屍食鬼 Ⅳ
「あれが目印の湖か」
なだらかな坂の下に見える、お世辞にも澄んでいるとは言えない湖面を眺め、呟く。
湿気た枯れ木や枯れ藪ばかりであった湿地帯を東へと向かい、遠目に小さな湖が見えたら南へ。
村から出た後に、エルシェルが向かったという森への簡単な道順を思い出しながらカージスは歩を進めていた。
空は相変わらず曇天なのだが、所々に雲間から陽光が差し込むようになってきた。このまま雨は降らずに夜には星空が見える可能性は高そうだ。
空から地に視線を引き戻すと、ぬかるんだ地面に複数の獣の足跡を見つけ、しゃがみ込んで確認する。
(……狼か。群れは少数、痕跡は浅く、生乾き……既に結構な時間が経過している)
ここ最近の気候や周辺の土地状態を考慮しつつ、丁寧に検分――そして特に気に留める要素は無いと判断して立ち上がった。
「こんなところにある獣の足跡を丁寧に見てどうなるのよ、先生が向かったのは森なのよ?」
「分からんのなら口を閉じてろ、新人」
背後からの聞こえる、苛立ち混じりな疑問をにべもなく切り捨てて歩き出す。
声の主――イオは、やや速足となった傭兵を慌てて追いかけてきた。
「ちょっと! それなら説明しなさいよ説明!」
懲りずに投げつけられる甲高い声に、今度こそ大きく吐息が零れる。
溜息ばかりついていると幸せが逃げる、などと先人は言ったものだが……そもそも幸福とは言い難い状況だから溜息が漏れているのではないか。
少なくともカージスの幸せは既に逃亡済みである。具体的にはこの依頼を受けた辺りから、既に遥か彼方にランナウェイを決めていた。
「俺もランナウェイしたい」
「なに訳分かんないこと言ってるの。頭大丈夫?」
俺の感じてる倦怠感は八割方お前のせいだよ糞餓鬼、という罵倒は寸での処で口内に留まってくれた。
主な原因とはいえ、現状に関して小娘に当たり散らさない程度には彼も大人なのである。
「ふん、先生なら分り易く説明してくれるのに……二級って言ってもやっぱり男ね、同行者に対する気配りが足りないわ」
「九割お前のせいだよ糞餓鬼」
我慢にも限度があるけど、大人なのである。一応は。
赤毛の少女――イオを仕事に同行させる。
どう控え目に言っても無茶でおかしい村長の要望に、カージスが疑問を抱いたのは当然であった。
だが、イオが小さく畳まれたメモを押し付けてきたことで、その理由も直ぐに判明する。
「村長がアンタに渡せって言ってたわ」
言葉通り、それは村長からの伝言だった。
結構な長文だ。たいして大きくもない紙切れに、長々と文章が連なっている。
依頼を出したときと同じく急いで書き散らしたのか、やや斜めに傾いだ文字列にざっと目を通し……傭兵は頭痛を堪えるように眉間を指先で抑えた。
(あの爺、根負けしやがった……!)
