33、シルバーローズティー
ホテル滞在3日目。
ルーチェは早起きして室内で体操をした。トルメンタは隣のベッドでまだ寝ている。仕事とはいえ、日頃細やかに自分やグリージョの面倒を先回りして見てくれている人だ。たまにはゆっくり寝てもらおうと思った。
しばらくしてトルメンタは起きる。2人で身支度して朝食のためにホテル内の食堂に向かう。
「おはよう。今日が旅行最終日だ。明日午前中にホテルを出て基地に戻るからな」
そう言いながらグリージョはクロワッサンを齧る。
「ルーチェ、今日は私と行動を共にしてもらう」
不満そうな顔を見せることなく、ルーチェはコクンと頷いた。
ルーチェは初日と同じ若草色に小花模様のドレス姿でホテルラウンジに現れた。靴やバッグや口紅は昨日買ったものだ。先に待っていたグリージョは彼女を見て微笑む。
「行こうか」
2人は一緒にホテルを出る。コンシェルジュとドアマンが丁寧に「行ってらっしゃいませ」と言った。
「初日に比べたら、その格好にも随分慣れたようだな」
「トルメンタに色々協力してもらいましたから。リストランテだって大丈夫ですよ!」
ルーチェを意気込む。一昨日の失態を気にしているらしい。
「じゃあ今夜はホテルで食事にしよう」
グリージョは言った。
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2人が向かったのは美術館だった。
大理石を施した内装に、緻密な彫刻が並ぶ。奥に進むと絵画が展示されていた。
「全てヴィータ王国出身者の作品だが、君が知っているものはあるか?」とグリージョは尋ねる。
「芸術はさっぱり分からないんだけど……。
ああ、これ昔教科書で見たことあるかも。でも、違う?」
ルーチェはとある風景画の前で立ち止まる。川と岸壁が力強い筆致で描かれていた。
「これは300年程前の作品だ。ルーチェが見たのは向きが反対だったんじゃないか?」
「そうかも。水流の方向が逆だったかも」
ルーチェは記憶を思い起こしながら言った。
「この画家は運命の裂け目の崖を降りて、川を渡ったらしい。だから両側から川を描いている。でもヴィータにあるのは片側だけなんだ」
「もう1枚はエテルネルにあるってこと?」
「そうかもしれないな。
画家は敵国に無断で侵入したとしてヴィータ軍に捕まり、スパイ疑惑がかけられて投獄。そのまま亡くなった」
グリージョの説明を聞いて、ルーチェは少し眉をひそめる。今の自分には、ただのうんちくとして聞きづらい。
それをすぐ察したらしく、グリージョは咳払いする。
「しかし芸術には国境も政治も関係ない。エテルネルでこの絵の片割れの存在が認識されているなら、画家も報われるだろう」
2人は展示を一通り見終え、外に出る。グリージョが邪魔にならない程度に解説してくれたこともあり、ルーチェはちょっとした講義を聞き終えた気分だった。
「つい喋り過ぎた。鬱陶しかっただろ?」とグリージョ。
「昔授業で聞いた内容を復習してるみたいで面白かったです。画材の原料についてはむしろ興味深かったわ」
「確かに、青色絵の具の原料が魔草だと話した時の食いつきっぷりを見た時は、流石魔法の森保護管理員だなと思ったよ」
2人は微笑みながら美術館を後にした。
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次にグリージョは裏道にひっそりと佇む小さなバルに案内した。表通りの明るい雰囲気から変わり、少し暗い場所なので、ルーチェは緊張した。
小さな店内の2階へ階段を昇る。2階ワンフロアが個室になっており、草花をモチーフにした壁紙とベージュの毛足の長い絨毯が敷かれていた。中央に白い大理石の丸テーブルと、ビロードのクッションが貼られた木製椅子が置かれている。白枠の大きな出窓からは外の景色が見えた。
素敵な空間であるが、今まで滞在してきたホテルやトラットリアとはかなり印象が変わる。
「ちょっと他と浮いた雰囲気の部屋だろ?」
席に着いたグリージョが言った。
「君に飲ませたいものがある」
ルーチェが首を傾げていると、フッとドアの方からよく知る香りが漂ってきた。ルーチェは咄嗟にドアを見る。
店員がティーセットをお盆に載せて運んできた。
黒いギャルソンエプロンの上は胸元のボタンを外したシャツ姿の男性だ。かつてはグリージョのように筋肉で上半身を包んでいたのだろうと思わせる肉厚な身体付き。黒い髭で顔の下半分たっぷり覆っている。
レースクロスの上に、花模様が施された持ち手の細いカップとポットが置かれる。小皿には小さな四角いクッキーが2枚あった。
「失礼いたします」
店員はその太くて毛深い指からは想像出来ない品の良い動きでカップにお茶を注ぐ。
「どうぞ」
コトンとルーチェの前に置かれたカップ。
灰色がかった湯の中に、真珠色の花びらが数枚浮かぶ。
シルバーローズティーだった。
「うん、上手いな」
グリージョは一口飲んで言った。
「グリージョさんに言われて、一番良いものを用意しましたからね」
店員はグリージョをジッと見る。眼差しに熱がこもっている。その視線に気付き、グリージョは見上げる。
「なんだ?」
「いえ、分かってましたけど、やはり目の当たりにすると、長年のファンとしてはショックでして……。
よりによってこんな美しい女性がパートナーだなんて」
「ハハハ。期待に応えられず申し訳ないね。
でもマスターの淹れるお茶が一番美味しいよ。
ルーチェ、君もそう思うだろ……」
グリージョは話すのを止めた。
ルーチェはカップを持ったまま、黙って涙を流していた。
「ルーチェ……?」
グリージョが恐る恐る声をかける。
「……何かあればお申し付けください。ごゆっくり」
マスターは空気を察して、そっと部屋を出た。




