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はじまり

 雨上り、少しぬかるんだ山道をそろそろと荷馬車が走っていく。

 いや、およそ馬車とは思えぬそのスピードは、とろとろと、という方がピッタリか。速度を上げれば落としそうなほどに荷物を積んでいるのかといえばそうでもなく、幌の中にあるものは穀物の袋が数袋と、中の物で歪にゆがんだ幾つかの布袋に、蓋のついた籠数個が、時折道の不具合にゆらゆらと揺れているだけである。傷でもつけば一大事となりそうな高価な品物が使い込まれたその籠や布袋に入っているわけもなく、さして割れ物も見当たらないのだが、ではなぜこの馬車のスピードはこんなにもスローなのか。それはこの手綱を握る男に単純にそうする理由があるからだ。

 ぶつぶつと男の唇が動いている。


「おおっと、雨はとっくに止んだっていうのに、やっぱりここはまだまだぬかるんでるな。……あぁ、思い出しちまう」


 男はぶるっと身震いし、前を行く黒毛の馬に話しかけた。


「よーし、そうだ、ゆっくりだゆっくり。用心してそろそろ進めよ。じゃねぇと、あの時みたいにまたお前が足をとられちまって、俺がぽーんと飛ばされちまうんだからな。あぁ……うん、俺はもう砂利は食いたくねぇ。足は折っちまって痛いってもんじゃなかったし、口ん中じゃりじゃりで目はごろごろ……まったく、二度とごめんだぜ」


 男は首をすくめ、次いで頭を二、三度振った。


「しっかしまぁ、あれだ。逆にあの時はファインプレーだったともいえるな。いや俺の腕が良かったってか」


 呟きながらなにかを思い出した男は、くくっと喉を鳴らした。


「いい感じに風を切ってたっていうのに突然車輪が止まってさぁ、それがぬかるみに突っ込んだんだって分かった時には俺、御者台からふっ飛んでたもんなぁ。あの時見たのがやっぱりあれかね、走馬灯ってやつなのかねぇ」


 ぼやけた目の前に子供のころからの出来事がさ、ぱぱぱっと本当にいくつも見えた気がしたんだぜ、と男は続けた。男の言うとおり、神の気まぐれか男の技量ゆえか結局は軽く足を一本折っただけで事なきを得たが、もう一度あんな風に走馬灯を見るくらいなら、客に遅いとなじられるほうがはるかにマシだよな、と独り言、若しくは馬への話は続いた。


「ほんっと、あんときは死んだと思ったんだぜ」


 二度と同じ過ちは繰り返さない。男はそう心に決め、以後頑なに道が悪い場所を通る時は走らない、という決意でこの仕事を続けていた。

 曇天は続き、このまま陽が地を見ぬまま今日は終わりそうであった。


「うん?」


 と、進行方向に黒い粒がひとつ、男の視界に入ってきた。とろとろと進む馬車のせいで、それが人だと分かるまでには結構な時間が必要だった。だが、それは間違いなく道の脇に座り込む人だった。男はキョロキョロと周りを見回した。この辺りは深い山道をやっと抜けたところ。開けた場所ではあるが、まだ町には少し距離がある。余程の酔狂でない限り、歩いてきたとは考えにくい。

 なのに、見える限り傍に馬車はなく、馬一頭の影すらもない。


 あの人はもうすぐ日が暮れるというのにこんなところで何をしているのだろう。

 その人の前で馬車を止めるべく、うまい具合に手綱を引いた。そのまま通り過ぎるなんてこの男は考えもしなかった。元来人が好いだけがこの男の取り柄のようなもので、今回もまたその部分を大いに発揮することにしたようだ。日が暮れてから街道を歩くなぞ勧められたものではない。例えそれが見ず知らずの相手でも、かかる危険を払えるなら払ってやるのが人情ってもんだ。

 ……彼が考えたのはこの辺りだろうか。


「よう、あんた。こんなところで座り込んでどうした? そろそろ日が暮れるぞ」


 馬車を止め、声をかけた先にいたその人はまるでぼろ雑巾のような身なりの年配の女だった。男は思わず息を呑んだ。街に近いこの辺りもなかなかに物騒で、暗くなると更に輪をかけ、獣の他になんらかの魔物がでると男は聞いていた。まだ魔物が出る可能性のある時間には少しばかり早いはずだったが、もしかしたらこの身なりは、すでに何かに襲われた後なのかも。女の姿はそう考えるほどに足り、憔悴しきった様子だった。

