第61話 夏后履癸へ料理を献上しました(1)
早朝、学園の門前が集合場所でした。すでに子履や他の子たちが集まって、待っていました。あたしは及隶、妺喜を連れて、走っていきます。妺喜の化粧で予想外の時間を食ってしまったのです。
「申し訳ございません、妺喜様が参加したいとおっしゃいまして、その準備のために遅れました」
「‥‥えっ」
あたしの報告に、子履は一気に暗い顔をしました。まるで何かおぞましいものを見ているようです。
「‥‥どうしましたか、履様」
「‥喜珠を止めなかったのですか?」
「いえ、どうしてもとおっしゃるので」
「そうですか‥‥」
そう言って、子履はうつむきます。そして、ちらちらと妺喜を見ます。本気で来てほしくなさそうです。でもそれを言葉にすると、子履の背後にいる10人はいそうな目くらまし‥‥もとい、あのデブ‥じゃなくて夏后履癸に求婚されるかもしれない女の子たちが怒ってしまうからなのでしょうか。遠慮しているように見えました。
子履も妺喜のことが友人として好きなのですね。友人愛に感服してしまいますが、時間が押しています。
「そろそろ鶏鳴の刻になります。急ぎましょう」
「‥‥‥‥‥‥‥‥妺喜。今回の謁見には人数制限がございます。申し訳ありませんが、お引取りください」
子履がけっこうな笑顔で、それでも鋭い目で、妺喜を睨みつけます。しかし妺喜はきょとんとした顔で普通に答えます。
「‥‥? 話を聞いている限り、女が多いほど喜ばれる謁見だと思ったぞ。むしろ、向こうに早く帰りたそうに手をいじっている人がいるが、それはいいのか?」
「聞き違いではございませんか?その‥」
そう言って、子履は目を伏せます。あたしが何か言いかけたところで、妺喜が口を開きます。
「‥子履、心配しなくてもわらわは問題ないのじゃ。夏王さまの人格が気になっただけなのじゃ。ちょっと様子を見るだけで、求愛されても断るつもりでいるぞ」
声は絞っていましたが、子履には届いたようです。
「‥‥そうでございますね‥万が一の時は、どうか、闇の魔法を使ってくださいまし」
「‥‥? わらわはくだらぬことで闇の魔法を気軽に使いたくないのじゃ。この魔力のせいで何年もつらい目にあってきた。だからこの力は、わらわの大切な人のために捧げたいのじゃ」
「そう‥‥ですか」
妺喜の返事を聞いて、子履はまた表情を暗くします。本気で何かがありそうです。あたしは子履と2人きりで話して確認したい気持ちでしたが、時間が押しています。
子履に話しかけようと思ってふとその顔を見た時、あたしは無意識に、自分が子履の唇を見ているのに気づきました。唇の内側は唾液で濡れていて、夏至の近づいた朝日をきれいに反射して輝いています。途端にあたしは、推移と大犠のキスのことを思い出します。にわかに心臓の鼓動が速くなっているのに気付いて、あたしは無理やり首をぶんぶん振ります。
「‥行きましょう、履様」
「‥‥‥‥‥‥‥‥はい」
子履はしぶしぶうなずいて、歩きはじめます。子履は、キスのことを思い出してしまったようなあたしと違って、重々しい雰囲気をまとっているように見えました。
◆ ◆ ◆
夏の宮殿を囲む大きな塀では、多数の兵士が厳重に警備していました。さすがこの国の王様です。あたしたちは兵士に通され、門を通ります。
敷地内にはいくつかの大きく立派な建物があって、西洋風の外観とアンマッチな漢服を着た男性や女性たちが会話しているのも見えます。説明がされていなければ、前世のテーマパークだと言われても納得してしまうかもしれません。それだけに、あまりにも立派なのです。
子履にとってもおそらく初めての夏の宮殿ですし興奮しているでしょうと思っていましたが、当の子履は「二里頭遺跡(※現代中国の河南省洛陽市にある。斟鄩の遺跡といわれる)の宮殿再現図では、明らかにここよりも狭い敷地内に主殿が1つぽつんとあっただけだったんですけどね‥」と少し残念そうにぼやいていました。
あれが主殿でしょうか。主殿とは、王や家来が集まって政務などを行う、メインの建物です。その前には、広大な広場があります。おそらくここに兵士たちを集めて何か行事をするんでしょう。
その広場の入り口へ入ったところで、あたしたちを引率していた5人の兵士のうち1人が「待ってください」と言って、主殿の方へ走って消えます。しばらくした後、2人の使者を連れて戻ってきました。
子履が丁寧に挨拶します。
「姓を子、名を履と申します。料理人の伊摯とともに、謁見に参りました」
「料理人は私と、それ以外は控室に通しますのでそちらの方と一緒に行ってください」
「はい」
あたしと及隶は子履たちと離れて、使者と一緒に主殿の裏側へ回ります。主殿は中国風では全然なくて、中世ヨーロッパ時代のお城でもなく、他より飾りが多く立派に目立っているだけの、普通の建物でした。普通といっても、中世ヨーロッパで身分の高い貴族が住みそうなくらい、2階も3階もある大きいものです。商丘にある子主癸や子履の屋敷よりもはるかに大きく、それは400年以上この中華を支配してきた夏の威厳を思わせるものでした。
あたしたちは使者に通されて、厨房に入ります。料理人たちが並んでいましたので、あたしは丁寧に礼をします。自己紹介しようと思ったところで横の及隶を見ると、ぽつんと立ち尽くしていたので、あたしは及隶の腕を掴んで額まで持ち上げ、頭や背中を押して傾かせて礼をさせます。自分ももう一度礼をして、挨拶します。
「あたしは姓を伊、名を摯と申します。連れのものが失礼いたしました。本日、饂飩を作るためにご厄介になります。よろしくお願い申し上げます」
「あ、そう」
料理人たちはやる気なさそうに吐き捨てます。まだ10歳にもならないあたしたちが料理を夏王さまに献上するのが気に入らないのかもしれませんね。おそらくまともに手伝ってくれないでしょう。あたしはため息をつきました。
◆ ◆ ◆
一方その頃、子履たちは控室に通されます。香の炊いてある控室は、独特の香りのもと、西洋風のきらびやかなテーブルとソファーが置かれています。
子履たちがソファーに座ってからまもなく、ドアがノックとともに開いて、夏王さまの家来と思しき男が入ってきます。
「私は姓を法、名を芘と申す。伊摯はどちらに?」
「摯なら、厨房かと思われます」
「了解した」
子履は閉まるドアを見て一礼してから、またソファーに座り直します。ふと、部屋の隅で立っている妺喜が目についたので、呼び出します。
「喜珠」
「‥どうしたのじゃ?」
妺喜は人に慣れていないように、ソファーやその周辺を避けているように見えました。子履は仕方なくソファーを立って、そちらへ歩いて近づきます。
「‥喜珠、帰るなら今が最後ですよ」
「心配はいらぬのじゃ、わらわは嫌われることに慣れておるのじゃ」
「‥そうだといいのですが‥‥」
子履は妺喜と目を合わせないように、目玉を横いっぱいに動かします。
妺喜から離れると、子履も控室の隅へ行って、ポケットからノートを取り出します。そうして、それをばらばらめくって、ため息をつきます。
『妺喜は有施氏の娘であったが、桀王がこれを討伐した際に妃として持って帰った。最初から妺喜を要求し献上させた説もある』
何度確認しても、そのノートに記載されている、自分が記したことは変わりませんでした。




