第九十話 清算
いつもは開いてある大きなゲートの、今は閉められた片側の扉の前で、月花亭の店主ゴーシュは力の限り叫んでいた。
その顔はジェインとカティアの想像通りだった。
「アシュリーを……どうか、よろじぐ、お願い、じ、じます」
ゴーシュは小さくなる馬車へ、嗚咽交じりに言いながら深々と頭を下げた。
────あの時。
ジェインがゴーシュの胸倉を掴み、剣を突き付けたあの時。
ゴーシュは最期の瞬間までジェインにアシュリーのことを頼むつもりのようだった。今消されそうなのは自分の命だろうに、それは些末と言わんばかり、繰り返しアシュリーの名を口にする。
アシュリーの運命の過酷さが少しでも軽くなる可能性があるのなら、すべて喜んで受け入れるのだろう。その涙と鼻水に塗れた顔をじっと見ているジェイン。
一向に冷たい剣の感触が伝わってこないことを不自然に思ったのか、ゴーシュがそろりと薄く目を開けた。
と、ジェインがゴーシュを掴んでいた手を放し、そのままぐいっと押し戻した。
「う!」
身体を押されてどさりと椅子に倒れ込み、ゴーシュが短く呻いた。
「ど、どうし……」
「はぁ~」
大きな溜息だった。尋ねようとしたゴーシュが言葉を思わず飲み込むほどの。
ジェインは部屋の灯りを無駄に割増で跳ね返している剣を、溜息を吐きながら鞘に戻した。
その様子を見ながら、ゴーシュは「え」「え」と短い声を漏らしてはおろおろとした。
「……もういい」
「へ?」
「もういいって言ったんだ」
「な、なにが……」
事態を飲み込めないゴーシュが、顔じゅうに分からないという記号を貼り付ける。
ジェインは先刻まで自分が座っていた椅子に、再びどかりと腰を下ろした。
「分からないか? おまえは命拾いをしたってことさ」
またもや深い溜息を吐きながら、ジェインはゴーシュへと答えた。両腕を組み、俯きながらの台詞に、ゴーシュの理解がやっと追いつく。
「そ、それは、でも私は人間じゃ」
「拾い子を! そこまで愛しんで憐れむことが出来るなら、それはもう人だろうが!」
自分を卑下しているようなゴーシュの言葉に、何故かジェインは苛立ち声を荒げた。
「どこにいるんだ。なんの縁もなく、拾った人の子を生かすために自分の命を差し出すなんて魔物が、おまえ以外に一体どこに」
まったく馬鹿げた希少種だ、と呟きながら、ジェインの目は先ほど空にした皿を視界に捕らえた。
すっと手を伸ばして、そのままずいっとゴーシュの前に押し出した。
「だが、いいか。おまえが誰かに危害を加えたその時は必ず舞い戻り、おまえのその首に冷えた刃を突き立ててやろう。さあ、今まで通り人として過ごすとお前の宝に賭けて誓え」
その二つの碧の宝石は底深く、視線を合わせる他なかったゴーシュは、瞳の奥に見てはいけないものを見たようでぶるりと震えた。
「ち、誓います」
急な展開に言われるがまま復唱したゴーシュ。その言葉を受け取ったジェインが、表情柔らかく、にやりと口角を上げながら言った。
「よし、じゃあさっきのこれ、おかわり」
『この、万年空腹娘が!』
余程口に合ったのか、カティアの嫌味も知らんぷり、二回目の食事を一週間ぶりのような食べっぷりで平らげた。
「アシュリーには私から話す」
満足そうにお腹をさすりながらそう言うと、ジェインはアシュリーの夕飯を持って調理場を後にした。
ぽかんと口を開けたまま、賞金稼ぎの後ろ姿を見送ったゴーシュ。
「これは……どういう……。俺はまだ、ゴーシュでいられる……?」
今更ながらに膝が笑い出し、調理台を背にずるずると滑りながら床に座り込んだ。
「は、はは……ああ、これで……これでリオも見送ってやれる」
ひとりぼっちで旅立たせることを気に病んでいたのか、もうひとりの宝ものにも思いを馳せる。
二人を乗せた馬車が、ゴーシュの視界から消えようとしていた。
「うおお! 間に合わずか!!」
「まったくお前まで来るって言うからだぞ」
ゴーシュの頭上から、知った声が降ってきた。ふと、視線をやる。
二頭の馬が、それぞれに主人を乗せて立っていた。
「どうするんだ、カーラント。追いかけるか?」
