第七十五話 終演
銀色の無数の小さな粒が突き抜けた跡が、積まれていた椅子や木箱に残っていた。一匹のシェイプシフターにしては広く影響があるのは、微細に散ったせいだろう。
カティアの光は部屋の何も焼かず、ただシェイプシフターとその容れ物だけを焦がしていた。
『あんたの美貌、やっぱりあいつも欲しがっていたわね』
「くれてやれるもんでもないだろ」
『それはそう』
ジェインはくくくと笑うカティアの相手をそれ以上せず、細い剣身をひと振りすると、付いたかもしれない汚れを念の為に振り落としてから鞘に戻した。
『あら? もういいの?』
「ああ、これは私の役目じゃない」
そういうとジェインは黒焦げたジミールの脇へ屈んだ。
「あった」
僅かな時間で捜しあてたそれを、ジェインは親指と人差し指でつまんで持ち上げた。
「リオ! リオ、大丈夫だよ。すぐにお医者さんが来てくれるからね」
必死の形相で家族である二人は、石畳に横たわる小さな体を囲んでいた。だが、ゴーシュが押さえる傷口からは一向に血は止まらない。白い前掛けは赤く染まり、今や彼の両手もその色で染まっていた。
ほんの目の前にある月花亭へと、動かすこともできないほどに小さなリオは酷い有様だった。
アシュリーはずっと、リオに声を掛け続けていた。大丈夫、大丈夫、きっとすぐに治るよ、と。
溢れる血を視界に、どんどん血の気が引いて冷たくなっていく小さな体を擦りながら。
「ごふっ」
「リオ!」
ゴーシュとアシュリーの目の前で、リオが深紅の血を吐き出した。はぁはぁと浅く早く喘ぐ。
対角線上の建物の壁に寄りかかったリュシェルが、その光景を見ていた。さっき無理矢理に起き上がり叫んだせいで、既に指一本も動かせなかった。可愛いがっていた宿屋の姉弟のもとへ駆けつけることも出来ずに、ただ、拷問のようにその場に座る。
「……」
「え?」
リオの小さな唇が、微かに動いた。聴きとれずにアシュリーは、血に塗れたリオの口元へ耳を寄せる。
「アシュ……け、が……い?」
アシュリー、怪我ない?
「ないわ、ない。リオが庇ってくれたから、私にはどこにも……」
ほっとしたように、リオは微かに微笑んだ。
「どうして私の心配なんてするの、大変なのはリオじゃない」
アシュリーは気付かずに流す涙で声を濁しながら、リオに向けて言った。
「もうすぐ医者が来る。リオ、もう喋るな」
目を細めながら言うゴーシュに、リオは視線を向けた。
「……ん。おじさ……あ、と……ね」
うん。おじさん、ありがとうね。
絆ゆえか、リオの紡ぐ言葉の欠片でも会話が成り立つ。アシュリーもゴーシュも、どんなに小さな声も聞き漏らすまいと懸命に耳を傾けた。
「ぜんぶ、」
だがその次の言葉は、音の欠片にも出来なかった。
震える唇。言い終えたのか、リオは僅かに笑みを浮かべた。
「え、なに、なんて言ったの?」
小さな心臓が脈打つ度に、こぽりと湧き出していた深く赤い命の証。
ゴーシュの両手の下で、それが止まった。
「おい」
ゴーシュの身体が震えだす。
アシュリーは両手で掴んでいたリオの手を、握り直した。
「リオ、まって、リオ、どうしたの」
小さな体に、声をかけ続ける。しかし、その瞳は光を失い、半ば閉じかけたまま動かない。がたがたと少女も身体を震わせながら、頭をふるふると左右に振った。まるで子どもがいやいやとするように。
「おい、リオ。嘘だ、やめろ。なぁ、こんな悪戯、おじさんが嫌いなの知ってるだろう? なあ、リオ……リオ!!」
「嫌だったらっ! リオ!!」
ゴーシュの叫びとともに、アシュリーの悲痛な声が辺りに響いた。
丁度その時、ジェインが路地から出たところだった。
リオに覆いかぶさり、泣きじゃくるアシュリー。その上から二人を包むかのように抱くゴーシュの姿が目に入った。
どくん、とジェインの鼓動が跳ねた。
その場景に碧玉の視線が縫い留められる。
────サラ!
どうして、どうして、どうして!
この子が何をした?
白い手、焦げた家、瓦礫の山。
口の中の血が慟哭と共に吐き出される。揺れる、視界。────
『……ン』
ジェインはアシュリー達の方を見たまま歩を止め、その場に立ち尽くしている。
────溢れる後悔と懺悔の雨が降る。
抱きしめた、白い手────。
『……ン、ジェイン! ジェイン!!』
グラスも割れそうなほどの大きな声でカティアが喚いた。思わずジェインはこめかみに手を添える。
「……ちょ、うるさ」
『あ、戻ってきた! あんた一体どうしたの?! 急に動かなくなって、返事もしないで』
ジェインは添えた指でぐりぐりとこめかみを押した。
「……返事はしたいときにする」
『なによ、それ』
頭を二、三度振る。漸く三人から視線を外せた。
「そ……んな」
彼らを見ていたリュシェルの目にも、それは映っていた。傍にいずとも分かるその場面は、できるなら人生で遭遇したくないものだった。
リュシェルの目からひと雫の涙が、すっと零れ落ちていく。
「こっちだ!」
声がしたのは、そのすぐ後だった。
彼らはカーラントと、彼が連れてきた医者と隊士たちだった。横たわる小さな体をすぐさま彼らが取り囲む。そこからはゆっくりと流れる、まるでそう、無声劇みたいに。
誰の声も三人の耳には届かない。
このすべてが劇のような、誰かの空想であってほしいと願うかのように。




