【急募】悪役令嬢になりたい人
* Chapter1 悪役令嬢の求人来てるってよ
「あーん、またブラック工房だったー。姐さんもっといい職場紹介してよー」
「姐さん呼ぶな小娘。てかせっかく頼んであげたのに説明会もう終わったの?」
「だからまたブラックだったの!」
魔術学校の卒業試験を終えたロッカは、通常授業がとっくになくなっているにもかかわらず、今日も学校に顔を出していた。就職課で受付のお姉さんに泣きついている。
「一般工房の新人はどこだって最初は薬草採取からやらせるものよ。それともドブさらいでもする?」
「そっちはもっといやー。わたしはもっときらきらした世界で生きたいんでーす。でもこのままじゃ無職になっちゃうー」
「あっ、そうだった! あれ言わなきゃいけないんだった!」
「なにかいい募集ある!?」
「三月上旬までに学生寮出てってね」
「おにー」
これまで新人魔術師の求人をあたっていろんな魔術道具店やポーション工房を受けてきたが、めぼしい所は全て落とされた。落とされたというか求人募集が終わっていた。ダメ元で突撃してみたが全て門前払いだった。
しかし、学校に籍を置いておけるのもあと一ヵ月を切った。この時期にまで残っている職場となると相当なブラックだけ。新人は薬草採取からとかそういうレベルではない。
時間外労働手当てなし。給料未払いのまま雇用主バックレ。セクハラパワハラが横行。犯罪行為を強要される。上司や同僚が犯罪者。職場にマフィアが乗り込んでくる――などなど、先輩魔女から恐ろしい話をたくさん聞かされている。できれば普通の工房か国家機関の研究所に就職したい。
「就職まだなのにスキーで骨折なんてするから。だめじゃない、あなた運痴なんだし。先生方の出したあなたの最終評価知ってる? 天才なのにバカ」
「だ、だってみんなが忙しくなる前に卒業旅行いこうって! 青春は今しかないの! それにわたし運痴でもないです!」
「あらあら、いくつになっても恋に落ちたら青春は始まるのよ。お姉さんにケンカ売ってるのかしら」
ロッカは嘘をついた。総合成績は学年一位でも、運動能力だけは底辺オブ底辺の万年最下位である。情緒と運動神経を犠牲にして知能だけを伸ばしたアホの子とか言われていたりする。
運動能力は魔術師全体が運動音痴なため、みんな誤差のようなものだが。
「まぁポーションの申し子と言われたロッカちゃんなら、後期入学で大学へ進学するとか、いっそパトロン探して自分の工房持っちゃうとかも……ないか」
「ですね。上に行くのなんて男の子しかいませんよ。それに……」
「一応奨学金もあるわよ」
「ばっちゃの遺言でどんなものでも借金はするなって」
「じゃあ、たまには“壁”で探したら?」
受付のお姉さんがたくさん紙の貼られた壁を指さした。
コネのない普通の学生はみんな受付で仕事を斡旋してもらう。学校と何年も付き合いのある信頼できる工房が多いからだ。だがなにも強制というわけではない。
ただし……受付のお姉さんが言う壁には問題がある。この壁には何でも自由に貼れるため、就職の求人だけでなく魔術師への単発依頼なんかも多い。実績のない学生魔術師を安く使ってやろうという企みだ。お金がなくてバイトを探している一年生や二年生でもこちらの壁募集はあまり使わない。
しかし、背に腹は代えられない。できれば安定した仕事に就きたかったが、こうなったらフリーの魔女として稼げる道を探すのもアリかもしれない。おためしで壁募集を確認してみる。
「ど~れどれ~」
・王都下水道で野良スライム退治
・ドラゴン討伐パーティー参加者求む!あと255人!
・ワイバーンの卵の運搬(※卵はまだ巣にあります)
・国家公認魔術師やめて冒険者になりませんか
・暗黒大陸までの商家護衛任務
・この用紙の右の欄にサインをして役所へ提出してください
「ろくなのない! てか最後の婚姻届じゃん!? こわっ!」
討伐や採取系ならともかく嫁探しは許していいのだろうか。いや、危険な討伐や採取も冒険者ギルドで募集しろという話だが。
周りにいた下級生から不審な目で見られながらも、ロッカは求人を確認していく。端から順に渡り、最後に貼られたばかりの募集で目が止まる。一枚だけラメで加工された場違いなほど上質な紙の求人があった。
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【急募】悪役令嬢できる人!
【条件】年齢:15~16才 性別:女性
身長:164cm 体型:普通~ややふくよか
髪:ブロンド・ロング 瞳色:バイオレット
【報酬】月毎に金貨100枚
【内容】貴族に憧れるあなた 貴族の生活を体験してみませんか
【備考】未経験者可 即日面接可
住み込みでのお仕事となりますので
ご住所のない方やご家族のいない方でも安心です
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「うーわー、これが巷で噂の闇バイトってやつかぁ」
まさにあやしさ満点。
あやしさと胡散臭さしかない求人だった。
まず急募にある“悪役”と“できる人”が謎だ。
仕事内容も意味がわからない。
貴族の生活を体験してみませんか?
なにかのモニター系募集かもしれない。
報酬も破格だ。
条件も指定がやたら厳しい。
「金髪ロングで瞳が紫なんてお貴族さましかいないでしょ」
ロッカは年齢18才。身長164cm。体重54㎏。髪:黒。瞳:黒。
年齢、髪、瞳の色で三項目がアウトだ。
しかし、ロッカはそのよく分からない仕事内容に惹かれていた。
貴族のたくさんいる王都出身ではあるが、下町生まれ下町育ちの庶民派魔女ロッカはこれまで貴族と一切関わりがなかった。
城下町を通りすぎる馬車の窓から顔を覗くことしかできない美しい少女たち。上品な洋服。きらきらと眩しいアクセサリー。イケメンの執事。心の底から羨ましい。
対して自分は、魔女帽から靴の先まで飾り気のない真っ黒け。化粧品だけは貴族が買っている以上の物を自作しているが、どういうわけか遠目に見る彼女たちには美しさで遠く及ばない。貴族子女には庶民にはない何かがあるのだ。
一度でいいから彼女たちのようなハイソな生活をしてみたかった。彼女たちを理解したかった。彼女たちになりたかった。ずっと彼女たちに憧れていた。だから、
『貴族に憧れるあなた。貴族の生活を体験してみませんか』
なんて聞かれたら答えはひとつしかない。
どれだけ胡散臭さくても関係ない。
もう体験なんて面倒だ。
いっそ今すぐ養子にしてほしいとさえ思う。
気づくとロッカは求人票を握って受付に並んでいた。
「じゃあこの求人票、もらって行きますね」
「ロッカちゃん、それあなたじゃ条件が」
「だいじょぶです! 問題があってもなんとかします!」
「でもこれ住み込みって、たまに親の様子を見に行ける範囲で仕事探しますって言ってなかった?」
「家は弟のロミオがいるからそっちもだいじょうぶ!」
「えぇー……」
夕方、求人に書かれていた方法で連絡を取り、指定場所の広場で待っていると豪華な馬車が迎えにきた。中から出てきたメイド達がロッカを取り囲む。
「ほほー、庶民でここまで見事な金髪は珍しい」
「これは確かに……条件は合格でいいでしょう」
「化粧でばけるタイプですね。というか何もしなくてもけっこう似てる?」
「顔より声の方がそっくりじゃない? これなら魔道具も必要なさそう」
「ほらぁ、自分たちで探すより求人出して正解だったでしょ」
「あれで釣れるなんて誰も思わないわよ」
ロッカの家に伝わるカラーチェンジポーションという物がある。瞳や髪、肌の色まで変えられるポーションだ。毛生え薬の研究で髪を伸ばすのもお手の物。効果時間があるため毎日決まった時間にしっかり飲まなければならないが、ロッカはこれで求人条件を満たした。
年齢に関しては――まあただの詐称だ。
多少の差くらい言い張れば押し切れる。
「それでは! いざセレブ様の世界へ!」
「先輩、やっぱりこの子ちょっと不安かも」
「もう他の子を探してる時間はないわ」
ロッカはどきどきしながらお貴族様になった気分で馬車に乗り込む。
しかし、そのどきどきはすぐにハラハラの心臓バクバクに変わった。いきなり詐称がバレたわけではない。隣に座ったメイドが突然目隠しを被せてきたせいだ。手足も押さえられて身動きが取れなくなる。
「んんー(誘拐よ!)んんんーー(誰かたすけてー!)」
黒い布袋をかけられ、馬車は灯りのない裏路地へ消えた。
* Chapter2 悪役令嬢面接試験
「申し訳ございません。採用の内定が出るまで、行き先を知られるわけにはまいりませんでしたので」
布袋から解放されたのは、巨大なお屋敷の中に着いてからだった。
壁に取りつけられた豪勢な燭台。体が沈むふかふかのベッド。恐らくたくさんある客室のひとつなのだろうが、ロッカの実家と同じ広さがあった。依頼主が想像を超えた大貴族だと悟ってロッカの背中が小さく丸まっていく。
雇い主との面接を行う前には、身だしなみを整える準備が必要らしい。メイド達がロッカを真っ裸に引ん剝き、着せ替え人形よろしくドレスを着せていった。
「コルセットは初めて?」
「ぐるちい……で、でてはいけないものが、でっ」
「採用されたら毎日これですから。我慢してくださいね」
肋骨がぎしぎしと悲鳴を上げ、内臓が口から飛び出そうなほど押し上げられる。貴族淑女たちの信じがたい腰のくびれと巨乳はこうして作られているのだ。
ロッカが苦痛のお着替えに耐えている間にも、他のメイドは別の準備を進める。髪には香油を塗り込み、ドリルの様にくるくると巻かれた大きなカールが出来上がる。正面からは、まつ毛に大量のマスカラを盛られ、アイシャドーで目つきの鋭い高圧的なメイクがなされる。丸々一時間かけてロッカは完全な別人になっていた。
「これが……わたし……? うそ、きれい……」
しかし、まんざらでもなさそうだ。うっとりと鏡に映った自分を見つめる。その姿は昔、絵本で憧れた貴族のお嬢様そのもの。少し気は強そうだが、これでこそ貴族の女性だとロッカには思えた。もはや自分のことがお嬢様を超えてお姫様に見えている。
「この子の貴族観ちょっとおかしくない?」
「それ、お嬢様への批判にもなりますよ」
「ひぃっ! すいませんすいません、内緒にしてください!」
赤いドレスにヒールの高い靴。慣れない恰好で躓かないようにゆっくりと歩きながら、雇用主の待つ面接室へ向かう。待ち受けていたのは、大きな鏡と芸術的なカイゼル髭を蓄えたお腹の立派な紳士だった。
「まずは名前を伺おうかしら」
一瞬、ロッカは大鏡がしゃべったのかと思った。対面で口を開いたのは大鏡ではない。同じ格好をした少女だった。なんと顔までそっくりだ。自分と違うのは、威圧的とも言えるその圧倒的な迫力だけだ。
「ロッカです。苗字はありません」
「あら、私に物怖じしないなんていいわね。ここまでは合格よ、着席を許可するわ」
高圧的な少女は、ロッカの周りをぐるりと一周回ってから椅子を勧めた。
彼女に物怖じしなかったのは、理想のお嬢様像を叶えた本物を目の前にして舞い上がっていたからである。心の中ではきゃーきゃーと黄色い声で叫んでいる。
「クラリッサ・ベンゼマン。愛称はクラリスよ」
「よろしくお願いします、クラリス様」
「隣が父。ギュスターヴ・ベンゼマンね。ギュスお父様と呼んであげて」
「よろしくお願いします、ギュス……お父様?」
ロッカが頭を下げる。しかし、お髭の紳士は微動だにしない。
クラリスが肘を入れるとびくんと体を震わせて動き出した。
「あ、ああ。今日は娘のために来てくれてありがとう。ここではまだベンゼマン公爵と呼んでくれ」
「公爵様ッッ!?」
思わず声を荒げて立ち上がった。
記憶を辿れば、確かにこの国はベンゼマンという公爵家がある。イグナティス侯爵家と並ぶアンヘリット王国を支える二大貴族の片割れだ。庶民では一生お目にかかる機会すらない天上人。普段のロッカならそのまま平伏していただろう。
しかし、驚いただけで済んだ。なぜだろう。それは本人が何かにびくびくと怯えた空気を出しているからだった。
「ギュスお父様、話は私がするわ。あとは黙っていてちょうだい」
「……わかった」
(娘さんに頭が上がらないのかしら?)