どうどうと手綱を引き、ザイストが馬をなだめながら、道の彼方を見たままのカーラントに言った。
「……いや、もう厳しいだろう」
一頭立ての馬車と隊士が乗る馬のスピードは段違いのはずだったが、カーラントは追うのをやめた。
「今ならまだ追いつけるぞ」
ザイストが不満気に口を尖らせる。
「そうだが、彼女はきっとそれを望まないさ」
数えるほどしか会っていないはずのジェインの気性を、なぜか正確に読んだカーラントが、短く数度首を振り答えた。
「そうかあ? オレはあの別嬪なちびっこにも会いたかったんだけどなあ」
守護隊本部で披露されたちびっこサラの剣捌きが忘れられないのは、カーラントも同じだった。それ以上にジェインのことが脳に刻まれてはいるが。
「まさかこんなに早く出て行くとは考えていなかったからな。礼のひとつも言いたかったが」
馬車が見えなくなった道の先を名残惜しそうに見ていた二人の隊士。いつまでも見ていることはできず、一人は溜息を吐き、一人は苦笑いを浮かべながら馬首をめぐらせる。
「ん? あれ、確かあなたは……」
そこで漸く自分たち以外にも人がいたことに気付いた。
「はい、月花亭アシュリオの店主をしています、ゴーシュです」
丁寧な挨拶に、カーラントもザイストもさっと馬から降りた。
「自己紹介まだでしたよね。守護隊副隊長のカーラントです。月花亭といえば……」
言葉を濁したカーラントにゴーシュは自分の頭に手をやりながら、俯き加減で答えた。
「ええ、そうです。あの時は有難うございました」
言って、深々とお辞儀をした。
「ああ、やめてください、私達は何も、何も出来なかったんですから」
ゴーシュを前にカーラントとザイストはばつが悪そうな表情を見せた。そんな二人に、ゴーシュはゆっくりと数回頭を振った。
「あの、もしかしてジェインさんの見送りですか?」
三人の間にしんみりとした空気が流れ、カーラントがそれを破いた。
「ええ、そうです」
まじまじとゴーシュを見ると、赤く染まった目に頬に、涙と鼻水もまだ活躍中だった。しっかりと声も鼻にかかる。よほど別れを惜しんだのだろう。
「私たちもでしたが、若干遅かったようですね」
「褒賞金のこともあるし、出発はまだだと思っていたんですがね」
カーラントとザイストが代わる代わるゴーシュに言った。
「あ、そうそう、褒賞金」
カーラントがザイストの台詞で何かを思い出した。
「ジェインさんが今回の討伐褒賞金のほとんどを、街に寄付されたんですがご存知でしたか」
「え?」
「正確に言うと、今回の被害にあった方々やその遺族に、と」
「ええ?」
「まったく賞金稼ぎとはって話ですよ」
茶化すような合いの手を入れたザイストをチラ見し、カーラントは続けた。
「その中でも月花亭のご主人と、雑貨屋のリュシェルさんのところには手厚くしてくれと聞いています」
折角止まったゴーシュの涙が、これでもかというほどに溢れだした。
「なぜ、なぜそんな」
溢れる涙に口元を抑えながら、ゴーシュは声を漏らす。
「私たちもさっき換金所の主人から伝言を聞いたばかりで……」
「彼女が受け取ったのは前々からこの街にあった褒賞金用の金と、小さな一頭立ての馬車だけだそうで。今回の褒賞金全額と比べたら、ほんの僅かなもんですよ」
ザイストが全く理解できないかのように付け加えた。涙を流すゴーシュにカーラントがその肩にそっと片手を置いた。
「確か宿代の清算と、そちらのご主人には世話になったからと。ああ、月花亭の食事は美味しかった、二人でまた寄るとも、話していたそうですよ」
ゴーシュは崩れ落ちた。
汚れるのも厭わず、外であることを忘れたかのように。
月花亭のゴーシュが大声をあげて泣く。なぜこんなに感情を露わにするのか、二人の守護隊士には理解できなかった。
しかし二人は彼の両側に膝を折り、背中をさすってやることでゴーシュに寄り添った。
甲高く鳴く鳥が飛ぶ。コルテナの街を遠く眼下にして。
青く広がる一片の曇りなき空の下。
二人(とひと振り)の旅の、これが始まり────。
次回エピローグです。




