*12-2
職員玄関を抜け、そのまま管理棟4階南の音楽室を目指す。
タイミング的に、そろそろ浅間が音楽室に来る頃だろうから、その前に帰り着いてケーキを用意しておいてやろうかと考える。
お菓子と飲み物だけでいいとは言っていたが、やはりケーキがあった方が、クリスマスらしくなって喜ぶかもしれない。その顔を、なんとなく見たくなってケーキを買ってしまった。
「……なにやってるんだろうな、僕は」
自分でも何だかガラでもないことをしているなという自覚はある。たかが生徒と少し歓談するだけのはずなのに。
廊下には授業を終えて教室に戻っていく生徒の群れがのろのろと歩き、僕はそれを追い抜いていく。
いままでであれば、生徒の制服が着崩れていないかチェックしつつ、指摘しながら通り過ぎていたのに、今日はそんなことも忘れて足早に通り過ぎていく。
「え? いまのこずえちゃん?」
「だよね? こずえちゃんが制服チェックしなかったんだけど」
「そんなことってある? いつもならすっごく細かくチェックしてくるのに」
通り過ぎた女子生徒たちの話し声を聞き流せるくらい、彼女らが気にならないのは、やはり今日の僕はどこか浮かれているのかもしれない。
自分がゲイだと気付いてどれくらい経つだろう。それから今までの間、僕は誰かとクリスマスをはじめとするイベントごとを、誰かと過ごしたことがない。元来真面目過ぎる性格が災いして、片想いしかできず、想いを告げることさえできなかった。
教師という職に就いてからそれは一層拍車がかかり、ようやくマッチングアプリで見つけた相手があの夜の男で、そしてあの時も大失敗に終わった。
でもあの一件がなかったら、僕は浅間という生徒からはっきりとした好意を向けられることはなかっただろう。いつから彼が僕を好きだと思っていたのかがわからないけれど、少なくとも僕が知ることはなかった。
浅間からは惜しげなくという言葉がぴったりなほどまっすぐに好意を向けられているのがわかるし、好かれて悪い気はしないのが正直なところだ。
――じゃあ、僕はどうしたいんだろう?
4階へと続く階段を昇る足取りがゆっくりになり始め、立ち止まりそうになりながら僕は考える。
僕は教師で、浅間が生徒である事実は変わらない。それを踏まえていてもなお、浅間は僕を好きだという。
浅間に好かれていることが悪くないと思うなら、僕は、教師としてではなく、ひとりの人間として彼とどうなっていきたいんだろう。
「僕は、彼と……」
あと数メートルで音楽室の入り口が見えてくる踊り場に足を踏み出して見上げた時、入り口に佇む浅間と――ひとりの女子生徒の後ろ姿が見えた。
ただそれだけしか見えていなかったはずなのに、僕は反射的に身をかがめ気配を消した。一瞬感じた二人が醸す気配が、微かに誰も近づけさせない秘密めいたものを帯びていたのを察してしまい、反射的にそうしてしまったとも言える。
音楽室は僕の管轄なのに、まるで僕の方が忍び込んでいるかのような状況だ。
こんなところで一体何を……と、二人の様子を窺っていると、「用って何?」と、浅間が切り出したのが聞こえた。
「えっと、浅間君ってクリスマスとか冬休みとかどうするのかなって思って」
「冬休みはほぼ家で過ごすよ。色々やることあるから」
年末年始の洋食店は書き入れ時だろうから、浅間もきっと手伝いに駆り出されるのだろう。
しかし浅間ははっきりと家の手伝いをする話をせず、妙に相手に期待を持たせるような言い方をする。
案の定女子生徒は、「じゃあ、初詣とか一緒に行かない?」と、食いついてきた。
浅間はその食いつきにどういう顔をしているのかがわからない。わからないが、イヤな顔はしていないのだろう。現に、「いいけど」というまたもや期待をさせるような言葉を返しているのだから。
浅間がどういう返事をしようとも彼の自由であるはずなのに、ただそれだけの言葉を彼女に向けていることに何故か苛立ち始めていた。
「ホント?! よかったぁ、嬉しい! 浅間君、誰かと付き合ってるとか噂あったから」
「べつに付き合ってるとかはないよ」
「そうなの? 付き合ってる人いないの?」
浅間が彼女の言葉に肯く気配がし、一層僕は苛立っていく。
いまここで階段を上がっていて、二人の会話の邪魔をする事もできるはずなのに、僕の足は階段に張り付いたように動かず、壁に溶け込んだかのように気配を発していない。まるで、二人がかわす言葉のすべてを盗み聞きしようと待ち構えているかのようだ。
どうしてそんな下劣な真似を……自分で自分の行動と感情がわからず戸惑いを覚える僕の耳に、次の瞬間心のどこかでは予期していた気がする言葉が飛び込んできた。
「あたしね、浅間君が好きなの。初詣だけじゃなくて、もっといろいろ一緒に出掛けたいから、あたしと付き合って欲しいな」
放課後のひと気のない音楽室の前で男女が二人きり。傾き始めた夕陽の演出もあって、これ以上にない雰囲気の中での告白シーンに、明らかに邪魔なのは僕だ。
だからそっと、ようやく動き始めた手足を、ぎくしゃくと音を立てないように動かしながら階段を下りていく。
その際一瞬だけ背後を振り返ると、彼女と見つめ合っている浅間の姿が見えた。その顔は、僕には見せたことがない甘いもので――僕は、その瞬間自分が始まりもしない恋をなくしたことに気づかされた。
「そっか、ありがとう」
そう、浅間は言った気がする。いつも無邪気に僕を「こずえ先生」なんて呼ぶ、「こずえ先生が好きなんだよ」なんて笑いながら言う唇で、嬉しそうなやさしい声色でそう言った気がする。
浅間の言葉を聞いた瞬間、僕はそれまで忍ばせていた足音も構わず階段を駆け下りて行った。
浅間たちに気づかれたかもしれないけれど、構わなかった。きっともうそんなこと、二人の世界に入ってしまっている彼らにはどうでもいいことだろうから。