公爵は隣に座るクラリスの様子を慎重に窺っている。
物語で見る貴族には、いつも愛憎渦巻く家庭問題が付き物だった。この親子にも何か複雑な事情があるのかもしれない。自称空気の読める魔女ロッカはスルーした。
「次は、志望動機ね」
「えっと、こどもの頃から貴族のお嬢様ってどんなかなって憧れてて」
「ふーん。それで? 私を見てどう思った?」
「最高です! 素敵です綺麗です! 想像していた通りのお嬢様でした!」
抑えていた気持ちを爆発させたロッカを見て、クラリスはきょとんと目を丸くした。そして、くすくすと愉快そうに声を殺して笑い出す。
「いい、いいわ。あなた、すごくいい。じゃあ次ね。ちょっと笑ってみせて」
「今みたいにですか?」
「いいえ、普段の私を想像してみて」
ロッカが再び椅子から立ち上がる。クラリスやメイドは「なぜ立ち上がる必要が?」と不思議そうに見ていたが、すぐに理由はわかった。
「オーッホッホッホッ!」
ロッカは腰に差していた扇子をバッと広げて上品に口元を隠した。左手を腰にあて、天を仰ぎ見るかのようにふんぞり返って高笑いをはじめたのだ。
まさに物語に出てくる典型的な悪女の笑い方。啞然とするクラリスの表情に、公爵とメイドたちが青くなった。しかし、
「お、驚いた。鏡を見ているみたい」
「どうでしたか」
「あなた才能あるわ。採用」
クラリスは上機嫌だった。ロッカに悪意がないことがわかっていたからだ。ロッカは今も満足そうなドヤ顔でクラリスに笑いかけている。
公爵令嬢の鶴の一声で採用が決まったと喜んでいる暇もなく、クラリスはすぐに仕事内容の説明へ移ろうとする。
「ところで悪役令嬢ってなんですか?」
「え、なにそれ。私も聞いたことないけど」
「あっやっぱなんでもありません。気のせいでした」
「そう? 変な子ね」
ロッカが質問した途端、クラリスの背後にいたメイドが慌てだした。どうやらお嬢様には聞かせてはいけない単語だったようだ。上流階級でだけ使われるスラングなのかもしれないと納得する。
「メイドが求人を出したということで多少は伝わっていると思うけど、あなたに頼みたいのはね、私のみがわ……替え玉よ」
クラリスからの依頼内容はこうだ。
このアンヘリット王国では、未だに女性が社会で活躍する場が少ない。家庭内ではどんなに立場が強くとも、社会に出れば男に仕事を奪われ活躍も昇進もできない。そこで公爵令嬢の地位にある自分こそが、これからの女性を引っ張って行かなければいけないと考えた。
しかし、この国では本気で女性が何かを学ぼうとするのは難しい。本当に邪魔になりそうになれば、男性貴族達は容赦なく妨害してくるだろう。
だからクラリスは秘密裏にアンヘリット王国を出て、他国でより先進的な政治を学んで来ようというのだ。その秘密留学の間、ロッカには春から二年生になるクラリスの替え玉として王都の上級学校に通って欲しい――という依頼だった。
「どう、やってくれる?」
「わたしが……クラリス様の代わりを……」
ロッカは言葉を失う。膝の上で握った手が震えていた。
「素晴らしいです。クラリス様は新しい女性社会を牽引する存在になろうとしているのですね」
「やっぱり! あなたならわかってくれると思ったわ!」
クラリスは感動するロッカの手を取った。
ロッカも魔術学校で同じことを感じていたのだ。学校からどれだけ優秀な魔女が輩出されようと、工房で出世するのも、魔術師協会で上役に居座っているのも、男の魔術師ばかりだ。
なにより――自分が学年で主席なのに、男子ばかりが大手の工房に易々就職が決まっていったのはおかしい。そう感じていた。
「…………何か不安でもあるの?」
学校や生活での注意事項を説明される内、徐々にロッカの顔が青く染まっていった。何事かとロッカに訊ねる。
「あのぉ、私、お金ないんですけど。クラリス様の代わりをするにはその……すごくお金がかかりそうなんですけど……」
魔術学校の卒業は既に決まっている。しかも年齢詐称で面接にきたロッカからすれば、元から替え玉をするのは年下の学年だ。勉学に不安はない。ロッカの不安はもっぱらお金についてだった。
「なにバカなこと言ってるのよ。必要なものはこちらで用意するに決まっているじゃない、当たり前でしょう。ベンゼマン家を舐めないで、公爵なのよ」
「そうなのですか。でもその、お貴族様の生活水準とか、そういったことはとんと知らなくて……」
「欲しい物はメイドに言いなさい。全てよ。予算に制限はないわ。条件はあなたが想像するクラリッサ・ベンゼマンで居続けること。それだけよ。そのためなら何をしても何を買ってもいいわ」
クラリスが笑いながら言った。
あまりに太っ腹な発言を受けてロッカは言葉を失う。
だが、言葉を失っていたのはロッカだけでなくメイドや公爵もだった。メイド長と思わしき人物が、公爵からアイコンタクトを受けて何かを耳打ちする。金満な大貴族様にも限界はある。流石に苦言があるようだ。
「お嬢様どうか」
「なによ、いいじゃない別に……どうせ一週間くらいで死ぬでしょ」
「え?」
それは聞こえてはいけない言葉だった。
耳を疑う一同が静まり返える。
「あ、あの、今なにか言いませんでした? 死ぬ、とかなんとか」
「言ってないわ」
「でも、たしかに声が……」
「言ってない。私が言っていないと言っているのよ? もしかして、あなた霊感とかあるの? 私、幽霊とか嫌いなの。気味の悪い冗談ならやめてちょうだい」
「……ごめんなさい。たぶん空耳でした」
「そう。じゃあ説明が終わるまでもう勝手に質問しないで」
ロッカは雰囲気の変わったクラリスに押されて黙るしかなかった。でもそうだ。これからの時代を代表する素晴らしき女性貴族のクラリッサ・ベンゼマンがそんな不穏な言葉を口にするはずがない。クラリスは満足そうに頷いてから上級学校の説明へと戻る。
こうして、ロッカに公爵令嬢の替え玉というお仕事が決まった。
春からはアンヘリット王国国立上級学校の二年生だ。
しかし、ロッカはまだ気づかない。
これが求人を見て最初に疑ったこと。
正真正銘の闇バイトだったことに。
* Chapter3 悪役令嬢は退かない媚びない省みない
「わたくしの名前はクラリッサ・ベンゼマン。クラリスと呼んでもらってかまわないわ。一年間仲良くいたしましょう。オーッホッホッホッ」
ちょっぴり一人称を変えてみたロッカが鏡の前で自己紹介の練習をしていた。クラリスに褒められた笑い方には特に力が入っている。
過度にひらひらしたドレスでなくとも上級学校の制服は上品で気分がいい。制服もコルセットが吐きそうなほどキツいのはともかく、この清楚で純白な袖に腕を通していると、それだけで上流階級の一員になった気分になれる。このまま踊りだしたくなるほどだ。
「ロッカさん、登校のお時間ですよ」
「おほほほほーい、すぐ出まーす」
「こら返事を続けない、間延びした返事もしない! あとスカート!」
呼びにきたメイドが早速ダメ出しをする。
「ごめんなさい」
「それもなってませんね。お嬢様はメイド如きに頭を下げません」
「そんな、クラリス様は職業に貴賤など求めませんよ」
「ロッカさんは何もわかってな……けどそっちの方がいいかもしれません」
どんなに急いでいてもスカートの裾を翻してはならない。優雅に、穏やかに、ゆったりと、余裕を持って見せるのが淑女の嗜みだ。ロッカはスカートの前で両手を重ね、背筋を伸ばして馬車の前まで歩く。
「抜き足、差し足、忍び足……」
「ロッカ、いや家の外ではもうクラリスだったな。今日が初日か?」
「あっはい、こうしゃ……ギュスお父様。それでは、クラリス様の代わりをしっかりと務めてまいります」
こっそり見送りに来ていたのは、カイゼル髭にお腹のふくよかな大貴族、ギュスターヴ・ベンゼマン公爵だ。
ロッカの言葉を受けて無言のまま頷く。食いしばったあごにシワが寄っているあたり何か言いたそうだったが言葉にならないらしい。しかし、新学年初日から遅刻してはマズい。メイドは公爵を待たず馬車を出発させる。
「クラリスも、あんな素直な娘に育ってほしかった……」
「旦那様……あなたが教育を間違えたせいでは?」
「ああ、完璧にな」
「堂々と認めないでください」
「わかっている。我が子可愛さにロッカには申し訳ないことをした……」
「それを言ったら私達も同罪ですが」
一ヵ月前、本物のクラリスは既にアンヘリット王国を発っている、というか替え玉という名の身代わりを確認してすぐに国を脱出した。何も知らぬロッカのことを想うと、ベンゼマン公爵の顔色は優れなかった。
「わたくしはクラリス。わたくしがクラリス。今日からクラリス。わたくしは――」
ロッカは呪詛のように同じ言葉を繰り返していた。
馬車を下りた瞬間から、自分は別人に変わらなくてはならない。しかも、その相手は敬愛するクラリッサ・ベンゼマン公爵令嬢。庶民である自分に貴族社会を覗かせてくれた恩人。託された務めをしっかり果たさなくてはと、ロッカは改めて意気込んでから扉を開けさせた。
まずはメイドと別れて教室へと向かう――途中で、いきなり崇高な目的意識は頭からふっ飛んでいた。
(うわぁうわぁ、綺麗な子ばっかりだぁ。本当にお嬢様の世界に来ちゃったんだ)
どこを見ても清楚で可憐なお嬢様しかいない。人目をはばからず真っ黒なスカートをばさばさしているようなガサツ女、髪にカビを生やしているような実験中毒の女は一人もいない。魔術学校の生徒とは雲泥の差だ。自分がちゃんとクラリスの代わりをできているか不安になってしまう。
ただ、それよりも気になる不思議があった。
さっきから色んな人と目が合う。
誰もが一度はロッカの方を見ている。
なのに、誰も話しかけてこないのだ。
(クラリス様、人気者みたいだけど……これが縦社会ってやつ?)
