プロローグ
小さな、音でした。
それは普段の喧騒のなかならば気がつかないほどの、そんな小さな音でした。
そしてそれは、普段の私なら気にせず通りすぎていたであろう…そんな音でした。
私は辺りを見回してその音の在りかを探しました。
――見つけました。
小さな公園の、街灯に照らされたベンチの上。
そこに置かれた花束。
誰が置き忘れたのか、はたまたわざと置いていったのか。
とにかくかなり時間がたっているらしく、ひとつ、またひとつとその花弁を落としているのです。
正確には音などなかったのかもしれません。
しかし私はなにかに引き付けられたかのように、その花束を見つめました。
小さな花の集まったお菓子のように可愛らしい花。
白、紫、ピンク…優しい色で微笑んでいるその花。
――イベリス、だったでしょうか。
イベリスは『彼女』の好きな花でした。
「あんまりポピュラーな花じゃないかな?でも好きなんだ。だってほら、可愛いでしょ?」
そう、そう言って彼女はイベリスを私に贈ってくれたのです。
誕生日でも、記念日でもない。
何でもない日が、彼女といると特別な日になりました。
彼女と私は恋人でした。
名前をAさん、といって私より十歳ほど年上の女性です。
彼女とは仕事で知り合いました。
私も彼女も舞台で役者として活動しており、共演をきっかけにこのような関係になったのです。
私たちは、愛しあっていました。
仕事の関係もあり会える時間は限られていましたが、会うと必ず抱き締め合い、お互いの想いを伝え合いました。
他の恋人たちと同じように…もしかしたらそれ以上にお互いを思いあっていたのです。
そう、他と何も変わりませんでした。
ただ一つ。
――女同士であることを除いては。
私も彼女も…少なくとも彼女は、普通の女性でした。つまり、同性愛者ではありませんでした。
実際に私と付き合う前に女性を愛したことはなかったそうです。それまでは常に男性に恋をし、付き合っていたこともあったそうです。
私は男性と付き合っていた経験がないどころか、男性を異性として好きになったことがあるのか正直なところわからないので普通だった…とは言い切れません。
それでも、女性を好きになるなんて……考えてもみませんでした。
―――彼女に会うまでは。
彼女もそれは同じです。
お互い、はじめは戸惑いました。
それでも、私は好きになったのです。
女性を、ではなく、彼女というただ一人の人を。
もっといえば、その魂を。
愛していました。
今でも、愛しています。
でも、だからこそ。
私は今日、彼女の元を去らねばなりません。
ああ、どうして。
――こんなことになったのでしょう。