屍食鬼 Ⅰ
リハビリ作でござる。
曇天の空の下、足を取られぬようにぬかるんだ地面を革長靴がしっかりと踏みしめる。
枯草の混じる鬱蒼とした湿地を迷いの無い足取りで進むのは、中肉中背の傭兵然とした男であった。
濃い灰色の瞳はともかく、邪魔にならない程度に適当に切られた白髪はそこそこに眼を惹く……が、それも大きな街にいけばちらほらと見かける程度のものだ。
それなりに使い込まれた旅装の各所を、これまた使い込まれた硬革や金属で補強しており、背には金属製の棍、腰には大ぶりの手斧。紐を肩に引っかけるようにして旅の荷が入った袋を背負っている。
先にも述べた通り、旅の傭兵か冒険者といった出で立ちは、この辺境においても特段珍しいものでもない。
獣道よりは幾分かマシ、といった風情の道を歩くその歩に乱れは無いが、表情はやや面倒くさそうな顰め面であった。
「思ったより時間がかかったな」
延々と続く湿地を前に、これなら街で馬を借りれば良かった、と男は小さくボヤく。
そのまま空を見上げ、陰気な空模様に眉間の皺を深くする。
雨でも降られると面倒だというのは言う迄も無い。見渡す限り湿気た泥の地面と萎びた草木では、碌に雨宿りも出来ないのは確実だ。
(そろそろ目的の村に近いとは思うが……)
さて、どうするかと男は思案した。
さっさと到着すれば庇の心配は無くなるだろうが、思ったよりも時間がかかった場合は雨に打たれる羽目になる。
少しばかり濡れた程度で体調を崩すほどやわではないが、装備一式が無意味に濡れるのは遠慮したいところであった。生乾きの革は中々に匂うのである。
いっそ荷袋から防水衣を引っ張り出そうか、などと悩みながら歩を進めていると。
遠くに聞こえる鳥の声と革長靴が泥を踏みしめる粘りのある水音ばかりを聞いていた耳が、別の音を拾い上げた。
泥を跳ねる乱雑な足音、くぐもった獣の如き呼吸音――そして、罵声混じりの悲鳴。
男は舌打ち一つすると、荷物をその場に落とそうか半瞬だけ悩み……結局はそのまま走り出す。
街にほど近い、整備された道ならば兎も角、こんな泥地に荷袋を落として泥まみれにするのは出来れば避けたかった。
何より、これから向かった先にいる者が自身の荷に泥水を吸わせてまで助けるべき者か知れたものでは無い。
大陸の中央都市周辺ならば、人助けに謝礼の一つでも期待できるが、辺境のド田舎では望み薄――どころか、怪しい余所者として詰問されるなどというクソッタレな反応が返って来る可能性すらあった。
故に、あくまで放浪者として持ち合わせるべき最低限の人道に則って、男はそれなりに急いでぬかるんだ地を踏み込み、泥を後方に跳ね上げながら陰気な湿地を疾走する。
いっそ一足遅ければ楽かもな、などと薄情な思考が脳裏に掠める男ではあったが……争う音の聞こえた場所がそう離れたものではなかったのは、悲鳴の主にとっては幸運だったのだろう。
背丈の高い、藪にも似た枯草を蹴倒して、男は複数の気配が入り乱れる場へと一直線に到着した。
「ひっ、ヒィィィッ、や、やめろぉ、クソォ!?」
「屍喰か」
腰にぶら下げた手斧の柄を握り、充分に警戒しながら飛び込んだ先には複数の小柄な異形に集られる、辺境の村でよく見る服装の若い男の姿。
屍喰とは、文字通り死肉を漁る魔獣の一種である。
動物の屍であれば種を問わず――それこそ同族であっても喰らう為、豊かな森から戦場痕にまで出没する、大陸全土で見てもポピュラーな獣と言って良いだろう。
一瞬だけ若者の全身を視界に収め、左腕のやや深めの裂傷以外は擦り傷と泥汚れだけである、と判断した男は直ぐに意識を異形――屍喰の群れへと集中した。
数は四匹。背丈の低さや前傾姿勢の二足歩行は、端的に言って皮を剥がれた猿を思わせる。
だが、猿には無い不自然な程に発達した爪と乱杭歯にも似た不揃いの牙は、歪なれど魔力に適合した動物……即ち魔獣によく見られる特徴だ。
屍喰達は男を食事の邪魔者だと思ったのか、はたまた新鮮な獲物の追加だと思ったのか。
仕留める直前であった村人から背を向けて振り向き、一斉に擦過音にも近い威嚇の唸り声を上げる。
それに特に怯む事無く対峙した男は手斧から手を放し、おもむろにズボンのポケットに手を突っ込んだ。
取り出したのは何のことは無い、ただの石コロである。
男自身も何処で拾ったのか忘れた、特徴の無い丸石だ。コンパクトな動作でソレを握った右腕を振りかぶった。
「ピッチャー第一球」
投げました、と呟きながら堂に入ったフォームから繰り出された投球は、凄まじい剛速球となって村人の一番近くにいた個体の脳天にめり込む。
グシャ、という投擲というより鈍器を叩きつけたような音が湿地に響き渡り、潰れた頭部から眼球を発射させながら屍喰は吹き飛んだ。
凄惨な死に様であるが、元より様々な屍を貪り喰う種族。彼らに同族の死に様を見て怖気づく、という情緒は無い。
新たな獲物が見せた明確な敵対行為に、残った三匹は再び擦過音の如き鳴き声を上げると一斉に飛び掛かって来た。