思わず舌打ちが漏れるのも宜べなるかな。
手紙、というより長い走り書きに書かれていたのはイオの言葉通り、彼女を依頼に同行させてやって欲しい、という要望。
村から出ないように強く言い含めはしたが、どうしても首を縦に振らないこと。
おそらくこのままでは、自分や周囲がどう言おうと一人で森に向かうであろうこと。
そんな自殺と然して変わらない無茶をさせるくらいならば、カージスに同行させてお守りをお願いしたい、ということ。
要約すればそのような内容であった。勿論依頼料はその分上乗せする、面倒をかけて申し訳ない、という言葉で〆られている。
文面には申し訳なさが滲みでている――が、直接伝えずにメモで伝えてくるあたり、口頭では口にした瞬間、即座に突っぱねられるような話であるとは理解しているのだろう。
それも当然だ。無茶な追加条件の理由は判明したが、それに納得するかは別の話である。
というか、本来ならば普通にお断りの案件だった。素人より幾らかマシ程度の見習いを、三級が行方不明になった現場に連れて行くなど正気の沙汰では無い。
人道だの配慮だの、それ以前の問題なのだ。他の傭兵であっても、安全マージンの重要性を理解できる者なら難色を示すだろう。
カージスも一応はこの業界の上澄み――常人と比べれば怪物じみていると言われる高ランクの傭兵だが、決して無敵の超人ではない。
有事の際に足を引っ張られては、自分の身まで危うくなるのである。
そう、場合によっては依頼そのものをキャンセルする事も選択に入れる程度には無茶な話なのだ、本来は。
だが面倒なことに……非常に面倒なことに、今回の仕事は"要請依頼"である。
組合からの問題児扱いを払拭する為に請けた仕事で、依頼人のもとまで向かっておいて「後出しされた条件がクソなんでやっぱ無し」というのは後で面倒くさいことになるのは明白だ――主に組合への説明とそれに対する裏取りで。
では、どうするのか。
喧しいお荷物を連れた厄介な依頼をこなすか。
お守りの方は突っぱねて、あとで依頼主と揉める可能性も考慮しつつ、当初の仕事だけを行うか。
もしくは、後出しの追加条件を理由に依頼自体をキャンセルするか。
大枠ではこの三択になる。
二番目か三番目を選びたいところではあるが、やはり要請依頼という前提もあって、カージスは悩んだ。
依頼自体の難易度、かかる時間、依頼料、断った際の組合への説明や諸々の精査待ちと要請依頼の再受注の手間。
全てを脳内で秤に乗せ、吟味して。
結局彼は、イオの同行を許可することにしたのだ。不承不承だが、本当に不本意だが。
見習いを連れ歩くことは確かにリスクは高い。
が、ぶっちゃけ死なせない"だけ"ならば難しくはないだろう、元より急遽無理矢理に追加された条件であるし、それ以外は知ったこっちゃねぇというのが結論だ。
何より、要請依頼でこれ以上ゴタゴタと時間を浪費すれば、それだけで彼の辺境での長期休暇が終わりかねない。それでは本末転倒である。
そんな様々な理由を以て、見習い冒険者イオを連れて森へと向かうことになったカージスであるが――。
「はぁ……なんでこんな男と一緒に……アタシ一人ならとっくに森に着いてるのに」
延々と聞えよがしに呟かれる文句に、早くも自身の選択を後悔し始めていた。
通常の獣、魔獣問わずに痕跡を見つける度に丁寧に検分を行う傭兵に対し、疑念や呆れを隠しもしない少女。
たしかに、湿地での歩き方はそれなりに学んでいるようだ。先程など泥に残った獣の足跡――そこから予想出来る群れの数を、カージスと同程度の早さで把握していた。
総合的にはまだまだ冒険者のいろはの"い"の字を学んでいる最中、といった感じではあるが……どうやら師であるエルシェルはかなり丁寧に基礎を仕込んでいたらしい。
見習いとして見ても出来てない・理解していないことは多いが、逆に"出来る"部分においては街で燻っている五級、六級などよりは余程優秀であった。
だが、出来ない部分の――とりわけコミュニケーション能力に関しては襤褸雑巾のごとし、である。
「とにかく、さっさとしてよね。一刻も早く先生を見つけたいのに、あんたのゆったりとしたお遊びに付き合うほど暇じゃないの」
これだ、まず口が悪い。
勿論、口調や言葉遣いはもっと荒んだ奴がゴロゴロいる。単純に言動が迂闊なのである。
負けん気が強そうなのはプラス要素だが、遥か格上のカージス相手にも虚仮にするような態度を改めないのだ。エルシェルは何故コレを真っ先に矯正しなかったのだろうか?
