第3話 商丘へ行きました
※なお古代中国では家族以外の人物のことを本名ではなく字で呼ぶのが常識ですが、この時代の史実の人物は伊摯、妺喜を除き字が伝わっていない人ばかりなので、本作では本名を直接呼ぶことにしました。中国史ガチ勢には申し訳ないです。(ガチ勢だったらそもそも女体化するようなこんな小説を読まないと思うのですが)(妺喜に至っては字はあるが本名が伝わっていない始末です。末喜の本名は物語の都合上、創作する予定です)
商の地は、あたしが仕えていた有莘氏の治める莘からわりと近いです。
子履の母・子主癸が治める土地一帯は商丘、その中心都市は商と呼ばれています。都市の名前を取って、商国ともいいます。
この世界では都市のことを国と呼んでいるようです。夏も国のひとつですが、国同士に上下関係があるようです。つまり莘も商も夏も表面上は同じ国ですが、莘と商は夏に従属して家来となっているのです。前世の「国」と全然意味が違っていてややこしいので、あたしは普通に「街」とか「都市」と呼んでいます。
要するに前世の「国」と同じ意味でざっくり考えると、莘と商は夏という国の領土ということになります。夏は莘と商に高度な地方分権を認めている感じです。
あたしはあくまで料理人として行くので、他の召使いと同様に付き人の1人として地面を歩いて移動します。ちなみに子履や子主癸ら貴族は馬車に乗って移動しています。前世と違って足腰は鍛えられていますから長距離の移動もわりと何とかなりますが、馬車に乗っている人を見ながら歩くのは少々きついですね。
「楽しみっすか?センパイ」
あたしの隣を歩いている及隶が、いたずらっぽく尋ねてきました。あたしが子履と結婚することになったのを知っている付き人は、もちろん及隶1人だけです。
「楽しみというか、ちょっと困ってるかな。帰ろうかな‥」
あたしは及隶とは反対の方を向いて、それらしい弱い声で返しました。
「センパイ失礼ですよー!お嫁様に告げ口しますよ?」
「やめてよっ」
あたしはひじで及隶を小突きます。及隶は笑顔でぺろりと舌を出しました。もう。
◆ ◆ ◆
食事の時間になりました。周りの付き人たちが地面を掘って、土で小さいテーブルのようなものを作ります。
あたしは地面に手をかざして、魔法をかけます。土がぼこぼこっと盛り上がって、そして平らなテーブルに整形されます。そこに食べ物を載せて及隶と一緒に食事をしていると、幼い黒髪の少女がこちらへ歩いてきました。子履です。隣にはあたしの元の御主人様の息子で表向きは子履の婚約相手ということになっている姒臾という男が並び立っています。相変わらずりりしくて美形です。子履がなぜこのひとを拒んだのかと思うほど、とてもいい見た目です。あたしも許されるならこのようなイケメンと結婚したいと思ってしまうほどです。
あたしは座ったまま、深々と頭を下げます。顔が隠れるほど頭を下げるのが、この世界の常識です。
「顔を見せてください」
子履の声がしたので、私は顔をあげます。子履はあの茂みの中にいた時ほど近くにはいませんでしたが、それでも美しく艶やかな髪の毛と、人形のようにかわいらしい顔立ちにみとれてしまいそうでした。
姒臾があたしを軽く指差して、子履と会話を始めます。
「この者が、お前が呼んだ料理人か?」
「はい。商丘のほうでこの者の料理はうまいという話を小耳に挟み、臾様にお会いにまいったついでに登用いたしました」
「まあ、俺の母も実際そう言ってたからな」
もっともらしい嘘ですね、とあたしは小さくため息をつきました。姒臾はすっかり納得してしまった様子です。
「私、この料理人と個人的にお話したいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「まあ、女同士だからな、好きにやれよ。俺は先に戻ってるから」
「はい」
姒臾が行ってしまうと、残った子履はあたしの隣まで来て、地面にひざをつきました。
「楽にしてください」
「で、でも、お嬢様‥」
身分の差、そして周りの付き人という人の目があります。あたしが目つきでそれを訴えると、子履は少々困ったように眉を動かします。
「分かりました、そのままでいいです。ところで伊摯は魔法が使えるのですね」
「あ、見られてましたか‥‥」