 かけられた声にゆるゆるともちあがった女の顔が、更にその考えを増幅させた。あげた顔には、森の中を怪我することも厭わずに走らないとできないような、草木に弾かれた細かな擦過傷が幾つもあったのだ。縦横無尽に走る赤い線に、これは無理にでも馬車に乗せなきゃならん、と優しいお節介な配達屋に思わせるにそれは十分で。

 男は傷ついた女の姿を見るや、馬車から急いで飛び降り、駆け寄った。


「おい、あんたどうした、大丈夫か! うわぁ、こりゃ酷いな、あちこち血がでてるじゃねぇか。何かに襲われたのか?」


 傷の程度を確認しようと右に左に体ごと揺らし、早口で声をかける。女はあげた顔を男に向けてはいたが、虚ろな瞳は男を見ているような、いないような。当然か何も反応しなかった。

 この女の状態にこの男はとても酷い目にあったのだなと推測した。これはショック状態で、だから何も答えることができないのだ、と。

 答えない女の体と座り込む周囲をざっと見る。全体的に草や枝に弾かれたような痕があちらこちらに走り、手や足は顔よりも傷だらけ血だらけ、靴も片方なく、着ている服のあちこちが裂けていた。 

 だが幸いにも、命に係るような大怪我はしていないようだった。


「あぁ、良かったな! 見たところ、大きな傷はなさそうだ。おっと、いやいや、話は後だ、あと。うん。とにかくこんなところに座っててもしょうがねぇな。もうすぐ日も暮れる。暗くなっちゃ何かが出るか分からん。早いとこ離れた方がいいな」


 彼女の状態を確認しながら、半ば独り言のように捲し立て、自分だけで納得するように首を小刻みに縦に揺らした。


「あんた知ってるかい? このちょっと先にな、あ、ちょっとといっても歩きじゃちとかかるんだが。とにかく少し行くと町がある。コルテナって町でな、俺は戻る途中なんだ。あんたもそこに連れてってやるよ。そこで傷の手当てをするといい」


 傷だらけで放心状態の女はまだ何も応えない。獣や、もしかすると魔物も出るかも知れない夕暮れの山の中、座り込んだ女に、男は手を差し出す。


「ほら、立てるか? 歩けるなら馬車に……あぁ、歩けないんか?」


 返事を促すために男が黙ると、辺りはしんとした。生温かな空気とそれを震わす風が草木を少しだけ揺らす。矢継ぎ早に声をかけはしたが、その間になんの返事もなくじっと動かない相手に男は、そうか、まだ口も聞けず、足に力が入らないのか、それほど怖い目にあったのだろうと考えた。しかしながら、それを肯定する女からのアクションを待つには、この男の気は小さかった。生温かな風と静かすぎる周囲に、女に傷を負わせた何かが現れるかもしれないと妙な焦りが男の中でむくりと芽生えたのだ。そんな素振りを初めて会う女に見せたくないが、早くこの場は後にしたい男は「なら」と、更に気を利かせたつもりで出した手を引っ込めると、女に背を向けて膝をついた。


「さ、おぶってやろう」

「……」


 男の背を眼前にして、今まで無反応だった女の目が瞬きを一度、そしてゆっくりとその口を開くとスローモーションで何らかの言葉を紡いだ。だが、か細い声は小心ゆえにべらべらと喋り続ける男の耳には掠りもしない。


「遠慮なんてすんなよ。あんたはケガ人なんだ。というかよ、急ごうぜ。コルテナ、行ったことあるか? 今から行く街はそこそこでかくてな、大きな診療所もあるんだぜ。そこの先生は腕が良い。まぁあれだ、ちょっと口はうるさいんだが……そこへ連れてってやっから。あ、俺はその街の生まれで、別に怪しい奴じゃねぇよ。あんたをどうにかしようなんてこれっぽっちも思っちゃいねぇから。お節介な性分なだけさ。だからほら、心配せずに、早く背に」


 乗りな、と。親切で運のない男は、そう言葉を続けるはずだったのだろう。

 ──が。


 本番は、走馬灯を見る暇など全くなかったようだ。

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