入団1年目「星屑達にはそれに見合ったステージが」ボーナスTrack
読者様より御示唆賜りましたアイディアを付加させて戴き(2021.04.05)、良い御指摘を頂戴致しましたので便名を変更させて戴きました。(2021.11.05) 併せて感謝を。
一部改訂致しました。(2023.06.20)
昨年末に入団契約をしてから此の方、絵本光一郎は野球にばかり没頭していた訳ではなかった。
野球以外にも出来る事があるのではないかと、前世の記憶を思い出せる限り搔き集める。
その結果の一つが、財テクだった。
元手となる資金は、入団契約金の2500万円のみ。しかも契約と同時に振り込まれたのはその内の1500万円だけである。
これはレイカーズに限った事ではないが、入団契約金は契約と同時に全額が一括で支払われる事はほぼ無い。
契約時に振り込まれる金額は凡そ半分くらい。残額が支払われるのは概ね契約から三年が過ぎた頃。
別の言い方をすると、三年経っても見込みなしと評価されれば戦力外通告を申し渡され、契約金の残額が退職金のように与えられる。
付け加えるなら、他の球団に拾われない場合には引退後の生活費原資になるのだ。
バブルが弾けるまでは、どの球団もどんぶり勘定で予算を執行していたので、契約金も年俸も推定額よりは少し多めに支払われていた。
だがバブル崩壊後は済し崩しに減額となり、1000万円が500万円になる事もざらであったりする。
尚、新聞等で発表されている契約金も年俸も記者の推定でしかなく、実際には数十万から数千万の差額があったりするのだが。
因みに新聞各紙が発表した光一郎の年俸は、推定300万円。
それが十二分割で毎月銀行口座に振り込まれるので月給25万円となり、国民保険料など諸々が引かれた手取りは十数万円となる。実際は、280万円なのだが。
そんな金銭事情さる事ながら、光一郎は実利と夢想を実現する手段はないものかと四六時中考えに耽った。
世は、主婦層までが投資熱に煽られていたバブル前夜。
青少年は平日夕方のアイドル番組『夕暮れキャンキャン』に熱狂し、若き女性は眉を太く描いてコンサバスタイルで街を闊歩する。
ノーパン喫茶が姿を消し、エイズが日本に上陸しても街の賑わいは益々ヒートアップ。
深夜を過ぎるまで店から店へと飲み歩いた中高年達が郊外のマイホームへと帰宅する際には、タクシーチケットをヒラヒラとさせる。
この年を彩る大きな花火は甲子園のバックスクリーンに三連発で炸裂し、トップアイドルと二枚目俳優の結婚は世のお祭り騒ぎに拍車をかけた。
政治家から庶民まで誰も彼もが浮かれ騒いでいた中で、光一郎はひとり冷めた思いで社会を眺める。
世の中の誰もが気づいていないし知り様も無い事ではあるが、バブル崩壊という冷水が日本全体に浴びせかけられるまで後数年。
幸か不幸か光一郎は、辛く苦しい現実が近い将来の日本に襲いかかって来る事を知っていた。前世で体験済みなのだから当然なのだが。
その間に出来る事はどれだけあるのだろうか?
只でさえ日々の大半を野球に注ぎ込んでいるのである。
レイカーズの選手寮である“若鮎寮”へ入寮するまで後わずか。オフシーズンである冬の最中だとて、光一郎のスケジュールに遊ぶ時間など微塵も存在していなかった。
毎晩寝る前の日課は、思い出したアレコレをノートに書き留める事。そしてベッドに横たわるや、気絶同然の睡眠に落ちるまで思考の海に身を投じる事。
そんな生活を続けた中で漸く光一郎が得た結論は、他人任せ。
財テクで資産を増やそうとすれば真剣にやらねばならないが、野球と財テクを両立出来るほど器用な人間だとは思えなかったからだ。もしも両立出来るような人物であれば、前世はもう少しマシだったであろうと。
それ故の結論であった。
幸いにして、光一郎の父親は地方銀行ながら現役の金融マンである。振り込まれた契約金の内、三分の一を託して株取引の資金としてもらう事にする。
但し、託した500万円の半分は指定した銘柄を購入するよう頼み込む光一郎。
「半分は親父に任せるから、残りの半分でゲーム会社の満天堂と大阪電鉄の株を買うといて欲しい。年内に絶対値が上がるさかいに。
ホンで冬前には全部売却して、洛南セラミックの株を買えるだけ買うといて欲しい。
ナスダックでアダムス・コンピューターとミクロンソフトが買えたら万々歳なんやけど」
