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「で? その弟さんとピアノがどういう関係があるんだ?」
自分がガラにもないことを考えていたことが、表情から露呈しないように取り繕う言葉をかけると、浅間はスマホから顔をあげ、ああそうだ、という表情をする。それこそ何かをひらめいたような。
「弟――奏多って言うんだけど、奏多が最近子ども番組の歌がすっげー好きでさ、ずっと唄ってんだ。でも、ウチの親は毎日遅くまで仕事だからその姿見られなくて。唄って踊ってるとこ、休みの時とかに見せてやれたらなーって思ってんだ」
「だから、ピアノが弾けるようになりたい、というのか?」
「そういうこと! さすがこずえ先生話がはやい!」
それならCDや配信の音楽でも流しながら撮影すればいいんじゃないのか? とも言ってみたのだけれど、それはなんか違う、と浅間は首を横に振る。どういう意味だろうか?
僕が首を傾げ訊ねるように視線を向けると、浅間はあちこちに跳ねている髪の先をいじりながら心なしか寂しそうな顔をして笑う。
「俺、実は奏多のことかわいいって思えるようになったの、最近なんだ。世話を進んでするようになったのも、遊んでやるのも」
「さっきかわいいだろうって自慢してたじゃないか。前は、違ったのか?」
「恥ずかしいんだけどさ、親の関心が全部奏多に向いてるのがすっげームカついてた時があったんだ。赤ん坊なんだからそうされて当然なのに。だから俺、高校入った頃は補導されそうになるくらい荒れてたんだ」
茶髪とかピアスとかはそういう頃の名残みたいなもんなんだよね、と、僕がチャラいやつと断定していた要素について苦笑して触れている浅間の表情に、何故か僕は胸が締め付けられるほど切なくなった。彼に自らをそう卑下するような言い方を、僕をはじめとする大人がさせている気がして。
「そ、そんなことないんじゃないか?」
「え、そう? こずえ先生、マジでそう思ってる?」
思わず語気強く否定した僕に、浅間は嬉しそうに笑う。その、チャラい見た目とは裏腹の少年っぽさの残るエピソードと笑顔に、強くギャップを僕は感じてしまう。しかもうっかりきゅんとしてしまうなんて……次の瞬間に我に返りはしたものの、鼓動は早鐘のようだ。
そんな僕の忙しない胸中など知る由もない浅間は、すぐに大きく口角をあげて嬉しそうに言葉を続ける。
「春くらいからかな~、なんか俺のこと“にーに”って呼ぶようになって、ちょっと遊んでやったらすっげー喜んだりするから面白くってさ。そしたら気づいたら親の代わりに世話するくらい懐かれてて」
「それなら親御さんも喜んでるんじゃないのか?」
「うん、まあね。だから余計に、こんなにかわいいのに、俺なんでいままで遊んでやらなかったんだろう、ってすっげー後悔しててさ。罪滅ぼしじゃないけど、奏多を思いっきり喜ばせるためにも、ピアノ弾けるようになりたいんだ」
誰かを愛し、誰かから愛される。そのしあわせを味わったことでどうにか更生したらしい浅間は、幼い弟のためにピアノを弾けるようになりたいらしいことはわかった。
単純でまっすぐでうらやましいほど清々しい純粋な彼の望みに、僕は自分をみじめに思ってしまう。
僕はと言えば、昨夜の手ひどい失恋とも言えないトラブルのせいでより一層恋をすること、誰かに愛されたいと思うことそのものが怖くなっていて、浅間の純粋ささえ眩しい。
ふつふつと、妬みにも似た気持ちを渦巻き始めた僕の気持ちなど知らない浅間は、「だからさ、」と更に言葉を続けて口を開く。
「だからさ、俺、ピアノ頑張るからさ、ピアノうまく弾けるコツ教えてよ、こずえ先生!」
涼し気な目許を糸のように細め、無邪気な子どものように――いや、まだ彼は実際子どもなのだけれども――そんなことを申し出てくる姿に、僕は面食らってしまった。
僕は、浅間に卒業できるように補習をするという口実で校内での行動を監視できるし、浅間は単位をもらえてついでにピアノも習える。お互いに利害が一致してはいるけれど、あまりに調子が好すぎる気がする。
「……それは、君の言うことを聞かなかったら、この前のことをバラすという取引のつもりか?」
だから思わずそう訊いたのだけれど、浅間は僕の言葉が思いがけないと言わんばかりに一瞬目を丸くし、すぐに良いことを聞いたという顔をして笑う。あの、片頬をあげる大人びた顔をして。
「俺としては付き合って欲しいんだけど……ま、ピアノ教えてくれるっていうのでもいいけど?」
「ま、まずは授業が優先だ」
「いいよ。その方が俺も有り難いし。じゃあ、それが終わったら、ピアノ教えてくれる?」
「僕はまだ教えてやるとは言ってない」
「じゃあ、俺が約束守らなくていい?」
先生はどうする? と、浅間がニヤリとして言いかけた時、合唱部の部員たちが音楽室の中に入ってきた。
「先生、ピアノ貸してー。音源じゃ音程取りにくいの」
「あ、ああ。どうぞ」
「あれ? 浅間君何やってるの?」
部員の女子生徒の一人が知り合いなのか浅間に訊ね、「サボりバレて補習受けてる」と、浅間は笑って答え、やがて二人は楽し気に話を弾ませていく。
先日僕に好きだと言ったり、さっきも付き合って欲しいと言っていたりしていたくせに、目の前で楽し気にしている浅間の姿にそんな言動の片鱗もうかがえない。
(ただ黙っているだけで飽き足らず、好きだのなんだの言って、ゲイの僕をからかっているのか?)
そう考えはしつつも、向こうのペースになりつつある条件を、飲まなくてはどうなるかわからない。
さっそく自分の想定外の展開をしてしまった事態に僕は頭を抱えたい気分だった。