第八十三話 食べられない料理
「ま、そんなに心配しないでいいよ。私、こういうの初めてでもないし」
だが、ジェインでさえ浮かぶその案を、賢そうな雑貨屋のおかみは言い出さない。確かに完璧ではない案だ。無駄に希望を抱かせた後、絶望を味あわせない様といえなくもない。
「そうなのかい? あたしは師匠に教わっただけで、今まで実際に会ったことはなくてね……。ああ、本当にジェインさんがあの子の傍にいてくれるのならこんなに有難いことはないよ」
リュシェルは言いながら、少し潤んだ目でジェインを見ていた。その瞳に嘘はなさそうだ。
『その教えも抜けていたけど。落第よ、落第』
まるで弟子がそこにいるかのように、カティアは不機嫌な声で騒いでいた。
「銀の目持ちの私がいうのも何だが、ジェインさんには珍しい存在を引き寄せる何かがあるのかもしれないね」
驚いたような、感心したような、複雑そうな表情を見せながらリュシェルがジェインにそう続けて言った。
『あら、本人が一番珍しいんだから』
騒いでいたくせに急に話に割って入ってきたカティアの台詞に、ジェインは思わずごほっと咳き込んだ。
「ああ、大丈夫かい? しかし、リオがあんなことになって、アシュリーもここから出て行くことになるなんてね。なんで急にこんな風に……。ああ、ゴーシュが不憫すぎる」
美味しい料理を提供する宿屋の主人。看板娘に、可愛い少年と三人で仲良く暮らしてきたのだ。平凡で幸せな生活。それらを送ってきた彼らとのことを思い返したのか、リュシェルは咳き込んだジェインを気遣う言葉もそこそこに、長い長い溜息をついた。
テーブルの向こうで思い出を振り返っていたリュシェルに、ジェインはじっと視線を送る。
「それで……私に何か言うことはない?」
なかなか気付かないようで、珍しくジェインが他人に水を向けた。
「ん? ああ、そうだね、ここを立つ前にもう一度、アシュリーと顔を見せに寄ってもらえると嬉しいねぇ」
期待した返事ではなかったのだろう。
彼女の言葉には全く反応せず、ジェインの瞳はリュシェルの視線を捕らえたまま、暫く離さなかった。
「あー、えーと? どうかしたのかい?」
宝石のような瞳に真っすぐ射貫かれて、いよいよ居心地が悪くなったリュシェルが怪訝そうに口を開く。
「いや。……分かった。寄るよ」
ふいに視線を外すと、ジェインは流れるような動作で、椅子をかたんと引き立ち上がった。
「もう帰るのかい?」
「ああ。もう用は済んだ」
「そうかい。今日は本当にありがとう。恩に着るよ」
「必要ない。じゃあ、また」
ジェインは見送りは要らないとばかりに、リュシェルがまだ椅子から立ち上がりかけているところで、さっさと部屋を出ていった。
残されたリュシェルが、片付けようと二つのコップと酒瓶を手に取った。その瓶の軽さに、未練なく出て行った訳が分かった気がした。
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「う……なんだ、この匂い」
ジェインは月花亭の扉に手を掛けて、思わず袖で鼻を隠すように覆った。
店が閉められている証拠の木札は掛けてあるはずなのに、扉の隙間から言い表せない程の何かが漏れている。
『何か作っているのかしらね』
ジェインは扉をゆっくりと開いた。
暗く静かな店内に、ジェインの靴だけが音を立てる。
最初に来た時と違い、店内にはやはり誰もいなかった。漂う香りは、調理場へと続いていた。コツコツと堅い床を鳴らして歩き、ジェインは調理場への最後の扉もゆっくりと押した。
宿泊客はジェインを除いて、他の宿屋に移っていた。ゴーシュから最高のもてなしが出来ないかもしれない、とジェインも一応打診をされたが、構わないとそのまま泊まっている。
移動を断った当初、ほっとした顔をゴーシュが見せたことから、数々の窮地からその度に救ってくれたジェインがいることは、彼らにとっては大変に有難く安心であったようで、結果的には良かったのだろう。
「リオ……」
比較的大きな体のゴーシュが、店のキッチンの隅で体を縮こまらせて座っていた。その姿は昨日の晩と同じように。
「あんた、まさかあれからずっとここに?」
ゴーシュがはっとして顔を上げた。そこに立つジェインを見て目が眩んだのか、それともこの匂いで目が開けづらいのか、両目を細くして恩人を見る。
何度見ても、実際には見たこともない女神に例えたくなる、他の美と隔絶した美しさの恩人がそこにいた。
「ジェインさん」
女神は、入り口の戸の枠を背に寄りかかり、腕を組んでいた。ゴーシュが自分に気付いたからか、ジェインはそこから調理場の中へと入った。作業台を挟んで、見合う形に立つ。
「あ、ああ、えーっと、あ、食事ですね。そうか、もうそんな時間ですか……。いや、作っていますよ。ちょっと待ってください。温め直しますから」
急にジェインに近づかれて慌てたのか、椅子ごと体ががたりと揺れる。ジェインがこの場まで来たのはなぜかと彼なりに推測した台詞が口をついて出る。
その姿を黙って見ていたジェインは、尋ねる言葉を添えずに火にかかる鍋をすっと指さした。