爵位には階級がある。ロッカが扮するは公爵家のご令嬢だ。これよりも明確な上は王族しかいない。ぎりぎり同格と呼べる家でも国内にせいぜい四つか五つだけ。庶民のロッカでは話しかけることすら許されない伯爵家のご令嬢も、クラリスの前では一歩後ろへと引いた態度を取るだろう。
(とても、さびしい人生を送っていたのね……)
外国へ飛んだ雇用主にあわれみの情を送る。貴族なんていう裕福な環境に生まれても、人間関係にまで恵まれるとはかぎらないのだ。
でもそれはそれで放置してしまうと困るかもしれない。クラリスは社会を変えるために留学すると言っていた。ならアンヘリット王国に帰った後には仲間が必要になるはずだ。人間一人でできることなどたかが知れている。
(よーしっ、クラリス様への恩返しにお友達を増やしておきましょう)
ロッカは心の中で新しい目標を立てた。教室へ着くまで、自分の新しい立場を考慮しつつ、お友達になれそうな令嬢を見繕っていく。
「やだ、クラリッサ様よ」
「嘘だろッ、ベンゼマンが登校してきただと!?」
「だめよ声に出しちゃ。目をつけられたらイジメられるわ」
「はわわ、どうしようさっき目ぇ合っちゃったよぉ」
「あれは完全に獲物を探す鷹の目だった……」
「だ、大丈夫よ、そろそろ王子様が動いてくれるはずだから」
周囲の声はロッカの耳には届いていなかった。
ロッカが教室に入ると外まで聞こえていたおしゃべりがぴたりと止まった。
クラリスのクラスは、上級学校でも選ばれた上位貴族や他国からの留学生、国を代表する豪商の子息令嬢しかいない特別クラスだ。既にグループができているらしく、仲の良い者同士で固まっている。
一旦席に着く。
お屋敷で聞いた話では、メイドたちが取り巻き一号・二号と呼ぶ令嬢が同じクラスにいるはずなのだが何故か姿が見えない。確認すると席もなかった。所在なく一人で座っているのはどうにもバツが悪いと席を立つ。
「きゃっ」
ロッカがいきなり立ったことで、驚いた女生徒が後ろで転んでしまった。場所とタイミングが悪かったようだ。クラリッサ・ベンゼマンの定位置は窓側の一番後ろと決まっている。
「あなた、大丈夫?」
その生徒は教室の端に飾られている花瓶の水を変えるところだった。手を差し伸べるも女生徒は声を震わせるだけで動けない。ついでになにやら教室が騒がしくなる。
「どうしましょう、レーネ様が捕まってしまいましたわ」
「ですが私たちではどうしようも……」
聞こえてくる声に、ロッカは何を慌てているのかと首を傾げた。
原因は、花瓶の水でスカートが濡れたことだと推測する。上級学校の制服は純白でも生地が厚いので下着が透けるようなことにはならない。しかし、スカートが張りついて脚の線がぴったり見えてしまう。これはいけない。貴族の令嬢は容易く人前で身体を晒すものではないのだ。
ロッカはレーネと呼ばれた生徒を強引に立たせ、バッグから取り出したストールを素早く彼女の腰へ巻きつける。
「これでいいわ。じゃあ保健室に行きましょうか。この学校なら替えの制服の百や二百くらい揃えてあるでしょう」
「え、え、あの、クラリッサ様……? 私、ひとりでも行けますから」
「ストールを巻いても全部は隠せないわ。いいから、わたくしの右を歩きなさい」
敬愛するクラリス様ならきっとこうする。ロッカの頭の中では、常に優雅で人々を魅了して止まないパーフェクト令嬢であるクラリッサ・ベンゼマンが先行している。ロッカはその幻を追って行動するだけだ。
ただ、女生徒はクラリスに愛用のストールを汚させてしまった事実に気づくと、それまで以上に強く震えだした。謝罪をしたいようだが過呼吸になりかけている。
「あ、あああああ、その、ストールは、かな、必ず、弁償いたしますから」
「いいのよ。お金であなたの名誉が守れたのなら、こんなに安いことはないわ。それに少し濡れた程度でストールは駄目になったりしないわよ」
ロッカはふらつくレーネの腰を自分の方へ抱き寄せた。
それで自分のスカートも濡れてしまうが気にする様子はない。理想の淑女になりきっているロッカの顔を見上げ、レーネは顔を赤く染める。
学校ではこれ以上ないほど恐れられているクラリスだが、外見だけで見れば恐ろしいほどの美人だ。切れ長でミステリアスな紫色の瞳からまっすぐに見つめられれば、たとえ同性であっても緊張に息を呑むだろう。ロッカはそのクラリスとそっくりな顔になるようばっちりメイクされている。
「おふたりって実は仲が良かったのかしら?」
「そうよ、でないとクラリッサ様があんなことするはずないもの」
「ならもしかしてあの方、身内にだけはすごく優しいのではなくて?」
「ならいつもの取り巻きはどこへ行ったの。地元の学校に転校したって聞いたわよ」
「それは……ほら、もうクラリッサ様は登校してこないって噂があったから」
「一年の終わりも逃げるように休学してましたし」
「そうだわ。これは新しい取り巻きを作る作戦よ!」
教室の扉をくぐってしまったら、きっともう引き返せないだろう。クラスメイトたちは、レーネが新しい取り巻きとして取り込まれてしまったと心配そうに背を見送る。ベンゼマン公爵家の令嬢には、自分たちでは意見すら言えないのだと。
しかし、それを遮る者が現れた。
「ディアス様よ」
「ディアス様が来てくださったわ」
廊下側から教室の扉を開けたのは、ディアス・アンヘリット。
この国の第一王子である。
最初は女生徒たちの声に応える気もなく、挨拶もないまま舌打ちだけして、ロッカの横を無言で通りすぎようとした。しかし、ロッカがレーネを抱いていることに気づき足を止めた。
「おいクラリッサ。レーネ嬢をどこへ連れて行く。また嫌がらせでもするつもりか」
「はあ? 今、なんて?」
それはクラリスのものとは思えない低くドスの利いた声だった。
突然現れた男。それが挨拶もなくいきなり“嫌がらせ”ときた。今のロッカはクラリッサ・ベンゼマンである。その発言は敬愛するクラリス本人への侮辱に等しい。
予想外の反応にディアスが硬直する。
一年の頃のクラリスはディアス、つまり第一王子の婚約者の座を狙っていた。隙あらばコルセットで盛った胸を押しつけるようにしな垂れかかり身体を密着させる。ディアスの前でだけは媚びた猫撫で声で弱い女を演じる。
その影では、邪魔になりそうな女を徹底的にいじめていた。それも自分には害が及ばないように何重にも策を巡らせて。
そして、クラリスはついにやりすぎた。
心を病んで学校を休学する者や去る者が増えはじめると王族も黙っていられなくなった。学内調査にはちょうど席を置いていたディアスが当たることとなり、クラリスの悪事は狙っていた張本人に露呈することになったのだ。
ディアスの怒りは凄まじく、彼の中でクラリスの断罪はもうほぼ確定していた。それまでの被害や息子娘をいじめられた貴族たちの怒りを鎮めるためなら、最悪極刑もありえると考えていたほどに。
その動きを察知したクラリスの命令により用意されたのがロッカだ。
実のところ、本人にはもはやこの国へ帰るつもりなどない。クラリッサ・ベンゼマンは、危機回避のできる厄介極まりない本物の悪女であった。取り巻きが既にいないことや王子の存在を教えないように仕組んでいたあたりも悪辣である。
「今は時間がないから許してあげるわ。そこをお退きなさい」
「なっ……!?」
「聞こえなかった? それとも状況が見えない? 二度もわたくしに同じことを言わせないでちょうだい」
ディアス・アンヘリットは老若男女が見惚れる貴公子である。しかし、敬愛するクラリスは今女性社会のために外国でひとり真面目に勉強に取り組んでいる。ここで相手がイケメンだからと退くのは違うだろう。
ロッカは肩で突き飛ばすようにしてディアスの横を通り過ぎていった。その男が憧れの貴族よりも上に立つ王族だとも知らずに。
ディアスの前では媚びることしかしてこなかったクラリスの急な変化に理解が追いつかず、担任教師が来るまでクラス中が一言も声を出せなかった。
「クラリッサ……。どんな企みだろうと必ず潰してやるからな」
ロッカと王子の出会いは最悪だった。
* Chapter4 悪役令嬢のノブレスオブリージュ
替え玉として上級学校に潜入してから二ヵ月が経った。
ロッカの頭の中は『クラリス様、お友達100人できるかな計画』でいっぱいだ。でも、なかなかどうして上手くいかない。登校初日に助けたレーネも同じだった。どうにか挨拶くらいは返してくれるようになったけど、やっぱりよそよそしい。ロッカはクラスどころか学校全体で孤高の人となっていた。
「もぉ~、ぜんぶメイドさんがわるいの~……」
枕に顔を押しつけ、暗闇の中で思い浮かぶのはひとりのクラスメイト。ディアス・アンヘリット王子だ。まさか同じクラスに王子様がいるなんて思わなかった。公爵家のメイドたちは意外と連絡漏れが多い。
あれから、生意気な口を利いてクラリスの心象を下げてしまったせいか、ロッカが誰かに話しかけようとすると途端にディアスが飛んできて妨害するようになった。
クラリスのマネをしただけのはずが、王族にたてつく高慢な女だと勘違いされてしまったようだ。クラリスの名誉的にも今の状況は非常にマズい。公爵家と王族であれば、ふたりは以前から関係があったはずなのに、自分がそれを崩してしまった。このままでは敬愛するクラリスに顔向けできない。
「でも、ほんとにとんでもないイケメンだった……あれならクラリス様とも釣り合うよねー。いいなー美男美女。見てるだけでしあわせになれるよ~」
しかし相手が王族だと知ってしまえば、クラリスの恰好をしていても大きな態度など取れないし、緊張して上手く謝ることもできない。ぎすぎすしている間に、ロッカもディアスへの苦手意識がふくらんで、気づけばディアスだけは自分から避けるようになってしまった。
何か現状を打破するような新しい作戦が必要だ。ロッカはヒントになるようなものがないかとお屋敷の中を探し歩く。
「ロッカか。存外上手くやれているようでなによりだ」
遭遇したのはベンゼマン公爵だった。顔色が優れない――というかロッカを見た瞬間、さらに顔が青くなったが気がした。
ベンゼマン公爵は胃薬を探しているようだった。こういう時にかぎってメイドがどこにもおらず、薬箱をひっくり返している。しかし薬が見つからない様子を見兼ねて、ロッカは自作のポーションを差し出した。
「……これはミルク? それともヨーグルトか?」
「すいません。わたしが調合するとなんでも色が白くなってしまうんです。中身は普通のポーションだし効能は保証します」
「そう言えば魔術を学んだ経験があると言っていたな」
「ポーションに関して言うなら3歳の時から作ってましたね」
「感心だな、庶民の労働意欲は素晴らしい」
「父と母が頭のイカレたポーションジャンキーなだけです」
「……君の家族の話はしない方が良さそうだ」
魔術学校卒業間際まで就職も決まらなかったロッカだが成績には自信がある。特に、ポーション作りに関しては超一流と言われる工房の職人たちと比べても遜色ない腕である。職が決まらなかった原因はすべて、スキーで両手両足を骨折したせい。三ヵ月も病院でミイラ女になっていたせいだ。
「ぶほっ!? な、なんだこれは毒か!?」
ベンゼマン公爵はひとくち飲んで吐き出した。
ポーションにしてはやけにどろどろした白い液体。想像していた味との違いに警戒して、光に当てたフラスコの中を恐る恐る覗く。
「薬師の間では動物の睾丸を生薬に使うという話をたまに聞くが、これは…………ではないよな?」
「まさかぁ、そんなもの使いませんよ」
ポーションとは魔法薬である。その外見や味は、素材よりも調合した術者のイメージによってかなり左右される。