魔法が使える平民は、実は珍しいのです。なのであたしも、あまり表には出していませんでした。さっきテーブルを作るときも、あたしと及隶の体でそれを隠しながらでした。
「いいえ、見ていませんが‥人の手ではここまできれいに均せませんよ」
子履はあたしの作った小さいテーブルの表面をなでて、にっこり笑いました。
「属性は土ですね。私は金の魔法が使えます。相生はご存知でしょうか?」
「はい、知っています」
魔法には5つの属性があり、これは五行と呼ばれています。相生とは、その5つの属性同士を結びつける考え方の1つです。
「相生によると、土は金を生むといいます。この土の魔法が、金の魔法の助けになるのです。お互いはお互いのために欠かせない存在なのです。‥‥伊摯と私もそのような関係になったらいいですね」
なぜでしょう。その言葉があたしにはかすかな気味悪さ、そして少々のときめきを感じさせるものでした。この気持ちを表現するのにどちらが正しいのかは分かりません。次の言葉が出せず黙っていましたが、子履がまたにっこり笑いかけてきたのであたしは思わずうなずきました。
「疲れていますか?馬車に乗りますか?」
「それはさすがにお断りさせていただきます、お嬢様」
あたしが思わず距離を取ると、子履はまた少し何かを考えている様子でした。
「‥魔法はどこで習いましたか?」
「独学です」
「でしたら、私と一緒に勉強しませんか?」
「えっ」
「斟鄩に魔法の学校があります。そこへ一緒に通いませんか?」
斟鄩は夏の首都のことです。そこへ一緒に行って勉強しようというのです。ただし、その学校にはおそらく貴族しか入れないでしょう。あたしは平民です。
「えっ、そう言われましても‥」
あたしが返答にまごついていると、出発の鐘が鳴りました。子履は残念そうに立ち上がりました。
「それでは考えておいてください」
「あ、待っ‥」
あたしが戸惑っているうちに、子履は気がついたらいなくなっていました。
◆ ◆ ◆
どうしましょう。あたしは貴族の子履と畏れ多くも結婚することになっただけでなく、貴族にしか入れない学校に入ることになってしまいそうです。貴族には憧れもありますが、自分がなるというと話は別です。権力争いというネガティブなイメージがあるので、なんとも受け入れがたいものです。豪華な食事や生活は憧れますが、その代わりに命を差し出すようなことは怖いので嫌いです。死ぬかもしれないくらいなら、平民のまま差し障りのない生活をしていきたいと思っています。
及隶には笑ってごまかしつつ、後でちゃんと相談しようかと思いつつ歩きました。貴族たちはちゃんと宿屋で泊まりますが、平民である付き人たちは野宿です。出発の日の夕方に商丘へ到着しました。
商丘は大きく活気のある街でした。人名や服装は中国風ですが、建物だけ見れば欧米のそれです。立派な建物、そして平民たちの生活水準も、有莘氏の治める土地より若干高いようで、小きれいな服に身を包んで楽しそうに歩いている人が多くいました。
あたしたちは、その都市の真ん中にある丘の上の屋敷に入りました。ここがあたしの新しい御主人様、子主癸の家であり、家臣たちが集まって議論する宮殿でもあるのです。
あたしは他の使用人と同じような部屋に通されました。姒臾にはまだ真実を話していないので、怪しまれないようにということでしょう。さてあたしは数人のグループのリーダーです。部屋割りもあたしが決めました。つまり及隶と相部屋です。
「でもすぐこの部屋を出ていくことになりそうっすね」
「隶は冗談も上手いのね」
あたしは苦笑いしながら、ぼろぼろで薄いシーツに覆われたベッドに腰掛けました。
「でもセンパイが魔法を普通に使っていたから疑問に思わなかったけど、やっぱり魔法を使う平民は希少な存在なんすね」
「まあね。あたしも隶以外に教えなくて正解だったわ」
その日は疲れていたので、そのまま寝ることにしました。
あたしはベッドで横になりながら考えました。商丘に来てしまったけれど、あたしは貴族の権力争いには巻き込まれたくないのです。実際に世界史の授業で、権力争いで命を落としてきた人を何人も見てきました。あたしはあくまで平民に身を置いて、何事もなく過ごしていきたいだけなのです。
このままいったら、あたしは成り行きで貴族になってしまいかねません。その前に何か打てる手はないか、この商丘の屋敷で模索してみましょう。そう決心しました。