*8-1
「いきなりテレビの曲というのはハードルが高いから、これでどうだろう?」
補習する内容が、どうにか現行の授業に追いつき始め余裕が出てきたので、ようやく浅間たっての希望である、ピアノのレッスンをすることになった。
浅間の希望はテレビで放送されている、定番の子ども向けの曲ではあるけれど、曲を聴いた限りでは、ドレミが辛うじてわかる程度だという浅間にはまだハードルが高い気がする。
だから、練習の定番曲でありつつ一応小さい子どもウケもするとよく聞く楽曲である、『ねがいのおほしさま』の楽譜をプリントアウトしたものを手渡す。
「え? これってどんな曲?」
言われるであろうと思っていた質問に、僕は座っていたピアノでメロディを弾き始める。左右の運指は違うがゆったりとしたテンポで、ドレミが読めるのであれば練習を重ねればすぐに弾けるようになるだろう。
色々な作品の挿入歌としても使われる屈指の有名曲なので、浅間もメロディを聞いたらどんな曲かわかったらしく、ああ! という顔をしてうなずいている。
「これ、奏多のメリーのオルゴールの曲だ。へぇ、こういうタイトルなんだ」
「まあ、子ども用のおもちゃとかオルゴールによく使われている曲ではあるかな。これなら、テレビの曲がでなくても弟さんは喜ぶと思うけれど」
「そうだねぇ、これもいいかも。んで、これ出来たらレベルアップして、この前言ってた曲教えてくれる?」
どうしてもその曲が弾けるようになりたいのか、それともこの曲ができた以降も僕に付きまとうつもりなのか、真意を測りかねて眉をひそめていると、浅間はまた唇を尖らせる。
「そんな、もろに嫌そうな顔しないでよ。俺がこずえ先生のこと好きって知ってて、わざとそんな嫌そうな顔する?」
「べつに、そういうワケじゃ……」
「え、じゃあ、俺のこと好きになってくれた?」
嫌っているわけではないが、彼の好意に応えようと思っているわけではない。それとこれとは話が別だし、そこをはき違えてしまうとお互いの立場が危うくなってしまう。
だから僕はこほんと咳払いして居住まいを正し、ずいずいと近づきながら迫ってこようとしている浅間の前に手を広げてかざし、押し止める。
「浅間君、僕はあくまで君の弟さん想いなところを買って、レッスンをすると言ったんだ。君の気持ちに応えようと思っているわけじゃない」
押し止めるために広げている手を取り、口付けんばかりに頬に寄せて引き寄せながら、浅間は仕草に似合わない無邪気な顔をして笑う。
「っふふ、相変わらずこずえ先生、容赦ないね」
「い、いいから、放しなさい! 誰かに見られたらどうするんだ!」
「大丈夫だよ、ここ遠いから誰も来ないよ」
「油断大敵と言うだろ!」
うっかりすれば抱き寄せられそうなのを振り払い、僕はピアノいすから立ち上がる。自分でもわかるほど頬が熱いけれど、それを気にして、これ以上動揺した姿を彼に見せるわけにはいかない。
「ほ、ほら、今日はレッスン受けるんだろう? さっさとピアノの前に座って!」
「はぁい」
慌ててイスへ促すと浅間は小さな子どものような返事をし、機嫌よく譜面を並べ始める。
僕はなんとか体勢を立て直し、溜め息をついてからさっそく指導を始めた。
「浅間君はドレミが読めるということだから、譜面通りにまずは右手でメロディを弾いてごらん。ゆっくりでいいから」
譜面の上段にあたるメロディの音符には音階が振ってあり、その通りに弾けば一応旋律が奏でられるはずだ。
左手は伴奏になるので右手と動きが別になるのでいきなり同時にやらせるのは難しいだろう。
だからまずは耳馴染みのあるメロディの方をやらせようとしたのだが、これが思った以上に苦戦している。彼は、ドレミは読めるけれど、それが鍵盤の位置と一致していないようなのだ。
「えっと、先生、この井戸の井みたいなやつの音はここで合ってる?」
「それはシャープ。半音上がるから、ドの鍵盤の右隣の黒い鍵盤だ」
「これ?」
「そうそれ……ああ、ちょっと待って、一緒に弾いた方がわかりやすいかな……」
ピアノに向かっている浅間の横に立ち、メロディをさらっているのを見守っていたのだけれど、あまりに覚束ないので、彼の手に僕のを重ねて鍵盤の位置の捉え方や運指の仕方なども同時に教えることにした。
僕は浅間のすぐ隣に座り、彼の右手に僕のを重ねながら指を動かし、コントロールするように鍵盤のメロディをなぞらせ始める。僕の手よりはるかに大きな浅間の手に触れると思っているよりも骨っぽく、僕よりもはるかに指が長いことに気づかされた。
重なり合う僕の指の動きに押されるように合わせ、ぎこちなく動いて奏でられる旋律は止まりそうなほどたどたどしい。
曲の頭からゆっくりゆっくり一音ずつ確かめるように弾いていく内に、隣り合う浅間の頬が上気していくのを感じた。