ロッカの場合で言えば、幼い頃によくおばあちゃんが作ってくれた『おかゆ』が癒しのイメージとして定着している。そのせいでロッカの作る物は全て、真っ白なおかゆポーションとなる。こればかりは本人にはどうにもできない。
「粥か、言われればそんな味だ」
「はい。ばっちゃの味です!」
「祖母に何かを作ってもらったことなどないが、なるほど、あたたかい……これまで飲んだポーションにはなかった癒しを感じる」
おかゆだと認識すれば、確かに飲めるものだった。ただ、公爵はフラスコから皿に移してスプーンでポーションを飲みはじめた。おかゆをラッパ飲みするのはキツかったようだ。
血色を取り戻したベンゼマン公爵は満足そうに執務室へ帰っていった。その姿を見て、ロッカの脳裏にある案が浮かぶ。
近頃、学校では胃痛持ちの生徒が増えている。やたらとお腹を押さえている生徒やトイレに行く回数の増えた生徒が目立っていた。これを自分のポーションでどうにかできないだろうかと考える。
ポーションは市場崩壊が起きないように魔術師協会が流通許可数と値段を決定している。だがそれはあくまで販売する場合だ。上位貴族のようにお抱えの工房を持つ者が、善意で配る分には口出しできない。
いや、もっと言えば、これまでの『お友達100人計画』は考え方が甘かった。
ロッカ扮するクラリスは国内有数のスーパーセレブである公爵家。上級学校の同じ貴族同士でも、資産には大きな差がある。ロッカのするべき努力は対等に話しかけることではなかった。ロッカがするべきことは“施し”だ。
ノブレスオブリージュ。
富める者が負うべき責務。
思えば、クラリスも留学の理由は自分にできることをするためだと言っていた。ロッカはまだ公爵令嬢というものを理解していなかったのだ。
「でもお金がからむとちょっと嫌味になっちゃうかも……そうかっ、たとえ鼻につくレベルのお金持ちでも淑女らしく居続けること。それが悪役令嬢なのね!」
『お友達100人計画』の次の方針は『プレゼント大作戦』に決まった。自分が正しい貴族を演じられれば、下げてしまったディアス王子からの心象も回復するに違いない。これまで以上にやる気をみなぎらせる。
なお、胃痛を訴えている生徒の大半が、ロッカが話しかけたことのある相手であることには気づいていない。
「クラリッサ様が人体実験をはじめたそうよ」
しばらくすると学内で様々な噂が飛び交うようになった。
ある生徒曰く、ベンゼマン公爵家は魔術師協会からポーション利権を奪おうとしている。またある生徒は、ベンゼマン公爵家は超人的な私設兵団を作ろうとしていると。またある生徒は、ベンゼマン公爵家は不老不死の研究をしていると言う。
身の毛もよだつ恐ろしい噂ばかりだ。だが、あの鋭く高圧的な瞳で『わたくしのポーションが飲めないの?』と渡されてしまえば目の前で飲まざるを得ない。下位の貴族なら、それがイジメなんて域を超えた水銀だったとしても一気飲みするだろう。
しかし、ロッカのポーションは一級品だ、しかも品質は安定していて、実験用に作られたようなものとは違う。次第に悪い噂は消えていった。
「クラリッサ様のポーションを飲むと何故だか故郷にいる祖母を顔を思い出すわ」
「結局、これは何なの? 新商品の宣伝?」
「以前より話やすくなったし、どうでもいいじゃないの」
「でもクラリッサ様、なんかたまに発言というかいろいろ庶民くさくなってない?」
一部の生徒は心に疑問を残したままだったが。
ロッカの『プレゼント大作戦』は、他にも色々と続いていた。
お貴族様向けの上級学校ともなると、制服ひとつとっても超高級品だ。安物のドレスよりも値が張るほどに。だから貧しい男爵家や上位貴族の付き添いとなるために入学している騎士の家のこどもなどは、サイズが変わったり授業で汚れても気軽に買い替えたりできない。そのせいで「無理して上級学校に通う必要はない」、「貧乏人は来るな」と陰で笑われている生徒もいる。
ロッカはそういう生徒に目をつけた。わざとぶつかって水溜まりに突き飛ばしたり、写生の授業で絵具をこぼしたりしては毎回メイドを呼びつけ、
「わたくしが汚してしまったの、すぐ弁償して差し上げて。それではごきげんよう、オーッホッホッホッ!」
と高笑いしながら去っていった。
この逆当たり屋行為も、最初はまた新しい下位貴族へのイジメがはじまったと恐れられたが、クラリッサ被害者の会に集まる貴族たちの服装が徐々に綺麗になっていったおかげで、その真意を疑う人間が出はじめる。
またある女生徒は、護身術の授業に備えてスカートを脱いだ時に下着を見られて、
「ペイズリー柄の流行は去年までよ。わたくしの贔屓にしてる職人に使いを出すといいわ。わたくしの名前を出せば安くしてくれるはずだから」
と小声で紹介状を押しつけられたりもしていた。
「私はいつまでも春用のストールでは見苦しいと夏用最新モデルのものを譲ってもらいましたわ」
「私は急に宝石デザイナーに目覚めたとか言って、お気に入りの物をサファイアのイヤリングと交換させられたけど」
「ああ、あの似合ってないルビーの」
「……私も昔、クラリッサ様にハンカチがみすぼらしいって言われて逃げちゃったことがあるんだけど、あの時も本当は自分の物を譲ってくれようとしてたのかも」
「私も似たような経験ある……。やっぱり逃げたけど」
「まあ誰でも隙があれば逃げるわよね」
クラリスなりの親切なのか、流行の疎さをバカにしたいだけなのか。ここでも議論は割れた。
「実は……、前からわたしたちを助けようとしていた、とか?」
学生服という共通の服装を強いられている分、貴族たちはそれ以外のところのおしゃれや、教員からぎりぎり注意されないワンポイントのアクセサリーでマウントを取り合う。流行遅れはすぐにバカにされるし、上位貴族の反感を買えば、グループから追い出されかねない死活問題となる。
いつも上位貴族の顔色と流行を窺っている女生徒からすれば、公爵令嬢であるクラリッサが薦める物ほど信じられるものはない。
「まさか、取り巻きの子たちがしてた嫌がらせはどう説明するのよ」
「クラリッサ様が指示したなんて証拠は一度も出てないじゃない」
「あっ、取り巻きの子たちだけが学校からいなくなったのって、それでクラリッサ様の怒りを買ったんじゃないの?」
「たしかに、クラリッサ様だけこの学校に残るっておかしいわよね」
乙女たちの会議は踊る。されど結論はでない。
仕方がない。誰一人としてクラリスとまともにしゃべったことがないのだから。そこで一人の女生徒が立ち上がった。進級初日にロッカに助けられたレーネだ。
「私が確認してまいります」
「レーネ様、危険ではなくて。あなたが一番、目をつけられている可能性が高いかもしれないのに」
「大丈夫です。クラリッサ様は怖いので殿下に聞きに行ってまいります」
直接クラリスに話かける勇気はなかった。しかし、王族であるディアスであれば、幼少からクラリスと付き合いがあるはずだ。
「あっ、ずるい。それなら私もっ」
私も私も、とそのままクラリッサ被害者の会のメンバーは全員でディアスの下へと押しかけた。王家の威光は悪女への恐怖心に負けるらしい。
「クラリッサが心を入れ替えた? まさか」
疑問をぶつけられたディアスの反応は冷めたものだった。
「心を入れ替えたのでなく、もともとお優しい方なのではないかと」
「それこそまさか、だ。……いや……しかし、昔の……」
令嬢たちが落胆しかけるも、ディアスは何か悩むような仕草を取った。
(すべてが勘違いだった? 本人も我々も空回っていたとでも?)
上級学校へ入学してから毎日顔をあわせていた一年間だけを振り返れば、女生徒たちの指摘はあり得ない。絶対にないと断言できる。
はしたないほどに過剰なスキンシップ。神経を逆撫でする媚びた話し方。それでいて他の女性には強く当たる。外から聞こえてくる噂も悪いものばかりだった。
しかし、もっと前は? こどもの頃はどういう少女だったか。
王家と公爵家の一員として、一時だったがクラリッサとは交流があった。
クラリッサは自分勝手でわがままで、いつもディアスの周りをうろちょろしては文句をつけてくる。そんな少女だった。
近衛に剣の稽古をつけてもらっていれば、自分の婚約者ならもっとできるはずだとか、大人相手にも負けるなとか無茶ばかり言う。稽古が終わった後も、自分の婚約者なら身だしなみに気を遣えと勝手にハンカチで汗を拭こうとしてくる。何をするにも自分の自由を束縛してくる嫌な女だと感じていた。
(彼女なりに本気で叱咤激励していたつもりだったとか?)
そもそもクラリッサは婚約者ではない。本人が勝手に言っていただけだ。それに自分に相応しい男になれという上からの言い方も気に食わない。軽いトラウマにもなった。だから上級学校で再会するまで、クラリッサのことは思い出さないよう記憶に蓋をしていた。
「…………いや、やはりないな」
ただ、全て認めると自分の器が小さかったようにも見える。こどもの頃の記憶故に余計に気恥ずかしい。ディアスは少し顔を赤くしながら再度首を横へ振った。
「おやおや、これは……?」
「あやしいですねぇ」
その反応に怪しい気配を感じ取った乙女たちは、ディアスの否定した結論を信じなかった。
* Chapter5 悪役令嬢は元魔術学校首席
夏休みも直前に迫ったある日、ベンゼマン公爵邸は喧騒に包まれていた。
「ふんふふ~ん、はじめてのお茶会~」
ロッカがついにお茶会へのお誘いをもらったのだ。
相手は同じクラスのレーネ・カーリアン。他にもたくさんの令嬢を招いているらしい。どのドレスを着て行こうか鏡の前でとっかえひっかえしている。
「しかしどうしましょう。お嬢様はお茶会に誘われたことがありませんから……」
本来であれば、こうした時にアドバイスを送る母親はこの世にいない。ベンゼマン公爵の妻はクラリスを産んだ後に病気で亡くしている。
「さっぱりわからん、男同士なら酒を飲み交わせば一晩で打ち解けられるのだが」
「旦那様のご友人は結構野蛮ですよね」
「陛下に伝えておこう」
「申し訳ございません。お忘れください」
自分がホストであれば、公爵家に相応しい贅と流行の最先端を凝らした最高級のもてなしをするだけだ。迷う必要もなく簡単な話で済む。しかし、客として招かれた時の作法は誰にもわからなかった。
「あの、手ぶらで行くのはだめですよね。金貨でも包んだらいいんでしょうか」
「それだ! 直接的な物ほど気持ちは伝わる!」
「やめてください、どんだけ嫌味な家ですか」
「だからベンゼマン家は政治でもパワーゲームしかできないとか言われるんです」
「お前達、私の悪口は私の聞こえないところでやりたまえ」
手土産はベンゼマン公爵領の名酒を使った焼き菓子で落ち着いた。
もちろん箱の下に金貨を詰めたりはしていない。
「よぉし、行きますわよ!」
深紅のドレス。瞳の色に合わせたアメジストのネックレス。いつもの1.5倍増しのボリュームに膨らんだ黄金の巻き髪。気合いを入れてセットした容姿を確認してから馬車を下りた。
自分も緊張しているせいか、出迎えてくれたレーネの家の執事やメイドたちの緊張も並々ならぬものだとわかってしまう。恐らく今日招かれている中で、ベンゼマン家が最も格式の高い家となる。彼らはクラリスの発言を待っているのだ。
「とても素敵なお屋敷ね。香っているのは百合かしら。後でレーネ様にお庭を案内していただきたいわ」
どこからか、ほっと息をつく気配が伝わってきた。お屋敷の空気が緩むとロッカも少し気持ちが楽になる。
庭の見渡せるテラスには、先に上級学校の女生徒たちが座っていた。到着したのも席順も爵位の序列通りだったのだろう。ロッカは薦められるままホストであるレーネの隣に座った。メイドが令嬢たちの持ち寄ったお菓子と紅茶を運んでくる。