それは獣に相応しい俊敏さであったが、今度こそ手斧の柄を握り、腰の鞘から外した男は最初に接敵した屍喰の振り上げた腕を、その鋭利な爪ごと斧で叩き斬る。
肉と骨を裂き、腕を斬り飛ばした一撃はそのまま胴を割って身体の半ばまで埋まり。
絶命した屍喰がめり込んだ手斧が振り回され、後続の個体へと叩きつけられる。
仲間の死体ともつれて絡み合い、転倒する個体を飛び越え、最後尾の一匹が涎を撒き散らしながら大口を開けて男の首元を狙った。
「口が臭ぇ」
低級とは言え魔獣の一種、その速さは常人ならば反応も出来ずに喰らいつかれて終わるものではあったのだが――男は普通にその動きを眼で追い、普通に拳でカウンターを合わせた。
汚ねぇから閉じてろとばかりにアッパーの軌道で跳ね上がった拳が屍喰の顎を捉え、強制的に閉まった口の隙間から砕けた乱杭歯と千切れた舌が飛び出て宙を舞う。
殴り飛ばされ、自身の牙や舌と共に宙を舞った屍喰であったが、間髪入れずに男は追撃を加える。
黒ずんだ血の尾を引きながら頸部へと吸い込まれた手斧は、宛ら断頭台の如き鋭さで以てその首を斬り飛ばした。
すっ飛んだ頭部がくるくると回って滞空し、首無しとなった胴体は黒の混じった血を撒き散らしながら一足先に泥の中に倒れ込む。
この時点で転んだ個体は圧し掛かる仲間の死骸を押し退け、背を向けて逃走を開始していた。
恐怖を覚えるような知能や情動は無くとも、勝てる相手とそうでない相手を判別する能力はあったらしい。
尤も、その判断は遅きに失したものであった。
散々に屍喰の血を浴びた手斧が風を切り、唸りを上げて投擲される。
それは四つ足になって遁走する個体の後頭部に直撃すると、ボンッという軽い破裂音を立て、最後の一匹の首から上は弾け飛んだ。
頭部の無い状態でヘッドスライディングを決める屍喰の死骸に一瞥もくれることは無く、男はぬかるんだ大地に突き刺さった自身の得物を引っこ抜く。
そこで漸く、彼は一応は助ける対象であった人物へとまともに視線を向けた。
「え……ぁ……な、なにが……?」
血で汚れた左腕を抑え、泥の上に尻もちをついている若者は呆けた顔で転がる魔獣の死体を眺めている。
「よう、無事か?」
言わずもがなの台詞ではあったが、取り敢えずは建前と様式美を兼ねて問うた男の言葉に、若者はやっと我に返ったようだ。
手近な枯草を毟り、斧にこびり付いた血糊やら魔獣の内容物やらを拭っている男へと、戸惑いが残る震えた声が返される。
「あ、あぁ……助かったん、だよな?」
「一応はな。まぁ、運が良かったんじゃないか?」
じわじわと生存の実感が湧いて来たのか、表情に明るさが浮かんで来る若者へと、男は気の無い素振りで応じた。
屍喰は本来、積極的に生きている動物を襲うような生物では無い。
が、いざ争うとなれば体格以上の膂力と見た目通りの俊敏さ、そして最低でも数匹の群れによる行動と、心得の無い人間では戦いはおろか、逃げる事すら難しい。
再三言うようだが、悲鳴を聞いてから男が駆け付けるまでニ十秒弱、襲われていた若者が腹を裂かれて腸を貪られていなかったのは、実に幸運と言えるだろう。
「とはいえ、傷の手当をした方が良いぞ。特にその腕、放っておいてよい深さじゃないしな」
淡々と指摘しつつ、立ち上がろうとする若者に手を貸してやって引っ張り起こす男の言葉に、当の若者は苦笑いを浮かべた。
「あぁ、早く傷口を洗って、手当しないとな……う、ぐっ……ハァ……畑の収穫が終わっていて良かったよ」
生命の危機が齎す興奮状態から覚めたのか、傷が痛みだした様子で彼は小さく呻く。
やはり近隣に住んでいる村人らしい。そもそも服装からして旅人のソレではないので、予想はつくのだが。
襲われた経緯や、そもそも生きた獲物を狙う事が稀である屍喰に襲撃された理由、色々と気になることは多かったが、取り敢えずは《《目的地》》への取っ掛かりが出来たということで、男は一旦、疑問を棚上げする。
「もののついでだ、ロハで村まで送ってやる」
「……そ、そりゃ有難いけど……」
肩を竦めて告げられたアフターサービスの言葉に、若者の顔に驚きと疑念が混じった表情が浮かぶ。
「あんた、傭兵か何かだろう……? 助けてくれたうえに無料で送るって……何にもない、田舎の村に用事でもあるのかい?」
警戒は湧けど恩義は感じているのか、後ろめたそうな、やや躊躇いがちな声での質問にも特段気分を害した様子もなく、男は血を拭い終えた手斧を腰の鞘に戻した。
そして荷袋の脇に固定してある水筒を取り出すと、蓋を開けて中身を一口呷る。
「あぁ。組合から派遣された二級傭兵のカージスだ。この辺りにある村の村長から依頼を受けてきた――人探し、だとさ」
その言葉に、何か思い当たるものがあったのか。
軽く眼を見開いた若者であったが、男……傭兵カージスは、とりあえず手にした水筒の中身――清潔な真水を眼前の怪我人の患部にぶっかけたのであった。