「ナスダックなんて、よう知っとったな、コーイチロー」
「俺かて勉強してんねん。ああ、そうや。俺からも一つアドバイスや。不動産関連と本業以外の事業に精出してる会社の株は手ェ出しなや。後でエライ目に遭うからな!」
振り込まれた契約金の残り1000万円を7:3に分けた光一郎は、前世で好きだった番組に希望を託す。
所謂、個人が所蔵している“お宝”を鑑定する番組に。
美大卒の母親に700万円を渡し、海外旅行に行くよう薦める光一郎。
御土産は何が良いかとの問いには、欧米諸国の巷に眠っている日本の絵画を求めた。母親が知っている画家であれば誰でも良いから本物だけをと。
「浮世絵も欲しいんやけど」
「浮世絵やったら京都でも買えるんとちゃうの?」
「ほな、京都に遊びに出たらエエのん買うといてや」
そして残る300万円は、アメリカでフリージャーナリストをしている従兄へと送金する。
高い料金を払いながらの海外通話、久々に話す従兄は記憶と同じく快活であった。
そんな従兄に対し、古いブリキ玩具と野球カードを買い漁るよう厚かましくも頼み込む。
どうしてそんな物をとの問いには、新しい趣味に目覚めたのだと強ち嘘ではない答えを返し、会話の中に未来を知る者だからこそ言える情報を混ぜ込んだ。
「ところで、従兄ちゃん。ビューインク社は大丈夫なん?」
「はぁ、ビューインクがどないしたんや?」
「元総理がこの前、病気で倒れはったやんか。そんで賄賂や何やかんやでトライスター社の名前がニュースを賑わしてたやん」
「こっちでも公聴会とかしてたなぁ。ピーナッツがどうとか」
「それで思ったんが他の飛行機メーカー、例えばビューインク社はどうなんかな、って」
「えらい漠然とした質問やなぁ」
「ほら、一昨年もそうやったけど、今年もパリで事故があったやんか。
実はな、今年になってから遅ればせながら財テク……株取引で資産を増やそうと思うてな。企業の情報を色々と集めてんねん。
ほしたらな、親父に紹介された証券マンの人が言うててんけど、どうも航空機メーカーがきなくさい感じがするんやて」
「きなくさい、って何がや?」
「……業績を上げる為に保守点検部門をケチってるんと違うか、やて」
「お前……それ……」
「あんだけデッカイもんやからネジの一本二本でどうにかなるとは思わんけど、亀裂が見逃されとったら流石にヤバイやん?」
「そりゃ、そうや」
「鉄板って結構衝撃には弱いんやて。ホンで目では見えへん亀裂が出来るんやて。確か、金属疲労って言うてたかな」
「ほっほー、金属疲労、な」
「軽い事故やからいうて簡単な検査だけしかせなんだら、金属疲労ってのは見逃され易いんやと」
「何や、えらい詳しいな」
「そりゃ、俺のトレーニングと一緒やもん」
「へェ、トレーニングってか?」
「そや。例えばな、筋肉とか骨は休ませたら回復するんやけどな、回復する前に酷使したら筋肉は断裂するし骨折し易くなるんや。
それが回復し辛い筋とか腱やったら、選手生命が一巻の終わりや。
そやから、俺はトレーニングしてる時、体に異常がないかメッチャきにしてるもん。
ランニングかてしくじったら、大怪我に繋がるさかいに」
「はぁ、なるほどなぁ、蓄積した疲労による損傷っちゅうことか」
「そやねん。だから俺、トレーニングする時は入念に時間かけて柔軟体操するし、トレーニング後もゆっくりと全身をほぐしてんねん。
それだけやなくて、どうすれば正しい体作りが出来るかと、専門学校の先生に色々と教えてもろうとるんやで」
「勉強嫌いやったお前が、なぁ」
「俺は体が資本やもん。大事にせな、損するやん。
それにな、金属の脆さについては実体験もあるし」
「実体験って何や?」
「高校野球の必需品、金属バットや。アレって一見頑丈そうに見えるけど、厚みがペラッペラでな、雑に扱い続けたら簡単に曲がるし、突然亀裂が入ったりするねん。
材質はアルミやさかいに、合金言うても耐久性はそないにエエもんやないで」
「アルミの合金の耐久性か、ほうほう、なるほどー、そらエエ話聞いたなぁ。
こっちに来てから何を専門に取材したろか、って悩んどったんやけどな。
西海岸の疑惑事件を後追いするんもアホらしいしな。
ゴシップ専門のライターは山ほどおるし、科学技術系のライターは狙い目かもしれんな。