「皆様、カーリアン家のお茶会へご参加くださりありがとうございます。それから、今回はクラリッサ様が初めてきてくださいました。これまで同じクラスにいながらあまりお話になれなかった私達ですが、今日は存分に交友を深められたらと存じます」
レーネが頭を下げると拍手が起こる。音は上品で控えめだったが、ベンゼマン公爵令嬢を前にしてよく言ったという称賛が過分に含まれていた。
「クラリッサ様からもご挨拶をお願いしてよろしいでしょうか」
もしクラリスがこのお茶会にちゃんと望んで来たのであれば、それは貴族淑女の社会に新たな派閥が生まれることになる。皆が息を呑んでクラリスの言葉を待っていた。
しかし、ロッカは反応できなかった。
席に着いたあたりから緊張で心臓が爆発しそうだった。
まばたきすら忘れて目が充血してしまっている。
なぜなら、ロッカは今、夢の世界にいるからだ。
クラリスに化けて上級学校へ通っていても、誰もが腫れ物に触るような反応しかしてくれない。それはこどもの頃から憧れていたお貴族様の煌びやかな世界とは程遠いものだった。
クラリスの評判を落とさないように過ごす、替え玉としての責務を果たすだけの日々。契約時の給金ももらっているので当然なのだが、ずっと仕事としてクラリスを演じてきた。
今、それが報われた。
貴族のお嬢様に憧れるロッカの夢が叶った瞬間だった。
「クラリッサ様、どうなさいましたの!?」
知らぬ間にか深紫色の瞳からは大粒の涙が流れていた。
「わ、わたくし、ずっと……みなさまとこういう風に話をしてみたかったのです。ただ、どうしても、公爵家の者としての立場とか、いろいろあって……」
「ああ、クラリッサ様……そんな……」
学校では世紀の大悪女とまで謳われたクラリッサ・ベンゼマンが、孤高の存在として気丈に胸を張り続けた彼女が、声を震わせ、涙を流している。
気づけば、テーブルを囲む全員がもらい涙を流していた。クラリッサ・ベンゼマンは不器用で、周りが勝手に勘違いをしてしまっていただけで、本当は思い遣りを持った心の優しい少女なのだ。そう考えた自分たちは間違っていなかったのだと。
「ごめんなさい、悲しい会にするつもりはなかったの。今日はみんなで心行くまでお話いたしましょう。あと……どうか、わたくしのことはクラリスと呼んで」
この日から、やっとロッカにとって本当の令嬢生活がはじまった。
夏休みの間は、互いの別荘地へ招き合ったり、好きな人ができたという子の相手を調べて騒ぎ合ったり、意味もなく集まっては新しい流行の研究などを行っていた。最初こそ警戒している令嬢もいたが、次第に友人が友人を呼び、ロッカの交友は広がっていった。
だから夏休みが明けた時、クラリスが巨大派閥の長として登校してきて男子たちは度肝を抜かれた。このままではディアス王子の学校での立場が危うい。不安に駆られた男子貴族が報告へ走る。
「どうやらクラリッサ様は春休みの間に人心掌握術を学んでいたようです」
「帝王学だろ」
「全ての女生徒を下において、また殿下の婚約者としての座を狙うつもりですよ」
「……考えすぎじゃないか?」
内心では同じ事を考えていたディアスも、周りが慌てすぎていたせいか妙に冷静になれた。
窓から外を歩く集団を見て思う。あれだけの数の人間を魅了することなど自分の知るクラリッサには不可能だ。貴族淑女の中には夢見がちだったり、やたらと他人に教化されてしまう者もいるが、多くは騙されないように親からしっかりと教育を受けている。
しかし、昨年度までクラリッサを名指しで批難してきた貴族が大勢いたことも事実。一体どこにクラリッサの真実があるのか、もはやディアス自身の目で確認するしかない。
「そう言えば、今年も確認試験があったな」
「そうですよ! そこで化けの皮を剥いでやりましょう!」
上級学校には年に二度大きな試験が行われる。
ひとつは年度末の進級試験と卒業試験。不出来な者はこの学校の生徒として上に行かせるわけにはいかないのだから。
もうひとつは夏休み明けの確認試験。学校の授業がなくとも、貴族として使命感を持ち、怠けることなく向上心、克己心を保つことができたか調べるための試験となっている。
一年次の確認試験、ディアスが調べた時には結果はもう処分されていた。進級試験の時は、病気を理由に学校へは来ていなかった。だから特例で個人試験を受けたのだが、教員を買収した疑いがあると囁かれていた。
今は国王からいじめの調査を命じられている手前もあり、ディアスには全生徒の成績を閲覧する権限がある。この際だから真実を徹底的に調べてやろうと意気込む。
「しかし一人だけというのも不公平か。よし、今年は試験会場も全員の成績も全て公表させよう」
クラリッサの巻き添えで学校中から悲鳴が上がった。
「また男子がクラリス様のことを見ていますわ」
「夏で薄着だからって。スケベ猿、死ねばいいのに」
「そういう風に見られてたの?」
「クラリス様はもっと男子を警戒してください」
「あっ、でもディアス様なら歓迎ですよね」
「んーそれはイエスともノーとも言えないような……」
何故か夏休み前よりも男子たちから厳しい目で見られる中、上機嫌で廊下を歩く。ロッカは憧れのお嬢様ライフを送れて幸せいっぱいな状態だ。男子など目に入らない。
女生徒たちが立ち止まったのは成績を貼り出された掲示板の前。
夏休み明け確認試験。すでにペーパー試験を終えて残りは実技試験のみとなっている。ここまでの中間結果を上から名前を確認しようとして、周囲から黄色い声が上がる。
「さすがです、クラリス様! 総合一位ですよ!」
「理系科目なんて全部満点です!」
「当然よ。わたくしはクラリッサ・ベンゼマンですもの。オーッホッホッ」
一番上に書かれた名前を見て高笑い。これならクラリス様も満足するだろうと自分でも納得の出来だった。
政治、外国史、倫理、兵科ではディアスが学年一位だったが、他の数学や魔術理論といった全理系科目と古代語では圧勝だった。というよりロッカは理系全教科で満点を叩き出し、ディアスに負けた他の教科も学年二位につけている。元魔術学校主席の面目躍如だ。
昨年度のクラリッサはお金で成績を買っていたので、今帰ってきたら相当に不味い事態になるが、まさか手を抜くのが正解だったとは聡明なロッカも気づかない。
廊下の音がロッカの高笑いの声だけになる。辺りが静かになった理由は、遅れて来たディアスにあった。
一年次までは成績の発表などせずとも、ディアスが最も優秀だと皆が知っていた。しかし蓋を開けてみれば、クラリスが大差をつけて一位の座に輝いている。結果に納得いかなかった男子生徒たちが不正だと騒ぎ立てるが、
「今回は順位を公表しているのわかっていらっしゃる?」
「それがどうした!」
「だから見栄を張ったんだろ!?」
「クラリス様を一位にするということは、王族であるディアス様の順位を下げることになるのよ。いくら積まれたってやる教師はいないわ」
「男子ってほんとバカよね」
「考え方がおこちゃまなのよ」
取り巻き同士の口喧嘩でもクラリス陣営が優勢だった。
「おやめなさい。相手が誰であれ口汚く罵るなんて淑女のすることじゃないでしょう。わたくしのためだとしても、あなた達に自分を下げるような真似をさせてしまっては居たたまれないわ」
「クラリス様……」
ロッカは慌てて男女のケンカを仲裁した。
別に成績で男子と張り合いたいわけじゃなかった。しかも相手はロッカからすれば年下だ。憧れのお嬢様たちの口から汚い言葉を聞きたくないという気持ちも大きい。だがそれよりも――ちらりと奥にいる男子、ディアスの顔色を窺う。今日も相変わらず立っているだけ気品を漂わせる美男子っぷりに舌を巻く。
そう、ロッカはお友達になったお嬢様からの情報である結論に辿り着いていた。
(おねがいやめてー! クラリス様の想い人と揉めるわけにはいかないの!)
昨年度までのクラリッサの態度は有名だ。陰でイジメを仕切っていた事は証拠がないので追及できないが、ディアスに猛アピールしていたのは誰もが目撃している。
きっともう二人は結ばれる寸前だったのだろう。理想の令嬢クラリスに言い寄られて落ちない男なんているはずがない。なのに、自分が上手くクラリスに化けられなかったせいで関係を壊してしまい。未だ二人の仲を修復できていない。
(あ、でもこれってお互いの健闘を讃え合って絆が生まれる展開かも)
ロッカはポジティブに考えを切り替える。
実験オタクしかいない魔術学校と家業のポーション作りに人生を捧げてきたロッカは、まだ青春をした経験がなかった。
「ディアス様も素晴らしい結果でしたわね。今回はわたくしが偶然勝ちましたが、これからも互いに切磋琢磨してまいりましょう」
ロッカが口を開いた時、ディアスは一瞬肩を震わせた。
過去にクラリッサから受けた、自分の無能を指摘するような、自分の努力を否定するような過剰な叱咤激励がまた来ると思ったからだ。
「……クラリッサ、お前は本当に心を入れ替えたのか。いや、昔から君は……」
「はい?」
クラリッサ・ベンゼマンは自己顕示欲の権化。
とにかく誰からも尊重されて生きたいと考えている。
自分の婚約者になろうとした時も恋愛感情などなかった。
そういう女だ。
幼い頃を知るディアスには確信があった。それが今揺らいでいた。
「何でもない。明日からの実技試験で見極めさせてもらう」
難しい顔をして立ち去るディアスの背を見送る。
熱血仲直り作戦は失敗だったようだ。
「男子のプライドってわからないわ。おばかのフリをするのも違うわよね?」
「殿下に共に国を導く存在であろうと言えるのはクラリス様だけです!」
「とてもかっこよかったですわ!」
もしかして男の子ってお嬢様より難しい? ロッカは上級学校では勉強のできるお姉さんだが、恋愛脳は未発達のおこちゃまだった。
一芸特化した変人ばかりな上に激しい競争社会である魔術学校と比べ、上級学校での実技試験などロッカには余裕である。
火の魔術を使えばグラウンドを焼け野原にし、水の魔術を使えばグラウンドを水没させ、土の魔術を使えばグラウンドが砂漠になった。
「逸材じゃ! クラリッサ様がこれほどの開花を見せるとは!」
「これは魔術学校の鬼才に並ぶぞ」
「宮廷魔導士がスカウトするために全魔術工房へ圧力をかけたという異例のアレか」
「だがその者、なんでも噂では冬の間からずっと探していたのに一度も会えず、魔術の深淵を求めて魔界へ旅立たれてしまい今は消息不明らしい」
「みすみす人材を逃したな。連中は何をしているのだ」
やらかしてから少し調子に乗りすぎたと後悔した。
クラリスの去年の成績でも、魔術に関してはここまでではなかった。本物のクラリスは理想のお嬢様でも魔術師じゃない。専門分野で張り合うべきではなかったと、興奮する教師陣の後ろを忍び足で素通りする。
「自慢するでも勝ち誇るでもなく逃げるように立ち去るか、何を考えている」
こそこそと移動するロッカを捕まえる者がいた。
「あわわわ、ディアス様、どうして……わたくしに何か御用ですの?」
「クラリッサがいなくなろうとするからだ。次は私の番だぞ。よく見ていろ、私は負けていない。私もあの頃とは違うのだ」
「…………あら?」
頬を紅潮させたディアスを見て、ロッカの中で何かと重なった。
「ああっ、ロミオだ」
実家で家業を手伝わせているロッカの弟ロミオ。反抗期で生意気だけど甘えたがりでめんどくさい、弟の態度に似ている。
ロミオほど離れてなくても、ディアスも年下は年下。もしかしてクラリスへ強い態度を取ってしまうのは、ただ褒めて認めて欲しいのではないだろうか。
ロッカはついに王子とクラリッサの関係が鮮明に見えたと喜ぶ。
「今度、頭を撫でてあげようかしら? なんてね」
それは完全にディアスの神経を逆撫でする行為だったが、実行されずに終わる。
