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*9-2

「おかえり~、こずえ先生」


 音楽室に戻ると、待っていました、とばかりに浅間が両手を広げ、ドアの前で待ち構えていた。その様子が飼い主の帰りを待ちわびている大型犬のように見えて、つい、苦笑してしまう。


「最近よく来るけれど、いいのか? 弟さんの世話はしなくて」


 最近足しげく音楽室に放課後通っているので、ふと気になったことを口にすると、浅間は少し寂しそうな顔をして微笑んでうなずく。


「先週から保育園入ったから。やっと近場に空きができたって母さんが喜んでた」

「そうか。よかったな」

「まあねぇ。俺に負担かけてたって親から謝られてマジ気まずかった」

「そりゃそうだろうな……」


 保育園に入ったら何かと忙しいだろうから、浅間が弟と遊ぶ時間も減っていき、彼は彼の時間を過ごせているから、放課後にこうして僕を待っていたりできるのだろう。

 でも、それならばもうわざわざピアノを習いに来る口実はないのではないだろうか? と、気付く。口止めの代わりに彼と交際することは出来ないから、その代わりの代わりでのレッスンだったのだから。

 約束を交わした当初から変わってしまった状況に気づいて、ピアノの前で立ち尽くしている僕に、「こずえ先生?」と、浅間が顔を覗き込んでくる。


「先生、どうかしたの?」

「いや、別に……」


 君と放課後にこうして会うのはもう最後かなと思ったら、何故かショックを受けてしまった、なんて言えるわけがない。それではまるで僕の方が彼を恋しがっているみたいじゃないか。

 口止めの約束は、また別にかわさなくてはいけないのだろうか。それこそ、金で、とか。

 そんなことを考えていると、「あのさ、先生」と浅間が言ってもたれかかっていた体勢から背筋を伸ばしつつもじもじとして口を開く。


「あのさ、俺まだピアノ習いに来ていい?」


 まるで小学生くらいの小さな男の子のような言い方で、大人びた顔つき体つきの彼に不釣り合いすぎて、つい、笑みをこぼしてしまう。


「ああ、いいけど……まだ弟さんに弾いてやりたいのか?」


 なんだか意地悪な訊き方をしてしまってしまったなと思ったけれど、浅間は少し考えてから「んー……それもまあなくはないけど……」と言い、更にこう続ける。


「なんて言うのかな……なんかさ、俺、楽しくて」

「楽しい?」


 うなずく浅間の目がきゅっと糸目になって、彼の感情を読み取れなくする。いま彼は本当に楽しいと言っているのか否か、わからない。

 もし前者ならば教師として喜ばしい限りだと思えるけれど……そうでなかったら?

 後者だったとしたら、僕は彼にまだ何かしなくてはいけないんだろうか。この身を差し出すような、何かを。


(でもそれは、教師として許されない。そんなことしたら、僕を傷つけたあの男と同じになってしまう)


 わかりきっている大前提を胸中で唱えつつも、同じ胸の中に目の前の彼のギャップに甘く締め付けられている想いも同居している。

 矛盾している自覚は大いにある。明らかにおかしいと自分でもわかるのに……どうして、止められないんだろう。


「ねえ、こずえ先生、ダメ? ピアノがこんなに楽しいなんて俺初めて知ったんだよ」


 ダメ押しをするように首を傾げ、顔を覗き込もうとしてくる浅間が近づいてくるのを、僕は顔を背けてかわす。


「ダメ、ではないけど……」

「けど?」


 自分で言葉を中途半端に切っておきながら、その先を考えていなくてうろたえそうになる。

 数秒ものすごい勢いで頭の中に考えをめぐらし、そうして導き出した言葉を答えとして差し出すために、僕は彼の方を振り返った。


「けど……付き合うとかは、ないからな。僕は先生で、君は――」


 ようやく絞り出せた答えが、馬鹿の一つ覚えのような言葉でしかなくて情けなくなる。その上、下手すれば浅間を傷つけかねない言葉でもあるのに、僕は差し出してしまった。

 それでも浅間はくすりと笑い、うなずいてくれる。


「――わかってるよ。俺が生徒だから、って言うんでしょ? こずえ先生のそういうきちんとしたとこ、俺、好きだよ」


 聞き分けの良い子どものような口ぶりに、胸が痛くなってしまう。自分で突き放しておきながら、なんて勝手なんだろう。

 お手本のような聞き分けのいい返事と、いつもの告白の言葉に安堵しつつも、心のどこかでガッカリもしている自分に気づかないふりをする。

 感情の読めない浅間の穏やかな糸目が、真相を見透かすように僕を見つめていた。




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