プロローグ:記憶の中の少女
蒸し暑さが残る初秋の朝、蝉の声がまだ耳に響く。都会の喧騒が少しずつ遠のき、学校の校門を越えた瞬間、そこは別の世界に変わる。日常の繰り返し、教室での変わらない光景。橘 樹は、そのありふれた風景の中にいた。
「よぉ、また今日も同じ顔だな、橘!」
背後から聞き慣れた声が響く。親友の水無瀬 奈々(みなせ なな)だ。明るくて、元気で、誰にでも愛される彼女は、毎朝こうして橘に声をかけるのが習慣だ。
「お前もな、奈々」
橘は苦笑しながら振り返り、彼女に軽く手を振った。奈々の快活な笑顔は、いつも通りに見える。しかし、橘はふと気づいた。奈々の目がどこか疲れているように見えたのだ。彼女の表情の裏に、何か隠されているような違和感があった。
「どうかしたか?」
「え? 何でもないよ。何、変なこと言わないでよ」
奈々は慌てた様子で笑い飛ばした。だが、その笑い方には微かな戸惑いが混じっていた。橘はそれ以上追及せずに歩き出す。彼女は時々、こうした反応を見せることがあった。奈々は普段、人に心配をかけまいとする性格で、何か悩み事があっても決してそれを表に出さない。
橘自身も、それほど他人の内面に踏み込むことは得意ではなかった。むしろ、奈々のように明るく振る舞う人たちを羨ましく感じていた。そんな自分を知ってか、奈々はいつも気さくに接してくれ、橘も自然と彼女に頼りがちになっていた。
教室に入ると、他のクラスメイトたちが騒ぎ始める。何でも、明日から新しい転校生が来るらしい。彼らは噂話に夢中になっているが、橘は特に興味を示さず、自分の席に座った。今日も平凡な一日が始まるはずだった。
だが、その予想はあっさりと裏切られた。
昼休み。奈々が家庭科の授業で作ったお弁当を橘に見せてくれたときのことだ。鮮やかな彩りのサラダに、ふんわりとした卵焼き。奈々は嬉しそうに微笑んでいた。
「どう? 今日のは自信作なんだけど!」
「うん、見た目は完璧だな」
橘は卵焼きを口に運ぶ。優しい味わいが口の中に広がる。しかし、その瞬間、彼の視界が突然ぼやけた。
「……!」
頭の中で何かが弾けるような感覚。そして、目の前の光景が歪んでいく。まるで、現実が解けていくように感じられた。
「橘? どうしたの?」
奈々の声が遠く聞こえる。しかし、橘は声を発することができない。意識が深い闇の中に沈んでいくようだった。
次の瞬間、彼は見知らぬ場所に立っていた。
目の前には、薄暗い部屋。壁は剥がれ落ち、天井からは蜘蛛の巣が垂れ下がっている。窓から差し込むわずかな光が、部屋の荒廃ぶりを浮き彫りにしていた。何が起きているのか理解できず、橘は戸惑う。
「ここは……どこだ……?」
突然、背後から声が聞こえた。振り返ると、そこには小さな女の子が立っている。彼女は橘を見上げ、怯えたような目をしていた。
「お兄ちゃん、助けて……」
橘は一瞬、何が起こっているのか把握できなかった。その瞬間、頭に強烈な痛みが走り、視界が再び真っ白になる。そして、気がついたときには、目の前には奈々が心配そうに橘を覗き込んでいた。
「橘! しっかりしてよ! 大丈夫?」
「……ああ、大丈夫だ。ただ、ちょっと気分が悪くなっただけだ」
そう言いながら、橘は自分の額に手を当てた。汗が滲んでいる。さっき見た光景が何だったのか、全く理解できない。しかし、それはただの夢ではなかった。あの少女の声、怯えた表情――あまりにも鮮明だった。
「本当に大丈夫? 顔色悪いよ」
奈々が心配そうに見つめる。橘は曖昧に笑いながら頷いたが、心の中では不安が膨らんでいた。自分に何が起きているのか、まるで見当がつかない。
その日、授業が終わると橘は早々に家へ帰った。疲労感と共にベッドに倒れ込む。心の中に不安が渦巻き、眠れぬ夜が訪れる。だが、その夜、再びあの奇妙な体験が襲ってきた。
夢の中で、橘は再びあの薄暗い部屋にいた。床には埃が積もり、窓からは朽ちた木々が見える。そして、再びあの少女が現れた。
「お兄ちゃん、助けて……」
彼女の声は前回よりもはっきりと聞こえた。橘は必死に何かを言おうとするが、声が出ない。彼の中に恐怖が広がっていく。
「待って……これは一体……?」
少女は何も言わずに橘をじっと見つめる。その瞳の奥には、何か言いたいことがあるかのような強い意志が感じられた。しかし、彼女はただ「助けて」と繰り返すだけだった。
目が覚めたとき、橘はベッドの上で汗だくになっていた。心臓が激しく鼓動を打ち、息が乱れている。冷たい汗が額から流れ落ち、彼は再びあの記憶のようなものに取り憑かれた感覚に襲われた。
「あれは……夢じゃない。記憶だ……」
橘は直感的にそう感じた。あの少女の存在は、ただの幻想ではない。まるで、誰かの記憶に入り込んだかのような感覚だった。
翌日、学校に行くと橘は再び違和感を感じた。クラスメイトたちは普段通りに過ごしていたが、彼の視界には時折、断片的な映像が浮かび上がる。まるで、自分の周囲の人々の記憶が漏れ出しているかのように感じた。
そして、その日は決定的な出来事が起こった。