「ダンス!? 今年の最終試験が!? え、聞いてない!」
「だってクラリス様、みんなが試験勉強をしていてもクラリッサ・ベンゼマンにできないことはないわ、オーッホッホって聞いてくださらなかったから……」
「そもそも今更ダンスの練習なんて必要ありませんし」
最後の試験内容はダンス。クラリスに扮してから最も力を入れて特訓してきたが、まったく上達できないダンス。究極の運動音痴と言われたロッカの鬼門である。約束通りディアスの試験だけは見届け、クラリスはダンス特訓へ向かった。
その努力も虚しく、クラリスが試験を通過するまでに二度の追試を要求される羽目になったが。
クラリスは真剣にやっているのに何もないところで転ぶ。何でもできる天才少女かと思われたが、意外な欠点があることにみんな好意的だった。素直に下手なダンスをさらけ出し追試を受けたことで、過去にクラリスがした買収行為も忘れられた。
ただ、そんなクラリスを見て顔色を大きく変えた男がいた。アンヘリット王国第一王子ディアスだ。こどもの頃、城のパーティーで一度だけクラリッサのダンスパートナーを務めたことがある。
幼少期のクラリッサはわがままで自分勝手で汗をかくのを嫌う少女だったが、超のつく見栄っ張りでもあった。貴族として避けられない分野、美容やダンス、芸術分野への入れ込みだけは余念がなかったはずだ。
「…………クラリッサじゃない。あの女は誰だ」
* Chapter6 悪役令嬢の帰還
夏休みが明けてから一月が経ち、秋の風が吹きはじめた。それでもまだ、貴族のお嬢様たちは恋の季節から抜け出せていなかった。
「最近やけにディアス様がこちらを見ている気がするのですけど」
「それってもしかして……クラリス様にもついに!?」
「きゃーっ」
視線を気取られて顔を逸らすディアスを見て姦しく騒いでいる。
確認試験の後からだろうか。一時はクラリスを見るディアスの目が緩んだと感じていたが、また厳しくなっていた。
(だめだめ、勘違いしちゃ。本物のクラリス様を知るディアス様が、わたしみたいな偽物のなんちゃってお嬢様を好きになるはずないもの)
去年までのクラリスの猛アタックを知っているお嬢様たちの熱は放っておくとどんどん熱くなっていく。しかしロッカの感覚からすると、睨まれているようにしか見えない。
ディアスは老若男女が見惚れる美男子で、年上で魔術学校を卒業しているロッカがいなければ最も優秀な学生で、この国の王子なのだ。クラリスに化けていない時のロッカなど目にも止まらないだろう。きっとまた無意識に何かしでかしてしまったんだと頭を抱える。
一方で、ディアスはロッカよりも頭を悩ませていた。
アンヘリット王国の二大貴族と言われるベンゼマン公爵家の令嬢が、何者かと入れ替わっている。得体の知れない人物が、未来の要人集う上級学校で学生のフリをしているのだ。事実なら王族として放置できない大問題である。
だが、自分の他に同じ疑念を抱いている者は一人もいない。
過去にかけたイジメの容疑でも一回失敗している。クラリスがイジメの主犯だったという証言は結局得られなかったのだ。次に一度でも下手に騒ぎ立ててシラを切られようものなら、二度と話題にすらできなくなってしまうだろう。
そもそも今回の疑いも、記憶の中と今のクラリスが重ならないという思い込みからはじまっている。調査は慎重にならざるを得なかった。
共に授業を受ける教室。友人とテーブルを囲む食堂。放課後の歓談を楽しむテラス――クラリッサを観察し続けたが、男の視線に敏感な令嬢たちに常に囲まれているのもあって、怪しまれないように盗み見るのも限界である。
かと言って、ディアス自身が直接クラリッサとの交流を求めれば、周囲は今以上に浮かれた噂を流すだろう。元々クラリッサはディアスとの婚約を狙っていた。それこそが狙いかもしれない。
「改めて調べてもダンスが下手なところ以外、あやしい点はないが……」
思考が雁字搦めになってどんどんと視野が狭まっていく。
そんな日々を過ごす中、ディアスはついにクラリッサの怪しい行動を見つけた。
成績優秀なクラリッサはいくつかの授業を免除されている。授業に出るも出ないも自由なその時間の一つで、使用していない教室を占拠して一人何かを行っている。ディアスは誰もいないことを確認してから教室に突入した。
「動くなッ」
「はひっ!?」
割烹着姿で大ボリュームの髪を束ねた、庶民のおばちゃんのような恰好したクラリッサが、白い液体の詰まった鍋を抱えていた。
あまりにも似合わない姿を前に思わず自分の目を疑う。いつの間にか怪しい薬物でも吸い込んで幻覚を見ているのだろうか。
「……何をしている」
「えと、ポーションを調合しています?」
鍋の中身はディアスも胃痛で一度お世話になったことのある薬だ。
ベンゼマン印のおかゆポーション。
「なぜ」
「保健室の備蓄用に」
ポーションの入った小鍋と割烹着に頭巾をしたクラリッサを何度も見比べてしまう。クラリッサのイメージからかけ離れた姿に、どうにか二つだけ疑問を捻り出せたが、返答を得ても事態を理解できなかった。
「ベンゼマン家は学校にポーションを卸しているのか」
「わたくしが勝手に置いているだけですけど」
ますます頭が混乱した。だからつい同じ質問を繰り返してしまう。
「なぜ」
「ノブレスオブリージュです、ディアス様」
「つまり、ただ施しをしていると?」
「このクラリッサ・ベンゼマンにとっては当たり前のことですわ」
色気も淑やかさもない恰好で胸を張るクラリッサ。以前ならこんな割烹着など着ることすらなかった。もしディアスにそんな姿を見られようものなら錯乱して教室を飛び出していただろう。
(別人? しかし、昔から変わらないこの物言い。わからない)
クラリッサからは何の裏も感じられない。これが演技だとしたら、老獪な社交界の狸爺たちも驚きに腰を抜かすはずだ。
そもそもポーションの調合とは誰でも簡単にできるものだったか。答えは否だ。調合には高度な知識と洗練された魔力と精密な技術がいる。それに魔法薬には個人の資質が反映される。他人に化けて人生を乗っ取るような悪意ある人間に、治療系のポーションは調合できない。
「あれほど自慢していたダンスのステップを忘れるほどに、社会貢献だけを考えて生きてきたというのか」
クラリッサは確認試験でダントツの有能さを見せつけた。ダンス以外。その上でこんな専門的な知識と技術まで身に着けている。
かつて持っていた見栄の象徴を全て捨て、ノブレスオブリージュ、貴族たらんと努力し続けてきた結果なら、今のクラリッサになれたとしても不思議はない。まるで別人だが意味が違った。クラリッサは努力で自分を変えただけだったのだ。
「ディアス様、貴族とは“顔”です。必要なのは目に見え耳に聞こえるもの。誰にもその人の生きてきた過程や中身など分かりません。だからクラリッサ・ベンゼマンは、己の為した功績のみで至高の令嬢となればよいのです」
「努力を見せびらかすほど浅ましい行為はない……。私の目が曇っていただけで、君は昔からそういう人だったのか」
納得しかけるも、まだ一つ疑問が残っている。
去年のクラリッサの態度だ。
嫉妬深く卑しい女にしか見えない露骨なアピールはやりすぎだった。
「ならばどうして去年まではあんな態度を」
「……女性にそれを言わせるのは流石にどうかと思いますわ」
「うっ、そうかすまない。君は……私の婚約者に相応しい人だった。いや、私の方が君に相応しい男にならねばならなかったのだな」
恋はひとを盲目にする。そして望まない相手からの好意は、純粋な愛すらも鬱陶しいと消極的に見てしまう。自分もクラリッサに偏見を抱いていた。幼い頃はクラリッサの過剰な期待から逃げるために距離を取った。誰もが常に自分をコントロールできるわけではない。
「クラリッサ……。いやクラリス。昔のようにと都合の良いことは言わない。また一から友人としてやり直してくれるか」
「はい、よろこんで」
ディアスは照れくさそうに頭を下げて教室を出て行った。
(よくわかんないけど誤解が解けた? うー、でもまだどきどきする。ディアス様ってば顔が近いよー)
ロッカは自分だけになった教室で大きく息を吐いた。
ポーションを調合しているところを見つかった時は心臓が止まるかと思った。ディアスが姿を消した今も腰を抜かしたまま動けないでいる。
いまいち要領を得ない質問ばかりだったが、堂々とクラリスっぽく答えただけでも納得してもらえたようだ。
しかも、最後にロッカを『クラリス』と呼んだ。初めて会った時から徐々に悪化させてしまった二人の関係を、ようやく修復できるところまでこぎつけた。ディアスの心の変化は全然想像もつかないが、安堵と達成感でいっぱいだった。
やはりノブレスオブリージュは正しい。良縁は巡る。情けは人の為ならずという話なのだろう。ロッカは自分の憧れていた世界の価値観の正しさを再度噛みしめた。
ディアスがロッカをクラリスと呼び、普通に話しかけるようになったことで上級学校の空気は一変した。
これまで男子と女子を一人でまとめ上げる存在がいたせいか、互いにどちらが上かいがみ合うような場面が見られたが、男女で揉めるところを見る機会が減った。それどころか、クラリスとディアスが近づくと周りは勝手に気を遣い二人きりにしようとする。
他人の恋を協力して応援している間に、別の誰かと誰かがくっつく。そんなカップルまで現れはじめた。
上級学校ともなれば、多くの生徒が卒業後も今の人間関係を引き継ぐ。こどもでありながら既に政治の場に立たされている。相手を牽制し、他家の財力や裏の繋がりを探る役目を負わされている者もいる。
しかし、気づけば普通の学校のように、穏やかで楽しげに会話をする生徒が増えていた。見たことのない光景に教師たちも戸惑うほどだ。
こうした変化に包まれるとロッカの心情も少しずつ変わっていった。
悪い噂がほとんど消えつつある今でも、クラリッサは男子生徒が気軽に接していい相手ではなかった。どうしても身分の差が少年たちを委縮させる。その点、遠慮のないディアスはロッカにとって唯一対等に話してくれる男子だった。
ロッカ自身、クラリスから直接言い渡された仕事である『あなたが想像するクラリッサ・ベンゼマンで居続けること』という命令が強く生きていた。楽しんでいるようでも、初めてのお嬢様生活にずっと緊張していた。
多くの問題の解決と慣れにより、徐々に気分が浮かれてしまう。そうなれば、ディアスが物語に出てきそうな本物の王子様だと意識するようになってくる。
替え玉の面接時にクラリスが吹いた法螺話を元にして国の将来を語る。共に学び、共に食事をして、毎朝、毎夕の挨拶を交わす。次第に二人の話題は私生活へも及ぶようになり、どんどんと距離は近づいていった。
特にディアスは昔の事がまだトラウマになっているらしく、幼い頃に二人でしたデートもどきの再現をしようと誘うことが多かった。新しくいい思い出を作ろうと言ってはロッカを誘惑する。
一ヵ月二ヵ月と時間が経つにつれて心の中でディアスの存在が大きくなっていく。半年が経ち二学年の終わりが近づく頃には、もうどうしようもなく互いに意識してしまっていた。周りが気を遣わなくても自然と二人だけになり、ディアスが手を握ってもロッカは顔を真っ赤にしてうつむかなくなった。
そして周囲の期待通り、その日はやってきた。
「ずっとあんな態度を取っていたせいでどうしても言い出しにくかったんだが……、クラリス、卒業したら私と結婚してくれ」
ディアスが膝をついて指輪を差し出し、ロッカは嬉しそうに指にはめてもらう。
「よかった。実は断られるんじゃないかと不安だったんだ」
「そんな、わたくしにディアス様を拒むことなんて……。ですが、ひとつお願いがあります。今はまだこのことを誰にも話さないでいてほしいのです」