ほな、その手始めに、飛行機からやってみるとするか」
「エエんとちゃうかな。既に宇宙時代も始まってるし、航空機はその土台やし。
腕を磨いたら将来も食いっぱぐれがないんとちゃうか?」
「そやな。ほな、早速に」
「あ、俺のお願いした野球カードとブリキの玩具も忘れんといてや。出来るだけ古いヤツ、そんで綺麗なヤツ。玩具は箱付きやないとアカンで!」
「オッケーオッケー、任せとけ!」
安請け合いをする従兄との通話を終えた光一郎は、実家の黒電話に向かって合掌礼拝する。提供した情報が虚実を綯い交ぜであるのに若干の罪悪感を覚えるも、大事な布石であると己に言い訳しつつ。
そんな大晦日直前の国際通話が決して無駄ではなかったと光一郎が心底から実感出来るのは、翌年の真夏になってからの事である。
尤も、その前兆は少し前に発生するのだが。
それは光一郎が梅雨空を避け、室内練習場で汗を流していた頃の事。
世界中を巻き込む大騒動の火種が、アメリカで燃え始めた。
火種とは、こじれにこじれた労使交渉である。
ビューインク社と同社の機械工関連部門が属する国際機械工・航空宇宙産業労働者組合との間で行われていた労働協約交渉が、暗礁に乗り上げたのだ。
業績が好調であるにも関わらず労働条件がいっかな向上しない事に、労組が反発の声を上げたのである。
日毎にボルテージの上がる労組はストライキも辞さぬと声を荒げるのに対し、経営陣も頑として態度を軟化させようとしない。
そんな争議の中に、経営陣が主力商品である大型旅客機の保守点検をおざなりにしているという声が小さく混じっていた。
そこに脇から介入する者達が現れた。とあるフリージャーナリストのグループである。
リーダーの名はアート・ムーア。後に社会風刺に特化したドキュメンタリー監督に転身し、物議を醸す幾多の作品を世に送り出す人物であるが、この時点では未だ無名のジャーナリストであった。
ムーア率いるグループは、労働条件改善を求める数多の声に埋もれかけた内部告発の声を拾い上げるや、写真入りの詳細な記事に仕立て、全米の主要メディアへと一斉に売り込みをかけたのである。
“貴方が乗ろうとしている飛行機は、目的地には届かない。必ず墜落するからだ”という見出し付きで。
メディアの多くは、跳ねっ返りの目立ちたがり屋がと、冷笑で以って対応したが、その態度は直ぐに一変する。
記事の中で取り上げられていた一機、ミシシッピ航空が所有するビューインク社のジェット旅客機一機がテキサス上空で六月十一日に消息を絶ち、翌日未明にグアダルーペ山脈国立公園内に墜落しているのが発見されたからだ。
乗員乗客163名の内、生存者は10名。
全米のメディアはその詳細をトップニュースとして連日報じる傍ら、ビューインク社を始め全ての航空機メーカーの保守点検体制に疑義を投げかけたのである。
その余波は、当然の事ながら日本にも及ぶ。日本の空を飛ぶ旅客機のほとんどが米国産であり、ビューインク社製も多く含まれていたからだ。
ムーア達が書いた記事において繰り返し言及されていたのは、“金属疲労”なる単語であった。金属には寿命があり、適切な時期に交換されなければ容易に破断する、と。
かくして日本国内で行われた総点検においても数機の旅客機から、金属疲労が疑われる個所が確認される。
それらの機体は全て、十年以内に着陸時の尻餅など何がしかの事故を起こしたものであった。
「コーイチロー、お前の御蔭でビッグビジネスに食らいつけたぜ」
真夏の祭典であるオールスターゲームがエキサイト・リーグの2勝1敗で終了した翌日、選手寮に備え付けの電話がリンリンと鳴る。
寮長から手渡された受話器を受け取った光一郎に従兄は開口一番、決して明るくはないトーンでそう告げた。
手放しで喜べる話やないけどな、と続ける従兄の沈んだ声に光一郎の心もつられて塞ぐ。
国内で発生した重大事故は生まれ変わった今世でも忘れようはなかったが、流石に海外の事までは覚えていなかったからだ。
何とも形容し難い罪悪感に苛まれた光一郎は、言葉を失くし相槌を打つのに終始する。
一頻り従兄からの報告を聞き終えるや、光一郎はまるで河原の石を積み上げるような気持で一言一言を慎重に吐き出す。
「もう、事故は、起こらへん、よな?」
「ホンマ、そう願うわ」
そして、いざその時の八月の中旬。
