなのかもしれない。
「アタシは、誰がなんと言おうとアタシの家族を助けたい。悪いとは思うけど、他は二の次以下よ」
あるいは、師が既に亡骸となっていたとしても。
自分の中の天秤は揺るがない。多くの人間を対の皿に乗せても、師より傾くことはないのだと。少女はそう断言した。
如何に登録前の見習い冒険者といえど、発生直前の生態系暴走の渦中にある人間の発言だ。組合か憲兵にでも聞かれたら査問尋問待った無しである。
世間知らずの小娘の発言なのだろう。
後先考えられない、青臭い子供の考えなのだろう。
――だが。
顔も知らぬ大勢より、ただ一人の大切な誰かを尊ぶ。
そんな身勝手な我儘が、そんな我儘を堂々と胸を張って言える浅はかさが、傭兵は嫌いではなかった。
「やれやれ……それじゃ、引き続きお前の師匠を探すとしよう……そのついでに、生態系暴走も止めるとするか」
「当然。それがアンタの請けた仕事だし、アタシの目的でしょう?」
斯くして、両名は当初の予定通りに森の中心――その近くにある湖と野営地を目指す事となる。
二級傭兵と、登録前の見習い冒険者。
立場も肩書も実力差もデコボコ具合が酷い二人は、それでもこのときばかりは同じように不敵に笑い、大仕事に挑む決意を見せたのであった。