「理由を聞いてもいいか。立場上、陛下には早く報告しなければならないし、陛下からベンゼマン公爵にも話を通してもらわないと」
「申し訳ありません、理由はまだ……。でもどうか、今だけはわたくしとディアス様の秘密に……」
切に願う姿に負け、ディアスは誰にも言わないと約束してロッカを抱きしめた。
だから、ディアスは気づかなかった。
自分が直接指にはめたこの時以降、ロッカが一度も婚約指輪をつけなかったことを。幸せの絶頂にいるはずなのに、日々その顔に陰りが差していっていることを……。
学校のご令嬢たちとは別の意味でロッカに近い女性集団。ベンゼマン家のメイドたちは同じ屋根の下で暮らしているおかげかロッカの変化に勘づいていた。ロッカが学校で何か秘密を作ったなと。
時折、深夜になると部屋で何か怪しいことをしていると見つけたメイドの報告により、彼女たちはロッカの部屋をこっそり調べる。
「クラリス様クラリス様、どうかお答えください……」
月も下りはじめた深夜。
金髪縦ロールの不気味なビスクドール――ではなくクラリスの代役だろう。ロッカは人形を対面の椅子に置いて語りかけていた。
「なんの儀式かしら」
「東の島国に伝わる降霊術に似ているわね」
「ロッカさんが夜な夜なお嬢様に呪いをかけていたなんてッ」
「さすが魔女」
「ないない」
「ですよねー」
「しっ、見つかっちゃう!」
「クラリス様、わたし、わからなくなっちゃいました……」
独白がはじまると同時に、メイドたちは互いの口を押さえた。
「あの方は、わたしをあなただと思って慕ってくれるけど……あなたがあの方に注いできた愛情を、あなたの紡いできた絆を奪ってしまうようで、わたしはあの方の前で笑えなくなってしまいました……わたしはどうしたらいいですか……」
ロッカはネックレスチェーンに通した婚約指輪を外すと、大事そうに両手を祈りの形にして握り込んだ。
「ウソですごめんなさい……。自分でもわかっているのです。ディアス様はクラリス様にお返しします。そもそも最初からディアス様はわたしのものではないのですから……ですがどうかお願いします。もう少しだけ、もう少しだけ……夢を見ていてもいいですか……」
途中から出てきた人物の名前に、メイドたちは息を呑んだ。
「まさかロッカさん、王子様に本気で恋を……」
「でも王子様の方も……あれ?」
「それはマズいですよ先輩」
「身分違いの恋ですものねぇ」
「というかロッカさんはお嬢様の身代わりに変装をはじめただけでしょう。そもそもお嬢様の断罪が免れた時点で終わってよかったはずなのに、これっていつまで続くの? メイド長知ってます?」
「聞いても旦那様がはっきりしないのよぉ」
「そうじゃなくてほんとにマズいんですってば!」
ひとりのメイドが声を殺して叫ぶ。先輩メイドたちはその叫びを無視しようとしたが、メイドの担当している仕事を思い出して、その女性の顔を二度見した。
「マジ? 帰ってくるの? いつ?」
彼女の仕事は報告。
外国へ逃亡したクラリスに国内の様子を伝えることだった。
ロッカの働きによって王子の怒りが収まったこと、イジメの主犯だった疑いが晴れたことが伝えられるとクラリスは『そろそろ帰っても大丈夫なんじゃないか』と頻りに聞いてくるようになったのだ。
「たぶん最近旦那様が帰ってこない理由も関係してると思いますぅ」
「あんた何してんのよ」
「だって~」
本物のクラリッサ・ベンゼマンの帰還。
これまでお屋敷で浮いた話のひとつもしたことのないロッカの、芽生えたばかりの恋は終わりの期限つきだったのだ。
できればロッカを応援してあげたい。
しかし、不憫でもしかたがない。
女性であればきっと誰もが知っていることだ。
初恋は実らない。
メイドたちは背中を丸めて震えるロッカから目を逸らし、そっと扉を閉じた。
* Chapter7 悪役令嬢のさよならと再会
「ちょっと、頼んだものと違うじゃない! 私はハーブティーを頼んだのよ!」
のどかなテラスに突如ヒステリーな声が響き渡った。日頃、高慢な態度は取っても人を怒鳴ることのしないクラリスの豹変ぶりに驚いてみんなが振り返る。
「クラリス様はどうしてしまったのかしら」
「やだわ、一年前に戻ったみたいで怖い」
クラリスを非難する声がひそひそと囁かれる。陰口に敏感なクラリスはその場を取り繕おうとするが、怒鳴られたメイドは恐怖のあまり動けなかった。
このメイドはこれ以上自分に何を言わせようというのか。過度に怒ったと謝罪でもさせたいのだろうか。じっと見つめられるとクラリスは気分が悪くなったと言ってテラスから立ち去った。
少し前からクラリスの様子がおかしい。誰もが心配そうに噂する。
気分の浮き沈みの激しさもそうだが、さきほどのように突然ヒステリーを起こして怒鳴り散らしたり物に当たったりする。二年に進級してからの一年間、そうした行為は一度もなかったのに、まるで別人に、元の姿に戻ってしまったようだ。
しかし、クラリスと親しかった生徒は理由を察していた。
ある日、何日かひどく落ち込んでいると思ったら、クラリスはディアスを連れて突然婚約を発表したのだ。ディアスは驚いた顔をしていたが、婚約自体は本当に決まっていたことだった。そしてその後から急にクラリスの様子がおかしくなったことから、原因はマリッジブルーだと診断された。
幸せなのに不安でたまらない。
幸せなのに些細なことが気になってしょうがない。
食欲不振や不眠が続き、不満がたまりイライラする悪循環。
まさに今のクラリスの状態と一致していた。
「ですけど根本的に何が不満なのでしょう」
「殿下との婚約はクラリス様もずっと望んでいたと思いましたのに」
「まだ正式に婚約を発表なされていないからではありませんか」
「ディアス様のお心が変わってしまうと?」
「いろいろ疑ってしまうのがマリッジブルーですのよ。私の姉もそうでしたもの」
レーネを中心としたクラリスの友人たちはそう結論づけた。
仲間のために結束した女子は強い。ディアスはじろりと集団から睨まれて思わず仰け反った。
ディアスもそう言われたところで困るしかない。もともと婚約を隠してほしいと言ってきたのはクラリスの方だ。ディアスは十分にクラリスを気遣ってきたし、どこに非があると言われても納得がいかない。
つい不貞腐れたような表情をしてしまう。だが、ディアスの周りにも心配してアドバイスをくれる学友は大勢いる。女性の方が気持ちは不安定になりやすい。女の癇癪はかわいいものだと呑み込むのが良い男だと諭されれば、そう納得するしかなかった。
ただやはり、言われている様にクラリスを安心させるにはできるだけ早く婚約発表を行うしかないのだろう。
幸いなことに、イジメの調査でクラリスは関係なかったと報告をしてから国王はクラリスに好意的だった。国王とベンゼマン公爵は古くからの友人でもある。友の娘であれば、と婚約にもすんなり賛成した。ベンゼマン公爵もいつの間にかクラリス自身が話して納得してもらったと言っていた。
二人の障害となるものは何もない。婚約発表もしようと思えばいつでもできる。あとはディアス次第だ。
決断してからの行動は早かった。二人の友人は三年生にも多いことから、ディアスは卒業式の前に婚約発表会をねじ込んだ。
婚約発表会は、国王がこの後に重大な発表があると挨拶をして、軽い立食会から始まった。皆、もちろん何の発表かは知っている。並んで会場を歩くディアスとクラリスに、おめでとうございますと声がかけられる。
学生、貴族と順に祝福を受けている内、伴奏をしていた楽団が音色を変えた。これからはダンスの時間。ディアスとクラリスは会場の中心へと移動する。最初の曲は今日の主役である二人の物だ。
「私、今日のためにたくさん練習しましたのよ」
「心配するな。クラリスが相手でも完璧にリードできるよう私も練習してきた」
「まあ、ディアス様ったら」
音楽に合わせて緩やかに足を踏み出す。
クラリスのダンスの成績を知っている学生たちは、うっとりというよりハラハラした面持ちで見守っていたが杞憂だったようだ。二人の息はこれ以上ないほどぴったりだった。曲のリズムを正確に捉え、足運びも緩急をつけるタイミングも完璧だ。
剣を打ち合う演武が如き激しいステップを踏み、愛を囁くあなたの唇がなければ生きていけないとばかりに互いのカラダを抱き寄せる。恋に燃え続ける二人の人生を一曲の中に圧縮したような踊りに誰もが魅了されていた。
ダンスが終わり、万雷の拍手が改めて二人を祝福する。
しかし、会場へ礼も返さず、ディアスはクラリスから手を離した。クラリスは名残惜しそうに指を伸ばす。なのに――そこには今日も贈ったはずの指輪がはまっていない。ディアスは氷のような冷たい眼でクラリスを見下ろす。
「…………おかしいと思っていた」
「ディアス様?」
「私の選んだ女性はお前ではない。私のクラリスはどこだクラリッサ!」
雷よりも鋭いディアスの怒声が轟いていた拍手を止めた。ほんの数十秒前まで手を握っていたパートナーのドレスを強引に掴み怒鳴りつける。
「え、え? なんのことでしょう。ディアス様の言っていることがわかりません」
「いつだ! 一体いつまた入れ替わった。あの娘をどこへやった!」
「誰か、誰かっ! 殿下がご乱心よ! 誰か私を助けなさい!」
「ええいッ、お前では埒が明かん!」
壁際の保護者貴族の並ぶ席を見る。娘を突き飛ばされたのに激怒するでもなく、気まずそうな顔をしているベンゼマン公爵がいる。思い返せば、クラリスへの気持ちを父親である国王へ伝え婚約を認めてもらった時も、公爵は複雑な顔をしていたと言っていた。
一時は公爵も偽物のクラリッサに騙されているのではないかと疑ったこともあったが間違いだった。公爵は完全に黒。クラリッサと共に二人の入れ替わりを仕組んだ一人だ。ならばディアスの知るクラリスは公爵が匿っているに違いない。
「ディアス! どこへ行く!」
ディアスは国王の制止する声を無視して婚約発表の会場を飛び出した。会場警備をしていた騎兵隊から馬を奪い公爵邸へと走らせる。
主が不在の館だ。入るまでにひと悶着起こす必要があるかと思われたが、公爵家のメイドに案内され、すんなり目的の部屋までは行けた。
ノックをしても返事がないため、無断で扉を開ける。部屋の中には、やはりクラリスがいた。美しい黄金を髪を巻いた少女がディアスに背を向けている。
しかし、クラリスはディアスが呼びかけても振り向かない。ずっと壁に掛けられた時計を気にしている様だった。
「今日が最後だったのに……どうして来てしまったのですか」
「なぜだクラリス。君こそどうして振り向いてくれない」
「一応控えておくように命じられたので、昨日は薬を飲みましたが……理由はもうじきわかります……」
時計の鐘が鳴る。
同時に、クラリスの髪に変化が訪れた。
太陽のように眩しかった黄金の髪は漆黒に。
背中まであった長い髪は肩のあたりまで短くなっていく。
振り返るとクラリスとは別人がそこにいた。
瞳の色もミステリアスな深い紫色から黒に変わっている。
顔立ちも、素朴で可愛らしいがクラリッサのように美貌と呼べる類の整い方とは違うものだ。
薬で変えていた変化が解けた。
化粧は今日は元からしていない。
これこそがクラリスだと思っていた少女の素顔。
突然の変化にディアスは目を見開いて固まってしまった。
「やっぱり、落胆させてしまいましたね……。これが本当のわたしなのです。だましていて申し訳ありませんでした」
「いや、そんな……、私は、そんなつもりでは……」
「わたしはクラリス様のように輝ける存在ではありません。もちろん、ディアス王子の隣に立つ資格もありません。どうかお引き取り下さい」
いつかディアスが疑ったことは正しかった。