「そもそもそんなゴツい手斧を腰に下げてるのに、なんで鋼の棒まで背負ってるの? 先生が『武器をいくつも持ってる冒険者は、大昔にいた特級の真似がしたいだけの馬鹿』とか言ってたけど、まさか二級のくせにアンタもそんな類?」
話題は既に飛び火に次ぐ飛び火で全く別のものに変わり、尚且つ言いたい放題である。迂闊に敵を多く作りそうな発言の多い娘であった。
事あるごとに男がどうのと口にしているので、男嫌いの気でもあるのかもしれない。
基本はスルー、ときたま雑に短く返答しながら、カージスは征く道の探索に集中する。
傭兵は血の気が余った人間が多い職種だ。
組合に登録すらしていない半素人に舐めた台詞を吐かれて、穏便にスルーしてくれる者は少数派である。
そういった大多数の"極一般的な傭兵"が今回の依頼を請けていれば、最悪イオは足をへし折られて縛られ、村に転がしておくことで追加条件の完了、とされていただろう。
二級であるということを差し引いても、傭兵の中では相当に我慢強い部類であるカージスがやってきたのは、実は彼女にとって結構な幸運だったりするのである。
もっともこの男はこの男で、一定ラインまでの閾値が高いというだけ――ライン越えした瞬間に躊躇なく頭蛮族な腕力ムーブに走る悪癖がある。
最後まで少女の顎が無事で済むどうかは……現時点だと中々に怪しいと言わざるを得なかった。
「ねぇ、アタシの話を聞いてる? さっきからずっと無視して、陰湿な男ね。これだから――」
「そもそもエルシェルが森で行方不明になった、という情報も確定じゃない」
いい加減に小娘のやかましい囀りも鬱陶しくなったのか、カージスは振り向きもせずに淡々と説明を始める。
「あくまで森に向かう、というお前の師匠が残した言葉が根拠というだけだ。予想外の"何か"に遭遇していた場合、それが森ではなくその途中だった可能性もある」
「…………あ」
呆気に取られた呟きは、少女がようやっとソレに思い当たった証左であった。
根付きの冒険者による観察眼は、その馴染んだ土地限定であればカージスより遥かに上だろう。
小さな異変や違和感を見つけ、森では無く湖やその向こうに進路変更した可能性は十分にあった。
なので、土地勘の無い傭兵はその分時間をかけて調査を行う必要があるのだ。
「…………ッ、そ、それならアタシだって!」
「俺はお前の師匠じゃないし、これは訓練でもない。この程度のことも分からん奴に任せる仕事は無い」
それでも何かを言おうとするイオだが、容赦も配慮も無い正論で反論を両断され、黙り込む。
あるいは、彼女がそういった諸々を自分で汲めるだけの判断能力があれば、分担して二人で各種痕跡の調査を行ったかもしれない。
が、赤毛の少女は延々とカージスのじっくりとした探索に文句と愚痴を垂れるばかりで、その理由を考えもしなかった。
論外、戦力外。大人しく後ろについてくるだけにしろ。
呆れも怒りもない、極めて平坦な声と口調はいっそ清々しいほどに彼女を"ただのお荷物"と断じている――少なくとも彼女はそう受け取ったし、実際ほぼ正解であった。
「……こ、のっ……嫌な奴……!」
「そりゃひどい誤解だ。お荷物の相手をしてやってるだけでも紳士的だぞ、俺は」
誤魔化しようもない形でやり込められ、歯軋りでもしそうなイオに向けてカージスが涼しい顔で嘯いてみせる。
鼻っ柱が折れた、という程でもないだろうが……一旦は静かになった少女の様子に満足し、そのまま調査を再開するのであった。
少なくとも、行道に妙な魔獣の痕跡や魔力の残滓は無い。
そう判断した傭兵は、そのまま当初の目的地である湿地帯奥の森林へと向かう。
湿度と天候の悪さもあって、平地であってもあまり見通しのよくない湿地帯であるが、森へと近付いたことで周辺の様相も変わってくる。
ぬかるんだ泥土ばかりの地面は湿った岩肌と、それを覆う苔むした緑の絨毯となり、湿地に適した樹々が群を為して連なるようになり、伴って昆虫や小動物の気配も増えた。