放課後、橘は教室で一人で片付けをしていた。すると、背後からひそひそとした話し声が聞こえる。振り返ると、二人の女子生徒が話し込んでいた。
「ねぇ、聞いた? あの事件……」
「うん、でも先生は何も言わなかったよね。何か隠してるのかな?」
その会話が耳に入った瞬間、橘の頭の中に再びあの痛みが走った。そして、視界が暗転する。
目を開けると、彼は見知らぬ場所にいた。暗い夜道、街灯がぼんやりと照らす中、一人の少女が震えて立っている。その顔には恐怖が浮かんでいた。彼女はゆっくりと振り返り、誰かの足音が近づいてくる音が聞こえた。
「いや……来ないで……!」
少女は叫び声を上げ、走り出した。しかし、彼女の背後には何者かが追いかけてきていた。橘はその光景を見ているしかなかった。まるで、自分がその場にいるような感覚だったが、手足が動かない。
次の瞬間、橘の意識は現実に戻された。気づけば、教室に戻っていた。心臓が激しく鼓動を打ち、息が上がる。
「今のは……」
橘は自分の手を見る。震えていた。あの少女は、誰なのか。彼の頭には、数々の疑問が渦巻いていた。
翌朝、橘は目覚めた瞬間に自分が汗びっしょりになっていることに気づいた。体が重く、頭痛も残っている。まるで、現実と夢の区別が曖昧になっているかのようだ。昨晩の夢――いや、あれは夢ではなかった。あの少女の記憶が、現実のように鮮明に思い出される。
「何が……起こっているんだ?」
橘は自分の額に手をやり、深く息を吐き出した。この数日間、立て続けに同じ夢を見ている。いや、それ以上に、なぜ自分が彼女の記憶を見たのか、その理由が分からない。
学校に向かう途中も、その不安は頭を離れなかった。登校途中、奈々と合流するが、彼女との会話も上の空だ。
「ねぇ、橘、今日はなんだか元気ないね。ちゃんと寝た?」
奈々が心配そうに尋ねるが、橘は適当に誤魔化した。昨晩の出来事を説明しても、理解してもらえるとは思えない。自分自身もその現象を信じられないのだから。
「大丈夫。ただちょっと寝不足なだけだよ」
奈々は疑わしげに橘を見つめたが、あまり深くは追及しなかった。それが彼女の優しさだった。いつもなら、これで気持ちを切り替えることができるのだが、今日は違った。橘の頭の中には、あの少女の姿が焼き付いて離れない。
その日の授業もまた、集中することができなかった。教室の窓際に座りながら、ふとした瞬間に周囲の人々の声が遠くに聞こえるような気がする。目の前に広がる現実がどこか遠のき、自分だけが別の次元に取り残されているような感覚だ。
そして、また――。
橘の視界がぼやけ、意識が遠のいていく。まるで、何かに引き込まれるかのように、自分の体がふわりと宙に浮いたような感覚。気づけば、またもや別の場所に立っていた。
目の前には、荒れ果てた廃墟のような場所。あの少女が再び姿を現した。今度は彼女はひとりではなかった。誰か、年上の男性が彼女に話しかけている。橘は声を出そうとするが、やはり声が出ない。目の前の光景を見守るしかなかった。
「何をしているんだ?」
その男は怒鳴り声を上げ、少女を叱責しているようだった。少女はただ怯え、涙を浮かべて男に従おうとしている。橘はその様子を見ているしかない。まるで、自分がその場にいても何もできない存在のように感じられた。
「助けて……」
再び、少女の声が響く。彼女の瞳は、橘をまっすぐに見つめていた。目が合った瞬間、橘はその声が直接自分の頭に響くような感覚を覚えた。
その瞬間、視界が明転し、橘は現実の教室に戻っていた。クラスメイトたちは誰も彼の異変に気づいていない。だが、橘の心臓は激しく鼓動を打ち、息は荒くなっていた。
「今のは……何だ……?」
橘は震える手で机を掴み、冷や汗を拭った。もはや偶然ではない。自分が見た光景は、何かしら現実と関わりがあるに違いない。だが、その正体が何なのか、全く見当がつかなかった。
放課後、橘は自分が何かに引き寄せられるようにして図書室に向かった。学校の静かな図書室の片隅、彼は一冊の古びた本を手に取る。超常現象や記憶に関する研究書だ。もちろん、こんなことは信じてはいなかった。だが、自分の身に起きた出来事を説明するためには、何か手がかりが必要だった。
ページをめくるたびに、橘は次第にその内容に引き込まれていく。記憶の操作や、潜在意識にアクセスする能力についての記述が続いている。まるで、自分がその一部であるかのような錯覚に陥りそうになる。
家に帰ると、橘は一人で部屋にこもった。机の上には、図書室で借りた本が積み上げられている。彼は深呼吸をし、ゆっくりと目を閉じた。
「どうすれば、あの記憶の中の少女を救えるんだ?」
頭の中で、幾度もその問いが巡る。あの少女は自分に何を伝えようとしているのか。自分が彼女にどう関わるべきなのか。そんな問いが橘の心を支配していた。
その夜、再び夢の中で、あの少女の声が響く。
「助けて……お兄ちゃん……」
その声に導かれるかのように、橘は眠りの中で再び記憶の中に入っていった。