*8-2
「わかったかな? こういう感じにすごくゆっくりでいいから音を1つ1つ拾って――」
一通り弾き終えたところで浅間の顔を窺うと、その顔は射し込む夕日のように赤く染まっていた。さっきまで、僕のことを挑発するように手を取って、引き寄せようとしていたくせに、まるで小さな男の子のようで、僕の方まで恥ずかしくなる。
そして同時に、彼が僕に対していだいている気持ちがあって、それが初めての恋であることを思い出す。
「あ、は、はい……あざ、っす」
小さな声で雑なお礼を言い、浅間はパッと手を引っ込めてうつむく。まるで僕の方が彼を惑わすようなことをしてしまったようなリアクションで、こっちがうろたえそうになってしまう。
だけど、ここで僕までうろたえるような態度を取ってしまったら、レッスンにならないから、僕はあくまで平静を装って教師らしい振る舞いをする。
「じゃ、じゃあ、一人でやってみてごらん。つっかえてもいいから」
僕の言葉に浅間はこっくりとうなずき、先ほどよりもずっとぎこちなく止まりそうなスピードで『ねがいのおほしさま』の冒頭を弾き始めた。
その様子を窺いながら、僕はそっと彼のそばから少し離れて後ろへ回り、大きいのに小さく屈めた制服姿の背中を見つめる。
なんの穢れも傷もない、まっさらなそれには、僕の隣には自分こそという気負いのような気概にあふれていて眩しい。
幼ささえある、若さゆえの熱く激しい恋情が僕に向けられているのだろうか。それを信じて受け入れてしまうには、あまりに僕も彼もいまの立場では許されがたい行為だろう。
僕は教師で、彼は生徒。僕らの間にある壁は、一方の強い想いだけで越えていいものではないはずだ。
「あ、間違った。ねえ、先生、ここどうやって指動かしたらいい?」
越えられないものを改めて確かめている時に不意に浅間に声をかけられ、僕は我に返る。
浅間は僕の方を振り返り、手招きしつつ譜面を指して教えを請おうとしていた。
もしかしたら、彼はさっきのようにまた手を重ねて欲しいと思っているかもしれないと一瞬考え、僕はあえて彼の手を取らずに僕だけで弾いて見せる。いま彼に触れることで自分の感情がかき乱される気がしたからだ。
ゆっくりと、だけど浅間よりもはるかに滑らかに奏でられたメロディに、浅間はどういう顔をしているだろうか。そんなことを考えながら、僕は見本としての演奏をゆっくりと繰り返す。
「……って感じなんだけれど、わかる?」
弾き終えて振り返ると、浅間は食い入るように僕の手許を見つめていて、やがて僕の視線に気づくと、パッと顔を照れ臭そうにまた赤らめて小さくうなずいて笑う。
「……俺、こずえ先生の弾くピアノ、好きだなぁ」
「君は僕が絡むなら何でもいいのか?」
僕がすること成すことに好きだという言葉を口にしている気がして、呆れながら言うと、浅間は更に顔を赤くして、「そういうワケじゃ……」と、うつむく。
整った顔つきと大きな身体をしていて、仕草も口調も僕なんかよりうんと大人びて見えるのに、彼はまだまだ17歳で、いましている恋が初めてなんだと改めて気付かされる。
(――少年と青年の狭間の年頃の彼に、僕は恋をされているんだ)
そんな当たり前を、ふとした時のこういう仕草や態度で突き付けられ、胸が痛むように高鳴るのはどうしてだろうか。不器用でありながらひたむきに旋律を追う指に触れて欲しくなってしまう僕は、教師としてどうかしている。
「ねえ先生、俺、ピアノも先生も好きだな」
そんな残酷とさえ思える無邪気な言葉を、夕陽に包まれる音楽室で浅間は容易く口にするのだった。