「やれやれ、やっと幾らかは歩きやすくなったな」
「…………」
苔で多少滑り易いが、泥よりはマシだとばかりに革長靴に包まれた脚をプラプラと振る彼に対し、イオは反応せずに無言である。
どうやら反骨心で無視を決め込んでいる……それだけではなさそうだ。口数は減ったが、それは不満で口を噤むというよりカージスの探索する様を観察しているが故であった。
先達を見て学ぶ――どんな事柄でも普遍の勉強法だが……個人的な好悪はさておき、彼女は漸く先を歩く傭兵を『格上の類似職』と認識したようである。
僅かに強張った顔つきを見るに、緊張しているのだろう。感情的且つ勢い任せに単独で森に向かうと主張していた少女だが、実際に師が行方不明となった現場――多数の魔獣が生息している地を前にして、焦燥で焦げ付いた頭が冷却された様子だった。
「森は初めてか?」
「……狩りの練習で、入ったことはあるわよ。先生に付き添ってもらって、浅く、だけど」
「まぁ、そうじゃなければ流石に独りで森に向かうとは言い出さないか」
普段通りを装い、それでも不安と緊張が隠せていない少女を横目で見て、カージスはちいさく鼻を鳴らす。
「とはいえ、その様子じゃ無謀なことには変わらんな」
「う、うるさいわねっ、それでも行くのよ! ――先生は、アタシの家族同然の人なんだから!」
「家族、ね。まぁ、身内を大事にすること自体は悪いこっちゃないが」
恐れを誤魔化す為もあるのだろう。まだ棘が残るものの、幾らかは普通に会話するようになったイオに肩を竦めて返事をして、そこで傭兵は動きをピタリと止めた。
「……? なによ急に」
「血の臭いだ」
疑問に端的に応え、手振りで音を立てるなと告げる。
狩りの練習中、師と行動していて同じような状況があったのだろう。すぐに察したらしいイオも表情を引き締め……というより強張らせ、腰を落として背の短弓に指を伸ばす。
まだ動くな、と彼女を視線だけで制し、カージスは足音を殺して20メートルほど先にある大きな岩へと身を寄せた。
その陰から、反対側の景色を覗き込み……数秒ほど観察すると肩の力を抜く。
「魔獣同士の戦闘痕だな。既に争い自体は終わってるか」
一応は警戒を続けつつ、彼は岩の陰から出て、鉄錆の如き臭いが立ち上るその場へと歩み寄る。
小規模な群れ同士でカチあったのか、そこにあったのは複数の屍喰と山精の死骸、もしくは散らばったその残骸であった。
散乱する手足や肉片、多量の血が樹々や岩肌にぶち撒けられ、目に見えた腐敗こそまだ無いが場所が場所なので既に蠅が集り始めている。
水分が抜けて落ち窪んだ屍喰の眼窩を観察して、カージスはふむ、と呟いた。
(湿気のせいで血臭は強いが……半日近く経過してる。どっちが勝ったにせよ、群れの生き残りは移動済みだろう)
危険は無い、そう判断してイオに手招きで合図する。
弓を構えたままの少女は、おっかなびっくりといった様子で近づいてきた。
「うわ……これが、魔獣……」
「見るのは初めてか?」
「……屍喰の方は遠目になら見たことあるわ。こっちの、狼みたいなのは知らないけど」
「山精。山に棲んでる下級の邪精や妖精が獣の死体を乗っ取って生まれる魔獣だ。狼の姿で広く知られているが、実際は山猫や狐なんかの肉食系の中型動物にもとり憑くし、魔力の強い個体は熊なんかも対象にするらしい」
憑かれた動物は眼球と舌が不自然に黒ずんでいるので、そこで見分けろという追加の説明に、へぇ、という含みの無い関心した声が返った。
少々腰が引けているが、興味深そうに二種の魔獣を見比べる少女。
そんな彼女を眺めながら、結局は引率じみた真似をしてるな、と内心で自嘲しながら苦笑いするカージスである。
それはさておくとして、この惨状には気になる点があった。
「この二種で争い、か……」
「……何かおかしいことでもあるの?」
