第31話 伊摯の恋煩い
夏の首都であり学園もある斟鄩に到着した後も、子履はあたしと距離を取っているようでした。いえ、普通に友達として過ごす分には適切な距離感なのですが、そこから一線を超えるようなことはされていないです。
貴族と距離を置きたいあたしにとっては本来嬉しいニュースのはずだったのですが、今のあたしに残ったのは寂しさと焦燥でした。
「履様に嫌われたのかな‥‥」
あたしは昼だと言うのにベッドで横になって、ふてくされています。寮にあるベッドは貴族仕様で、飾り付けは質素なものの、それでも平民のものよりすごく豪華です。そばでは及隶がこのベッドをとても気に入ったらしく、横になって脚をばたつかせながら、紐を輪のように結んであやとりみたいなことをしています。
寮の部屋はうっすら黄色っぽい壁に囲まれて、相部屋でベッドや机が2つあります。あたしが平民だから相部屋ではなく、もともとそういうルールなのです。共同生活を通して親交を育みましょうというルールらしいですが、一応仲の悪い国同士は同じ部屋に入れないなど配慮はしているようです。そしてあたしの相部屋の人は、まだ斟鄩に来ていません。あとちょっとで建卯の月(3月)になり学園が始まるので、そろそろ来る頃だとは思います。
部屋自体はとても広く、下手すればここに10人集まって歌って踊っての大騒ぎをしてもなおスペースが余りそうな勢いです。前世の感覚からすると、2人部屋ではもったいなさすぎます。寮の3階から斟鄩の市街部を望む大きな窓が、部屋を明るくしています。
「確かにお嬢様はこれまでべたべたくっつきすぎてたっすね」
「うん、やめてほしいくらいくっついていたね」
「寂しいと感じるのはその反動じゃないっすか?」
「確かに‥一時的なものかもしれないね」
そんな話をして、あたしはころんと転がって仰向けになります。
「でも一応、態度が変わった理由は気になるな。任仲虺に何度か聞いたけどはぐらかされるし、もし履様の気が変わって婚約解消したいとなったら歓迎だけど、他に目的があるような気もする‥」
「センパイ、ここ数日お嬢様の話ばかりしてるっすね。そろそろ好きって認めたほうがいいっすよ」
「だからその質問は保留してるじゃない、でも貴族になりたくないのは本当よ」
あたしは少し苛立ちながら言って、ベッドから上半身を起こします。するとドアのノックがあって、使用人が何人か入ってきました。
「失礼いたします。部屋の掃除に参りました」
「あっ、お、お疲れさまです!ほら隶、行くよ!」
あたしは及隶の頭を押さえつけながら何度もぺこぺこ頭を下げて、一緒に部屋を出ます。
本来ならこの部屋には貴族が入っているべきなのですが、あたしは平民です。平民なのに平民に貴族と同格の世話をしてもらうというのが、どうにも後ろめたいのです。一度だけあたしも掃除を手伝いましょうかと言いましたが、お気を遣わなくても結構ですと断られています。一応、使用人がやってくるタイミングを見計らって自主的に掃除はしているので、あちらも楽になっているとは思いたいです。
ところであたしは今、子履の部屋の前にいます。
「どうしたっすか、お嬢様に何か用っすか?」
「いや、用があるわけでもないけど‥」
あたしは音を立てないように壁にもたれて、耳を澄ましてみます。中から子履の話し声が聞こえてきます。それだけであたしはちょっと安心してしまうのでした。あたしは変態なのでしょうか‥‥。
子履と同室の女の子が話しているようでした。話し声を聞くに、どうにも芮という国から来た子らしいです。よかった、相手は女の子ですね‥いえ、女の子でも油断はできないんですよね‥‥。
「何をなさっているのですか?」
その声に、あたしはびくっと目を見開いて、身を小さく丸めます。
「あっ、ち、仲虺様‥」
「盗み聞きですか?感心いたしません。他国の人でしたら殺してるところですよ」
「‥‥っ、申し訳ございません‥」
あたしはばつが悪そうに頭を下げます。任仲虺はそれから表情をゆるめて、あたしの肩を優しく叩きます。
「‥わたくしの部屋に参りませんか?お聞きしたいことがあります」
「はい」
◆ ◆ ◆
任仲虺の部屋は、寮の2階にありました。任仲虺と同室の子は六という国の女の子で、お互い軽く自己紹介はしましたが、六の人はちょうどお出かけに行くところだったようですぐ部屋から出ていってしまいました。ていうか数字を国の名前にしないでほしいです、普通に紛らわしいです。最初聞いた時、同室の子が6人いるの?と思いましたもの。
通されたテーブルであたしの隣に座っている及隶は、当たり前のように薛の国のお菓子を頬張っていました。少しは遠慮しなよ、てかそれあたしの分じゃん。
「それで、お話とは何でしょうか?」
「摯さんは、履さんのことをどのように思っているのですか?」
向かいの席に座る任仲虺が、あたしにお菓子を勧めてきます。さっき及隶に奪われた分ですね。あたしはその饅頭を受け取ると、少しだけ食べて飲み込んでから返事します。
「‥‥急にべたべたくっついてこなくなったので寂しいです。でもこれは一時的なものですぐ慣れると思います」
「そうでしたか‥くすっ」
「あの、履様のことが好きになったわけではないです。確かに‥少し気になりかけてるんですが、とてもそこまでは。それに、あたしが貴族になりたくないという気持ちは本当なので」
任仲虺のかすかな笑いが、まるであたしの心を見透かしてきていたかのような気がして、言い訳を並べるあたしはすっかり焦っていました。慌てて手を振りながら説明しましたが、任仲虺はまだ笑っています。
「‥そうなんですね。ではひとつ、いい話をしましょうか」
「いい話‥とは?」
「2つあります。まず、履さんが摯さんを避けた理由です。履さんは、摯さんに常軌を逸して近づきすぎて、かえって嫌われたのではないかとひどく心配していました。そこで、普通の友達程度に距離を置くことにしたのです」
「そんな、あたしは別にそこまでは‥」
あたしは思わず言いかけましたが、任仲虺の口元がわずかに上がったような気がしたのでそれ以上言うのはやめました。
「‥2つ目です。履さんもここの学生ですが、一方で商の国の跡取りです。様々な国の人と交流しなければいけません。その過程で気になる人も当然出てくるでしょう」
「‥‥!!」
「もし摯さんが履さんに距離を置かれて寂しく思っている今の気持ちが本心ならば‥‥、今のうちに距離を詰めておかないと取り返しのつかないことになるかもしれませんね。今の気持ちが一時的なものかどうか、早く結論を出す必要があると思いますよ」
あたしはこの時ほど謎の焦燥を覚えたことはありませんでした。