クラリスは偽物だった。
だがそれはディアスが望む偽物だった。
「やめてくださいっ、わたしはクラリス様ではありませんっ」
伸ばした手が拒絶される。
「私は、本気でクラリッサが君だったらと……」
「わたしはそんな名前じゃない!」
「なら教えてくれ、君は誰だ」
「…………ロッカ」
少女は逃げられないよう肩を掴まれ、顔を背けながら答えた。
「ロッカ、逃げなくていい。身分の違いか。君が貴族でないから私といられないのか」
「そうですよ。それしかないじゃないですか」
「そんなこと気にするな。私がどうとでもしてみせる」
「……無理に決まってます。わたしは庶民なんですよ。王子様となんて付き合えるわけない。わたしが隣にいたらディアス様までバカにされます。誰も認めません」
ロッカは自分を卑下し視線を合わせない。
「君はクラリスとして付き合ってきた友人をどう思う。本当の君を知って彼女たちは君を蔑むと思うか」
「それは、だって……お友達とは違うので……比べるのはずるい……」
「…………ならもうひとつ聞こう。これはなんだッ!」
煮え切らない返事を繰り返すロッカに頭に来たディアスは、首から見えていた細いチェーンを引きちぎった。ペンダントヘッドの代わりにディアスの送った婚約指輪が光っている。
「どうして指輪をクラリッサに渡さなかった!」
「や、やめて……返して……」
「そうだ! 返せと言うからには、これは君の物だ! 私が君に贈った! クラリッサの物じゃない、君の物だ!」
ディアスが高くチューンを掲げるせいでロッカの手は届かない。だが、その婚約指輪を次に手にしたのはディアスでもロッカでもない人物だった。
「殿下と言えど、我が家の使用人に無体を働かれては困りますな。若者故の勢いというものも嫌いではありませんが」
ベンゼマン公爵と共に公爵家の兵がなだれ込んできた。そのまま王子であるディアスを丁重に拘束する。
「放せ公爵! 私はこの娘と、ロッカと話があるのだ!」
「ならん。殿下を会場へ連れて行け。陛下が待っておられる」
「公爵ッ!!」
「殿下、あなたがこうして陛下の意向を蔑ろにする時間が長くなるほど、ロッカの立場を追い詰めていくのだと理解していただきたい」
屈強な兵に両脇を抱えられたディアスは引きずるようにしてロッカの部屋から遠ざかっていく。
「その指輪があるかぎり、君がどれだけ拒絶しても、必ず君を見つける! 見つけ出してさらってみせる!」
ディアスは最後までロッカに向けて叫んでいた。
公爵はそんなディアスを眩しい物を見る眼で送った。
「さて……それが君の本当の姿か、悪くないぞ」
「公爵様、知っていらしたのですか」
「年と経歴を誤魔化しても実名で応募したのは失敗だったな。16歳で黄金の髪と紫の瞳を持ったロッカという名の少女は王都に一人もいなかった」
ロッカはベンゼマン公爵家の力を甘くみていたことを悟った。公爵は単純に自分の目で見てロッカを信用できると判断して置いていたのだ。
しかし、互いにこんな予定ではなかったと気まずい感じが顔に出ていた。これからどうするか、ベンゼマン公爵は話題を強引に変える。
「時にロッカよ、イグナティスという名を知っているかね」
「ベンゼマン家と並ぶこの国の二大貴族だと」
「私の政敵でもあり生涯のライバル。陛下という共通の友がいなければ殺し合っていたであろう男だ。……そやつに話をつけた」
公爵の合図でカバンを持ったメイドが部屋に入ってきた。
「イグナティス侯爵領へ行きなさい。あそこならクラリスも君に手を出せない。これは君の工房の開店資金にするなり、遊びに使ってもらっても構わない。今日までの謝礼とお詫びだ、好きに使ってくれ」
カバンには大量の金貨が詰められていた。
このお金を受け取れば仕事は終わり。ベンゼマン家との縁が切れる。このお屋敷を去り、また仕事を探して新しい人生をはじめなくてはならない。
「クラリスが戻ってから、いい加減気づいていたのではないか。あの子は君が考えるような子ではない。それでも私は父親で、クラリスを見捨てられないのだが」
「そんな……でも、そんな……」
カバンを受け取ろうとしないロッカに公爵が言う。
ロッカの受けたクラリッサの替え玉という仕事はとうに終わっている。それなのにお屋敷に残っているのは囚われていたからだ。
貴族であっても爵位の低い者の名前など覚えないクラリッサにとって、ロッカの築いた交友関係は広すぎた。成績も本人に比べて良すぎる。
クラリッサは何度も周りから「やっぱり様子がおかしい」、「調子が悪い」などの陰口を叩かれ、ロッカから何度も今の学校生活の話を聞かなければならなくなった。
これまでは囚われていたといっても、聴取や嫌なことがあった時に八つ当たりをされる程度だったが、これからは違う。ロッカのせいで大勢の前で恥をかいた。狙っていたディアスも奪われた。クラリッサはそう考える。そしてロッカを許さないだろう。
だから公爵はロッカを外へ逃がす必要があった。
「すまない、そしてありがとう。あの子にチャンスをくれて」
決別の言葉だった。ほんの一年間のことだったが、大きな手で懐かしむようにロッカの頭をなでる。
「ふふっ、最初にメイドたちが募集した『悪役令嬢』という意味では赤点もいいところだったが……おかげで君ならクラリスの悪評を消し去ってくれるのではないかと、いつまでも利用する形になってしまった」
「いいえ公爵様。あなたは実の父よりずっと良くしてくださいました」
「やめてくれ、私はそんな風に言われる男ではない……。誰か、ロッカを馬車へ」
背を向けたベンゼマン公爵から鼻をすする音がした。
ロッカの荷物をまとめたメイドたちに、自分の部屋だった場所から連れ出される。上級学校で出来た友達にも、初めて好きになった人にも別れを告げられぬまま、馬車へ押し込まれる。
こうして、ロッカの悪役令嬢としての日々は終わりを告げた。
イグナティス侯爵領のとある町に“おかゆ屋”というおかしな名の魔術工房がオープンした。一風変わった真っ白なポーションが看板商品だ。
開店したばかりでまだ壁から建材の香りが残るその工房に、真面目に仕事もせず新聞を広げてバカ笑いをする少年がいる。
「姉ちゃん姉ちゃん、なんかデカイ貴族んとこの娘が無一文で国外追放されたってよ。一人じゃなんもできない高慢女じゃ処刑されるより苦労すんだろーな」
新聞ではその令嬢のことを、ある時期から突然別人のように性格が悪くなったとか、パーティーに呼ばれなくなってひどく荒れていたなどの証言を踏まえて散々に書いていた。事件の極めつきは、その令嬢は婚約を破棄された際に逆上して相手の顔をぶん殴ったそうだ。
「ぎゃはははは、マジすげー! 見出しに『善人から生まれた悪魔』とか書かれてんの! ……って姉ちゃん見ないの?」
「はい、準備できた。興味ないから早くお使い行ってきなさい」
「面白いのになぁ……」
次に令嬢追放のニュースから話を繋げたコラムへ目を移す。
「なになに……、悪役令嬢は危機回避ができて一流、ヘイトコントールまでできて超一流。おたくのお嬢様は何流ですか? なんだこの記事、メイドが書いてんのか」
ばんばんと音を立てて新聞を広げるが、ロッカはロミオの方を見ようともしない。新聞を避けているようだ。ロッカは王都の話題が出るといつも遠ざけようとする。
以前は、名前も言えないような高貴な出のお嬢様の替え玉になって上級学校へ通った話を楽しそうに話していたのに、最近はまったくしなくなった。急に大人びた顔をするようになったのもその頃だったか。一度だけ言っていたことがある。
『モラトリアムはもう終わったの。魔術学校は卒業したのに、一年も長く学校でみんなと遊んでいられた。わたしもそろそろ大人にならないと……』
ロミオは姉の態度に納得がいっていなかった。
わからない。諦めることが大人になることなのか。
この“おかゆ屋”の開店資金を出してくれた人物との約束もおかしかった。ロッカは二度と王都に入らないことが条件だなんて意味がわからない。
しばらくは仕事に集中したいから“男除け”にと付けている指輪もだ。以前のロッカなら調合の邪魔になるようなアクセサリーは付けなかった。絶対に特別な男からのプレゼントだとロミオは疑っている。
しかし、姉の恋愛に口出しするシスコン男にはなりたくない。こんなことではいつまでも彼女ができない。ロミオは新聞をテーブルに置いて玄関を開ける。
「そうだ姉ちゃん、俺もそろそろ独立したいんだけど」
「人手が足りないの」
「だったら誰か雇おうぜ」
「てゆうかロミオまだ15でしょ、まずは魔術学校に行きなさい」
「ハハッ、3歳から現場でこき使われてんのに今更学校でナニ学べって? オレ、たぶん姉ちゃんより天才だよ?」
「…………学ぶことは、きっといくらでもあるよ」
納得いかないままロミオは工房を出発した。
ロミオの仕事は品質を管理しながらポーションを配達することだった。イグナティス侯爵領から付き合いのある村や町を通って、最後は王都にまで顔を出さねばならない。
「ふぅ、お次は……カーリアン家か。つーかなんで王都にこんな取引先多いんだよ。貴族の家まであるしマジ疲れるわぁ……って、あれはたしか……」
配達途中、ふと通りかかった魔術学校が気になった。姉が通っていたこの学校には“壁募集”なる申請するだけで誰でも自由に使える掲示板があったはずだ。
つい口角が釣り上がる。ロミオは悪だくみをする悪ガキの顔で古びた建物へと入っていった。
「今日も人探しのご依頼ですか」
「ああ、頼む」
その男が書類を提出すると受付の女性は困ったような顔で受け取った。このやり取りをするのはもう何度目か。手続きにも慣れた様子でテキパキと処理していく。
「ほんと、どこ行っちゃったんでしょうねぇ」
「もしかして君は知り合いだったのか」
「もう二年前かなぁ。すごい優秀だったのに毎日ここへ通っていたんですよ」
「魔術師というのはそんなに仕事がないものなのか」
「いえあの子ってば、就職活動する時期にスキーで全身骨折して入院していたので」
受付の女性がくすくすと笑いながら答える。才能だけはある子だったのに、最後は怪しい求人に手を出して行方不明になってしまった。それでも、元気でやっている確信だけはあるのだろう。女性は思い出話に花を咲かせる。
「そう言えば、貴方はどういうご関係だったんですか」
男は言葉を詰まらせた。無意識に薬指にはめた指輪を撫でる。
受付の女性もこれは聞いてはいけないことを聞いてしまったと黙る。
お互い無言になって手を止めてしまう。
「ごめんよイケメンのにいさん。こっち急いでンだわ、お貴族様と違って労働階級にはヒマがなくてね」
そこへ、如何にも反抗期真っ盛りな黒目黒髪の少年が割り込んできた。のんびりおしゃべりをしながら手続きをしている男に我慢できなくなったようだ。求人を貼るだけだから自分の許可を先にしろと言う。
カチンときた男は、軽くしつけてやろうかと思ったが、どこか見覚えのある少年の顔を見て手を止めた。性別こそ違うが今は見たくないタイプの顔立ちだった。逃げるように視線を逸らし――少年の提出しようとしていた求人票が目に入った。
少年の許可を取る暇さえ惜しい。引きちぎる勢いでその紙を奪い、男は何も言わずその場から走り去った。
「ちょっ!? なんなのあの人、貴族ってせっかちで怖いわぁ」
「まあまあ」
受付の女性は笑顔で新しい求人用紙を少年に差し出した。
男は全力で走る。風が顔を叩き、柄にもなく瞳が潤んでいた。
昼夜休まず馬を飛ばせば、明日の夜には書かれた場所へ辿り着けるだろうか。ぐしゃぐしゃになった求人用紙を握る手に力が入る。
「見つけた……こんなところにいたのか、ロッカ……」
評判になりはじめたばかりの魔術工房の女主人がさらわれる事件が起きたのは、このすぐ後のことだった。