顎を撫で擦り、唸りながらの言に、まだまだ知識不足である見習い冒険者から当然の問いが飛ぶ。
「とり憑いた動物の習性に引き摺られる山精はともかく、屍喰には縄張り意識、というものは殆ど無い。ましてやこいつらの主食は屍肉――それこそ魚や虫だって食うんだよ。森には他の餌も豊富だろうし、同格に近い相手と群れが半壊するまで殺し合う、ってのは不自然だ」
後進への親切心、というよりは自身の考えを整理するために、傭兵は敢えて懇切丁寧に説明を行った。
そう、この周辺で見かけた屍喰は、奇妙な行動が多い。
最初に出会った青年を襲っていたこともそうだ。本来わざわざ抵抗の激しそうな大型の動物を襲うことはほぼ無い筈の生物なのである。
よほどの飢餓状態にあるのなら話は別だろうが……あのときの屍喰達は見た目からして栄養状態も悪くなかった。
故にあの一件は、村の青年と屍喰が突発的且つ近距離で鉢合わせたせいで起こった交通事故のようなもの、と判断したのだが……。
「他の魔獣にまで喧嘩を売ってるとなると、あれも只の偶然とは思えないな」
「それじゃ一体何が起こってるの? 先生が行方不明になったことも関係してるの?」
「……推論は幾つかあるがどれも根拠に乏しい。現時点ではなんとも言えん」
平常のトーンではあるが、何処か言葉を濁しているようにも感じる傭兵の言葉に、眉をひそめたイオが更なる疑問をぶつけようとして――唐突に傭兵が腕が伸ばされ、彼女と眼前に広がる森林を遮る形で突き出す。
「下がれ、来た」
森を睨み据えて告げられた忠告に少女が何か反応を示すより先に、鬱蒼と生い茂る森林から幾つもの影が飛び出した。
先頭を駆けるのは手傷を負った狼――黒ずんだ眼球を見るに山精だろう。
そしてそれを追い立てる形の四匹の屍喰であった。
「ひっ!?」
短い笛音のような悲鳴を上げ、後退るイオと無言で腰の手斧を鞘から抜いて構えるカージス。
対極の反応を見せる二人の眼前で、この場にある死骸達と同じく、群れで争っていたらしい魔獣達は焼き直しとばかりに殺し合いを繰り広げる。
とはいえ、既に趨勢は決していた。
両者共に傷だらけとはいえ、山精は既に一匹。しかも足を負傷している。
対する屍喰は一匹の片腕が千切れているが、残る三匹は噛み傷や裂傷が数カ所、皮膚を穿って出血しているだけだ。傷自体も浅く見えた。
既に動きの鈍い狼の魔獣に、屍喰らいが次々に群がって喰らい付き、爪を振るう。
血飛沫が上がり、断末魔の悲鳴は喉笛に牙を突き立てられたことで途切れて消えた。
既に力を喪った狼の四肢に、胴に、屍喰達が擦過音の如き雄叫びを上げながら爪と牙を次々と捻じ込んでゆく。
肉を潰し、骨が噛み砕かれる音が生々しく湿地帯へと響き渡る。
「う……ぅ、ぐっ……!」
尋常の獣の狩りや捕食とは一線を画す、執拗で徹底的な殺意。それらが齎す凄惨な光景に、イオはみるみるうちに顔を青褪めさせ、吐き気を堪えるように口元を掌で覆った。
一方でカージスは微量の動揺すら見せず、眼を細めてその光景を観察している。
(……喰ってねぇ)
屍喰達は絶命寸前の山精に容赦なく牙を突き立てるも、明らかに咀嚼を行っていない。
噛みつくのも、爪で引き裂くのも、食事の為ではなく仕留めた相手を確実に殺しきる殺傷の為――少なくともカージスにはそうとしか判断出来なかった。
異常事態、そう言えるだろう。
生きた獲物を襲う事を好まず、一方で屍肉であれば同族のものにすら躊躇なく喰らい付く悪食の代名詞が、わざわざ仕留めた獲物を壊すばかりで捕食していないのである。
幾つもの疑問や推論が傭兵の脳裏を奔るが、次の瞬間にはそれらを一旦腹の下に押し込めた。
(理由も原因も分からんが、捕食目的ではなく殺すのが目的。なら――)
本来なら捕食の邪魔をしなければスルー出来る状況だが……即座に自分達へと狙いが移る、その可能性は極めて高い。
「下がれ!」
鋭い一喝が終わる前に、屍喰達が解体していた死骸から顔を上げる。
