35、揺れ動く感情
マスターに礼を言ってバルを後にする。時刻は夕方前。2人はホテルに戻ることにした。
ルーチェが部屋で休憩していると、電話を終えたトルメンタが声をかけた。
「大佐から連絡です。『ディナーの時間を遅らせてほしい』とのことです。緊急対応が入ったようです」
「緊急? 何があったの?」
「事務的なことよ。支度まで時間あるし、何か飲む?」
トルメンタはルームサービスの手配をした。
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数時間後、2人はホテルのリストランテに入る。
ディレクトールが微笑みながら席へ案内する。ピーク時を過ぎた後なので、客はコース終盤か食後の談話を楽しんでいる。
「遅くなって悪かった。料理はペースを上げて持ってきてくれ」とグリージョが言うと、ディレクトールは「かしこまりました」とお辞儀をした。
薄い夕焼け色が美しいオレンジシャンパンで乾杯し、サクサク運ばれる料理を2人はどんどん食べていく。ルーチェはトルメンタから教わった食事作法を意識して食べる。グリージョの所作は速くて丁寧だった。普段ならもっと紳士的に優雅に食事もできるのだろうとルーチェは思った。
メインディッシュの鹿肉の煮込みが来た頃には、ペースを落ち着かせ、会話を交えながら食べる。周囲の談話する声が心地良い空間に流れている。
「こんなに美味しい鹿肉を食べたのは初めてだわ」
とルーチェが言った。
「一昨日も鹿肉のローストだったけどな」
グリージョはフフッと笑いながら言った。
「もう忘れてください。私も自分の経験不足でこんな素晴らしい料理の味を覚えていないことを悔やんでいるんだから」
ルーチェは照れながら返した。
デザートを待つ頃には、客は2人の他、上品な老夫婦だけになった。ルーチェは改めてホール内を見渡す。自分の斜め前方にグランドピアノがあり、視線が止まる。
「どうした?」グリージョが尋ねる。
「そういえばピアノ演奏してたんだなぁって。慌てて料理を食べている間に終わってたのね」
グリージョも振り向いて同じ方を見る。
ウエイターに声をかけ、ヒソヒソ話す。ウエイターが去ると、ディレクトールがやって来て「どうぞ」とグリージョを手招く。
ルーチェが不思議そうに見てると、彼はディレクトールと一緒にグランドピアノの方へ行き、椅子に座った。
「あ……」
グリージョはピアノの鍵盤を叩き始めた。柔らかで可愛らしい旋律だ。ホールを優しく包む音色だけを聴くと、奏者が筋肉でタキシードがパツパツの無精髭男だとは、誰も思わないだろう。
一曲弾き終えると、パチパチパチと老夫婦やホールスタッフの拍手が軽やかに響いた。グリージョはディレクトールに礼を言って席に戻る。
「とても素敵だったわ! でもびっくりした」
「ピアノを聴きたいって言ってただろ?」
グリージョは返す。ルーチェは昨日の何気ない会話を思い出し笑う。
「ありがとう」
自分の為に弾いてくれたと思うと、胸の奥が熱くなった。
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リストランテを出て、エレベーターを待つ間、ルーチェはグリージョに話しかけた。
「今回の旅行で、グリージョへの印象が大分変わったわ」
「そうか?」
「ええ。もっと威圧的は印象だったけど、芸術を楽しむ和やかな一面があるんだなぁって」
「基地じゃあそんな余裕なんか無いからな。
これらは、前に話した叔母の受売りだ」
グリージョがそう言ったところで、エレベーターが到着し、2人は乗り込む。
「私の父の妹であった叔母は、武術に長ける人で、かつ絵画や音楽をとても楽しんでいた。彼女の本棚には、兵法書の他に画集や詩歌集も沢山あった。
私は物心がつく前から、彼女から剣術を学ぶ一方、ピアノや絵にも触れさせてもらった。『王と国に身を捧げて戦うからこそ、剣と酒と女以外で己の心を満たす方法も知っておきなさい。音楽や絵画や文学は、必ず己を高め、支えてくれる』と」
叔母の話になるとグリージョの目はとても穏やかになる、とルーチェは思った。
「服を着替えたら、部屋に来てくれないか? 話がある」
「えっ?」
ルーチェの胸はドクンと脈打つ。2人はルーチェとトルメンタの部屋の前で立ち止まる。
「わ、分かったわ」
ドアチャイムを鳴らし、トルメンタが開けてくれるのを待つ間に、グリージョは自室へ戻った。
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ルーチェは急いでカクテルドレスを脱ぎ、室内用の長袖ブラウスとスカートを着る。髪飾りやヘアピンを外して1つに束ね直す。その時、口紅だけ塗り直した。
トルメンタにグリージョの部屋に行くことを伝えて廊下に出た。深呼吸してから、ルーチェはドアチャイムを鳴らした。ドアが開き、中に入る。グリージョもタキシードからラフなベージュジャケットとネイビーのスラックスに着替えていた。
「ここに座れ」
グリージョが泊まる客室は、入ってすぐは談話室で、寝室は別室になっている。彼はルーチェを2人掛けの革製ブラウンソファに座らせた。目の前にガラスコーティングされた丸いコーヒーテーブルがある。グリージョはブランデー入りホットブラッドオレンジジュースをテーブルに置き、ルーチェの左手側90度の角度に配置された3人掛ソファに座る。深みのある香りが湯気と一緒に鼻をくすぐった。
「話というのは、お前の処遇のことだ」
ルーチェはコップから口を離す。ゴクンとジュースを飲み込んだ。
「現在お前をエテルネルへ帰還させる予定で動いている」
ルーチェの顔は耳まで赤くなる。
「本当に?」
「ああ。ザッフェラーノが軍上部に提言してくれた。
お前を無傷無罪でエテルネルに還すべきだと。それがヴィータの為だと。
昨日この件で私は、軍や王政府関係者と会談した。そして先程正式に返還の方向で進めると連絡が来たんだ」
「私、エテルネルに帰れるのね……」
ルーチェはカップをテーブルに置き、ハァーと息を吐く。
「魔法の森における仕事が評価された。お前の努力と実力があってのことだ」
グリージョがそう言うと、ルーチェは首を振った。
「いいえ、グリージョ達のおかげだわ。ありがとう……」
ルーチェは両手で顔を覆う。閉じた瞼の隙間からポロポロ涙が溢れ出す。
グリージョはルーチェのすすり泣く声を聴きながら、ジュースを一口飲んだ。それから立ち上がり、室内の棚の引き出しから白いハンカチーフを取り出し、ルーチェに手渡した。
「ありがとう」
ルーチェは受け取り、鼻をすする。突然ハンカチ越しに咳込んだ。
「大丈夫か?!」
グリージョはしゃがみ、ルーチェの肩を持った。
「ええ、大丈夫よ。ちょっと咳が出ただけ……」
顔を上げたルーチェは、グリージョとの距離が非常に近いことに気付く。身体の中が熱く、酔いで頭が少しぼんやりしている。
「ルーチェ……」
彼はルーチェの隣に座った。互いの膝が当たっている。
ルーチェはグリージョを見つめる。エテルネルに帰れる喜びと安堵が全身を包んでくれたが、やがてそれはもう二度とグリージョに会えなくなることだと、溶ける頭の中でクッキリと認識した。
黒みがかった濃いブラウンの瞳。少し幅広の鼻。四角い顎を無造作に覆う短い髭。自分の両肩を抱く分厚く力強い手。彼の静かな呼吸からは甘酸っぱいオレンジの香りがする。
「グリージョ……」
もう会えなくなるならせめて、とルーチェは目を閉じた。