偶々、全体休養日であったその日。光一郎は珍しくも野球以外の用件で昼前に外出する。
武蔵野電鉄で池袋へ行き山手線に乗り換える。磁気式プリペイドのウグイスカードを使って浜松町駅で降り、モノレールへ。行き先は、羽田空港であった。
ポータブルオーディオプレイヤーのクォークマンから伸びたイヤホンで聞き続けているのは、カセットテープが再生する音楽ではなく、ニュース中心のラジオ番組だ。
些か古めかしく見えるターミナルビルへ背中を丸めながら入った光一郎は、途中の自販機で購入した冷たい缶コーヒーを片手に、ロビーのベンチに腰を下ろした。
時節は学生の夏休みと社会人の御盆休みがかち合った頃。
旅先へと思いを馳せ、はち切れんばかりの笑顔で旅の栞を眺めるカップル達。
孫を連れて来いと矢のような催促に抗えず、実家へ帰省する切符を手にした両親の周りでは、親の苦労も知らずに子供達が無邪気にはしゃいでいる。
暑さを逃れようとネクタイを緩める出張仕事のサラリーマン達は、昼にも関わらず缶ビールで喉を潤していた。
彼方此方で発せられる嬌声と歓声と怒声と無数の話し声。
そのミックスがアナウンスを掻き消さんばかりの騒音となっているものの、それは常日頃からの場内BGMでもあるので誰も気になどしてはいなかった。
人混みが右往左往する中でも其処彼処に設置されていた灰皿。
多くの喫煙者達が口を開く度に濃厚な紫煙が吐き出される。
少しいがらっぽい香りに満たされた空気は、今が禁煙ブームなど微塵もない昭和である事の証左だった。
イヤホンで耳を塞いだままの光一郎は、80年代が終わるまでは何処ででもあったそんなありふれた風景の中でただ独り、宙を見る。
縋るような光を宿す瞳に映るのはフライト案内の表示板。
空港を離発着する便名を、呼吸すら忘れた表情で身動ぎ一つせず注視し続ける。
光一郎の口から、大きく息が吐き出されたのは18時の時報が場内に響いてからであった。
握り締めるだけで一口も飲んでいなかった缶コーヒーの存在に今更ながらに気づき、おぼつかぬ手でプルタブを開けた光一郎は、一息で飲み干す。
漸く閉じられた眦から一筋の涙が頬に細い筋跡を残し、音もなく床へと落ちた。
「良かった……大和航空は、無事やった……」
喉の奥から絞り出されたか細い声は、誰にも聞かれる事無く喧騒の中へと消える。
脱力した光一郎は更に一時間近くベンチに座り続けた後、ひっそりと空港を後にした。
“ここで速報です。一連のグルコ・エンゼル事件の犯人グループからと思われる終息宣言が新聞各社を含む、関係各所へと送られました事が先ほど判明致しました”
イヤホン越しに聞くアナウンサーの平静な口調に、光一郎の頬が漸く緩んだ。
ホームのゴミ箱に空き缶を捨ててからモノレールへと乗り込み、山手線から私鉄へと乗り換えた時分には、陽もとっぷりと暮れている。
夜の帳に包まれた街並みが昨日までと何ら変わらぬ事に、感謝の念と安堵感で光一郎の胸中は満たされていた。
やがて、門限ギリギリで選手寮へ辿り着いた光一郎。
竹刀片手に入り口で仁王立ちしていた寮長は、喝をいれようと口を開くも直ぐに閉じる。
帰宅が遅れた事を詫びる光一郎が、満面の笑顔で泣いていたからだ。
長年に亘り若い選手の面倒を見て来た寮長をしても、何とも複雑な感情の表し方をする光一郎に対し、何と言うべきか判らなかったのである。
モゴモゴと口を動かしてから発せられたのは、“顔を洗って、早く寝ろ”であった。
体の動かし方を忘れたかのようにギクシャクと歩み去る後ろ姿を見送った寮長は、言い忘れがあった事に気づく。
指に嵌ったままのプルタブを外すよう注意した方が良かったかな、と。
寮長の言われた通りにして寝床へと潜り込むや否や、スイッチが切れたように意識を手放す光一郎。
そのまま泥のように朝まで熟睡出来れば良かったのだが、深夜過ぎに腹の音で目が覚めてしまう。
いつもより少なめの朝食を取って以降、何も食べていなかったのだから当然だった。
仕方なく空腹に苛まれながら翌朝まで眠れずに過ごした光一郎。
翌日の練習中、フラフラした姿を江原投手に見咎められ、弛んでいるぞと叱責されるまでが1985年の夏における些細なトピックスであった。
かなり強引な展開ですが、もしも歴史が変えられるならと思いまして……。
因みに私も往時、ウグイス……ならぬ、オレンジカードをよく使っておりました。