傭兵は背後の少女がきちんと後退したかを確認する間も惜しみ、相手より先に打って出た。
予想通り、その場にいた人間二人へと狙いを変えた魔獣の群れは即座に四方に散ろうとする。
眼前にいるカージスを無視するような動き――その意図は明白だった。より仕留め易い方を、イオを真っ先に狙ったのである。
が、それを許す訳もない。
俊敏な魔獣達に倍する速度の踏み込みが、魔獣が散開しきる前に間合いを潰す。
彼の脇を抜けて少女へと腕を伸ばそうとしていた隻腕の屍喰に向け、擦れ違いざまに手斧を一閃。右脚が付け根から斬り飛ばされて宙を舞う。
跳躍の態勢に移っていた個体に追い縋り、肩口へと斧を叩きつける。
練度の高い身体強化から繰り出された斬撃は頑強である筈の魔獣の骨肉を裂き、容易く袈裟懸けに両断した。
お次は高く跳躍し、傭兵の頭上を跳び越えて少女を襲おうとする三匹目の屍喰だ。切り返した手斧が振り上げられ、投擲される。
高速で回転する斧にほぼ真下から強襲を受け、腹を脊椎ごと抉られた個体が血と臓腑を撒き散らして地へと落下。重い水音をたてて湿った大地へと転がった。
武器を投げつけ、無手となったカージスを見て好機と判断したのか、単なる本能か。
残る一匹が両腕を振り上げ、飛び掛かって来て――背負った鋼棍による抜刀の打ち下ろしに頭部を粉砕される。
この間、数秒。いざ始まれば秒殺であった。
不意の遭遇戦に近い戦闘だったが、特に問題無く終わったとカージスは止めていた息を吐きだして――。
「ひっ……ひぃっ、や、嫌ぁっ!」
「これはひどい」
振り返ると、そこには。
片腕と片足を失って這い擦るばかりである屍喰に足首を掴まれ、尻もちをつきながら半泣きになって短剣を振り回すイオの姿があった。
腰が抜けたのか、ずりずりと後退しながら腕を闇雲に振り回す様は、中々にみっともない。
血生臭い鉄火場に対しての、年相応の少女らしい反応。といえばその通りなのだが……これまでの強気な言動からは想像もつかない錯乱っぷりである。
魔獣と相対するのが初めてだったとはいえ、これまで普通の獣相手に狩りはしていたというイオ。
命のやりとり、という一点は既に体験済みだと思ったのだが……こうまで取り乱すのは、流石に予想外が過ぎた。
ここに来る間にも一度は思ったことだが、彼女の師であるエルシェルはどういう指導をしていたのだろうか。
「ひぃぁあぁぁぁぁぁぁっ!?」
死にかけの屍喰に圧し掛かられ、更なる悲鳴を上げている少女を見て、カージスは棍を背に戻すと眉間にそっと指を這わせ、目元を軽く揉み解す。視覚情報が原因で頭痛を覚えた気がしたからだ。
彼は無言で片手を頭上に掲げると、上空へ投擲してようやく落ちて来た手斧をキャッチした。
それをそのまま、這いずる魔獣の後頭部へと無造作に投げつける。
すこーん、と妙に軽快な音をたてて刃が頭へとめり込み、顔中の穴から圧し出された血液を発射させながら絶命する屍喰。
正面からその顔面血飛沫を浴びたイオは眼を見開いて硬直し、そのまま頽れた魔獣の死骸に押し倒された。
「一応確認しておくが、無事だな?」
声をかけるも、反応が無い。
怪訝そうに眉根を寄せたカージスは仰向けに倒れ込んだ少女の傍へと向かい、覆いかぶさっている魔獣の死骸を掴んで横に放り投げる。
「おい?」
「…………」
再度呼びかけるも、返事は無い。
イオは気絶していた。見事な白目を剥いて、泡まで吹いて。
「えぇ……」
なんともいえない気分になり、傭兵は呆気にとられた顔で呻く。
更に、意識を飛ばした少女の履いたズボンからじんわりと液体が染みを広げているのを見て取り、急速な疲労感に襲われた。
「どうするんだよコレ」
散乱する無数の魔獣の死骸と、失神と失禁のコンボを決める少女に囲まれ、天を仰いで誰とはなしに問い掛ける。
当然、答えが返って来る筈もなく。
捜索は始まったばかりであるというのに、あまりにも大きく膨らむ前途多難の予感に、独り、頭を抱えたのであった。