おぎゃあ
帰宅途中の私の後を誰かがつけてくる。だがこれが夢だということはなんとなく分かっていた。
今私が着ているのはセーラー服だ。高校のときの制服はブレザーなのに。そしてあたりの風景は住宅街じゃなくて山道だった。ああ、これは祖母に聞いた昔の田舎の話がベースになっているのだ。だったら私の後をついてきているのははぐれて迷子になった仔牛だ。そういう笑い話だった……はずだ。
振り返ったときにそこにいたのは確かに仔牛だったが、その顔は人の赤ちゃんの顔でそいつは一言、「おぎゃあ」と鳴いた。こいつは牛なのか赤ちゃんなのか……などと考えているうちにそれは熊のように立ち上がった。いや私がそう思うと仔牛は顔も身体も実際に熊になって吠えた。
そのときふと私の頭に浮かんだのは「熊に背を向けて逃げると襲われる。むしろ抱きついていたほうが助かる確率が上がる」というマンガの欄外雑学だった。普段ならそんなことは絶対にできないのだが、私はそれを実行した。
しかしいざ組み付いてみると、熊はまたしても姿を変え、その顔は少し前に別れた男の顔になっていた。甘えてくるときの笑顔にはもう嫌悪感しかなかった。
期せずして抱き合う形となった私に男はキスを迫ってくる。その男のアゴに私は掌底を横からぶつけた。男の口から「ぷひゅっ」と空気が漏れる。それは男の二股がばれてケンカになったときの記憶だった。
そのまま足をすくって男を転ばせ、この隙にと反転して走り出す。しかし足が思うように動かない。これも夢ではよくあることだ。頭では理解しているのだが。
そのとき私の背中に何かが飛びついた。そいつは私の首に短い腕を回して、もの凄い力でしがみつきながら、耳元で「おぎゃあ」と泣いた……。
私は自分の部屋で目を覚ました。階下の台所に行き水道からぬるい水を飲む。二階の暑い部屋に戻る気になれず、扇風機をつけて台所で過ごした。そして、なぜあんな夢を見たのか考えた。
夜が明けて朝の支度に起きてきた母に、私は、「やっぱり中絶せずにこの子を産みたい」と伝えた。
「田辺さん、聞こえますか?」
目の前がぼんやりと明るくなった。誰かが私の名を呼ぶ。どうやら夢を見ていたようだ。看護師の声が聞こえてくる。
「手術は無事に終わりましたよ」
手術? ああ、そうか、私は中絶手術を受けていたのだった。ここは家ではなく病院の手術室だ。そういえば、中絶に関係する夢を見ていた気がする。どんな夢だっただろうか……。
麻酔の効き目が切れ、意識がはっきりするにつれて、夢の記憶はどんどん遠ざかっていった。最初はそれを頭の中で必死に追いかけていたが、途中からどうしてこれほど必死なのか自分でも分からなくなり、結局そこで記憶の追跡を止めた。どうせ、思い出す意味など無いだろう。




